31 (ジゼル)
沼に行きたいのにシャーンが来ない。ヒヨドリの刻はもう過ぎている。そろそろ来るのかな? もし来なかったらどうしよう、と泣きたい気分になった時、誰かが窓から覗きこんだ。
誰だった? そうだ、シャーンだ。待っていたよ、シャーン。
大慌てでドアを出る。
「ジゼル、待たせてごめんね」
「シャーン、大好き」
抱き付くと抱き返してくれる。でも、あれ? 今日のシャーンは笑っていない。
「シャーン、怒っている?」
「え? なぜ? 怒るようなことは何もないわ。それより沼に行きましょう」
うん、沼に行こう。でも、やっぱりシャーン、笑顔を見せてくれない。わたし、嫌われた?
沼に行く間もシャーンは黙ったまま。何も言わず黙々と歩いている。わたしの後ろを歩いている。
ねぇ、シャーン、わたし、シャーンと話したい。今日はオトシブミが雌を争って喧嘩していた。そこに蝶が二頭、ユラユラ絡み合うように飛んできたから、そっちについて行ったけど、途中で見失っちゃった。
シャーン、怖い顔、何かあった? あの、木のような男の子、なんだったっけ、そうデリス、あの人と何かあった? それともわたし、何かした?
「ジゼル、お願いがあるの」
急にシャーンが話し出した。
「沼の男の子に、ジゼルの名前とジゼルのお父さんの名前を教えてあげて」
「お父さんの名前……ビルセゼルト?」
「そう、ビルセゼルト。ジゼルのお父さんでしょう?」
「小鳥たちはそう言っている。でも、そうなのかな?」
「小鳥たちがそう言うのなら、そうなのよ」
シャーンは悲しそうだ。
「いいけど、どうして?」
「……お願い。何も訊かずにそうして」
「そうすると、シャーンは喜ぶ?」
シャーンが立ち止まった。わたしも立ち止まる。
「ジゼル……」
シャーン、泣いている? 泣きながらわたしを抱き締めた? 判らないけれど、わたしもシャーンを抱き返した。
「大好きよ、ジゼル」
「うん、わたしもシャーンが好き」
シャーンはわたしを抱き締めながら、泣くのを堪えているようだった。
「沼はもうすぐ?」
「うん、もうすぐ」
「行きましょう」
シャーンが歩き出す。わたしも歩き始める。
沼が見えてきた。畔にあの男の子が、今日も絵の道具を出して傍らに立ち、こちらを見ている。
「会いたかった」
わたしは駆けだして男の子に抱き付いた。男の子は受け止めてくれたけど、目はシャーンを見ている。そして抱き返してくれない。
どうして? どうして今日はわたしを見てくれない? 受け止めてくれたけど、抱き返してくれない。
どうして? わたしの事、嫌いになった? そして、どうしてシャーンを見ているの?
「シャーン……どうしてここに?」
「やっぱりグリンだったのね」
シャーンの目から涙がこぼれ始める。なんで? どうして? そしてわたしはどうしたらいい?
シャーンと男の子は知り合いで、ひょっとして仲が悪い? 男の子とわたしが仲良しだから、シャーンは悲しい?
「お願い、名前を教えてあげて」
シャーンがそう言ったのはきっとわたしにだ。さっきお願いされたこと。
「わたしの名はジゼェーラ。でも、呼ばれるのはジゼルがいい」
「……えっ?」
男の子がわたしを放した。視線をシャーンからわたしに向け、じっとわたしの顔を見る。なんだかすごく怖い顔。どうして?
「今、なんて言った?」
「わたし、ジゼェーラ。父はビルセゼルト。魔導士学校の校長。知ってる?」
男の子は魔導士学校の学生なのだから、きっと校長の事を知っているはず。
男の子はわたしをじっと見ている。ううん、睨んでいる。怖い顔をしている。わたし、何か悪いことした? 怒っているよね?
「僕の名はグリンバゼルト、グリン。シャーンの兄で、父は……」
男の子の名前はグリンバゼルトと言うんだ。そして通り名はグリンでシャーンのお兄さん。
そう教えてくれながら、グリンはどんどん怒っていくみたい。そして父親の名を言おうとして、止まってしまった。言いたくないのかな?
「父の名は……」
そう言ってグリンはわたしから目を逸らした。
「ビルセゼルト――」
「ビルセゼルト? わたしと同じ? どうして?」
「こっちが聞きたい!」
大声で怒鳴りながらグリンがわたしを見た。琥珀色の瞳が赤い光を帯びている。怒っている、グリンは間違いなく怒っている。
緑の沼が水面を波立たせ始めた。木立がざわざわと大きく揺れる。グリンが力を身体から迸らせている――稲妻が落ち、さらに大きく水面が乱れる。
「グリン、やめて、ジゼルは何も知らないの」
「連れて行け、二度と来るなと伝えろ」
再び稲妻が光り、近くの木が裂ける。
「ジゼル、来て」
シャーンがわたしの手を引いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
泣きながらシャーンはわたしの手を引いて走る。わたしはシャーンに手を引かれたまま、一緒に走った。
何が起きた? なぜグリンは怒った? でも判る。グリンは、わたしのことが嫌いになった。
シャーンと一緒に走りながら、わたしも泣いた。
グリンがわたしを抱き締めて『好きだ』と言ってくれることはもうない。きっと、もう二度とない。
わたしの住処まで走り抜けた。沼の方向で稲妻が幾つも落ちているのが判る。
「ジゼル、わたしはあなたのお姉さんなの」
泣きながらシャーンが言った。
「わたしとグリンの母親は、あなたのお母様とは違う魔女なの。でも父親は同じ。ビルセゼルトなの」
「父親が同じ。兄妹。グリンはわたしの兄で、シャーンはわたしの姉。わたしは二人の……妹か弟」
「そうよ、その通りよ」
「それは、悲しい事? 怒る事? グリンはものすごく怒っている」
「ジゼル……」
シャーンがまたわたしを抱き締めた。
「そうじゃないの。グリンはあなたが妹だと気が付くのが遅かったの。気が付く前にあなたを女性と意識してしまったの」
あぁ、そうだ、グリンはわたしと結婚したいと言っていた。
「わたしはまだ女になるとは決めていない」
「お願いジゼル、その話、今はしないで」
「うん……」
「最初からあなたを妹だとグリンが知っていたら、こんなことにはならなかった」
グリンはね、父を、ビルセゼルトを凄く嫌っているの。だからあなたが妹だと知っていたら近づくことはなかった。
「なぜビルセゼルトを嫌う?」
「それは今度話すから」
良かった、今度話すという事は、少なくともシャーンにはまた会える。
「でもね、妹だと判っていて知り合っていたならば、グリンがあなたを嫌うことはなかったと思う」
だけど、妹だと知らずに知り合い、グリンはあなたに恋をしてしまった。
「今、グリンは失恋のショックで、自分で自分をどうしていいか判らなくなっているの。自分の感情が、怒りなのか、嘆きなのか、きっと判らず苦しんでいる」
「うん、グリンはもう、わたしの事が嫌いになった」
それは強く感じた。グリンのあの目はわたしを罰したいと言っていた。
「ジゼル……」
シャーンがわたしを抱き締める。今日、何度目だろう。
「わたしはジゼルが好き。何があっても変わらない」
「姉だから?」
わたしの問いに今日初めてシャーンが笑みを見せた。
「それもあるけれど、純粋にジゼルが好きなのよ。例え妹でなくても、わたしはあなたが好きよ」




