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こがねの魚と銀の月  作者: 寄賀あける


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3/50

3  (ジゼル)

 今日はちゃんと召し上がったのですか? と、世話係の魔女が言う。そしてトレイに乗った皿の中にきれいに並べられたグリーンピースを見て嘆く。


「昨日、担当した世話係からは、セロリが丸きり残っていたと聞いています。好き嫌いはおやめなさい」


 きつい口調が向けられるが、言われたほうはなんの反応も示さない。軽くため息をついてトレイを持つと、ばたりとドアを閉め、世話係は出て行った。ガチャリと施錠する音がする。


 そこでやっと、小言の相手がドアを見る。今日は巧く誤魔化せた。食べ散らかさないで、残したものを皿に綺麗に入れておけば、罰せられる確率が低くなると気が付いていた。


 罰則は世話係によって違うことにも気が付いていた。食事を残すと怒り出す人、服を汚すと凄まじく怒る人、部屋を汚すと(ほうき)で追い掛け回す人……


 だが、毎日変わる世話係では、今日の世話係の怒りの引き金が何かを推測できるはずもない。


 この人、会ったことあるっけ? 毎朝そう感じるけれど、最近はそれを考えるのもやめてしまった。考えるだけ無駄だと悟った。世話係の性格に対策を立てるのではなく、食事は残さない、部屋も服も汚さない、それが一番だ。


 スープやソースが跳ねそうな料理は口にせず、服を汚さないよう注意して窓から捨てた。嫌いな物が入っている料理も同じように捨てたけれど、完食していることを怪しまれたので、次からは嫌いな食材は捨てないように注意して皿に残した。


 パンやパイのように、ぽろぽろ(くず)が落ちるものは必ず窓で食べた。すると小鳥たちが服に落ちた屑を綺麗に(ついば)んでくれる。


 ときどきハチミツやジャムがたっぷり塗られたパンや焼き菓子が出されたが、べとべとになった手で服を汚すを恐れて、どんなに食べたくても窓から捨てた。中でもカスタードクリームとイチゴジャムを乗せて焼いたパンは大好きで、(よだれ)が出るほど食べたかったけれど、すぐジャムがポタリと垂れるそのパンは危険だった。食べたくて、悲しくて、涙が滲んだけれど、罰せられるよりはマシだと諦めて窓の外に捨てた。


 食事の時刻になると建屋を取り囲んだ森から、さまざまな動物が窓の下に集まって、捨てられた食材を奪い合うように持って行ってくれた。どっちにしろ、建物の周囲は道もなく、誰かが通ることもなく、捨てられた食材が見つかることもない。栄養価を考えて作られた食事の大半が捨てられるのだから、当然段々痩せていき、いつも空腹を抱えているが、それでも罰されるよりはいいと思った。


 朝、目覚めて最初にするのは、枕に着いた抜け毛を集めて窓の外に捨て、窓辺でブラッシングして、ブラシに着いた髪を窓の外に捨てる事だった。そしてベッドに戻ると横にはならず、世話係の魔女が来るのを座って待った。


 洗顔するときだけは服が濡れても叱られなかった。手渡されたタオルが濡れても叱られなかった。ただ、うっかり目ヤニが残っていようものなら乱暴に擦られた。それからやはり乱暴に服を剥ぎ取られ、その日の服を着させられる。自分で着たいと思っても、それは許されなかった。留め具を一段ずらしたことがあり、酷く叱られ、それからは必ず魔女が服を着せた。誤ってスカートの裾を踏みつけ、暖炉に転がり込んで以来、服はいつもズボンだった。


 そのあと髪が整えられて、装飾品を点検された。髪は担当魔女の好みで編まれたり、結い上げられたり、そのまま垂らしたり、その日によって違っていた。垂らすだけの魔女はすぐ行ってしまうけれど、編み込んだり結い上げたり、手を掛ける魔女はそのあと必ず、『可愛い』とか『綺麗』と言い、あちこちから自分の作品を眺めた後に帰って行った。


 その様子から、可愛いものや綺麗なものを好む人が多いのだと学んでいた。ただ、何を基準に可愛いのか綺麗なのか、そこまでは判らなかった。


 部屋をなるべく汚さないように出窓か、扉を開けたクローゼットの中で過ごす。ベッドは朝、整えられてしまうから、よほど体調が悪くない限り、夜、就寝の許可が出るまでは使えない。


 そうやって毎日を過ごした。そしてそれでもなんとかなった。


 どうせ部屋から外には出られないのだから、部屋のどこかで過ごすしかなく、やることは本を読むほか特にない。せいぜい窓辺で小鳥たちを相手に他愛ないおしゃべりをするだけだ。


 何年か前には読み書きに始まって、いろいろな教師が部屋を訪れていたが、その人たちは全員、一日で来なくなった。誰もがみな、何も教えることがないと呟いて部屋を去った。教師たちが語ることは知っていることばかり、本棚の本が(もたら)した知識と同じだった。


 以前、知らないことを教えて、と本棚に願った時、本棚が選んだ本は刺繍を説明するものだった。やってみたいと世話係に頼んだら、すぐに材料と道具が用意されたので本を見ながら試行錯誤して取り組んだ。


 刺繍の出来栄えに自分では上々と満足したが、その結果、指に刺し傷をいくつも作り、服に血のシミを付けてしまい酷く叱られた。


 世話係は、その時は服が汚れたことよりも、指の刺し傷をひどく気にして、治癒術が使えないのに癒術魔導士を呼ぶなんてこともできないと金切り声で(わめ)き、指の傷が完全に跡形もなく消えるまで、闇の中に閉じ込めると言った。どんなに謝ってもやはり許してはくれなかった。


 闇の中で泣き疲れ、眠っては目を覚まし、そしてまた泣き続け、どれほど閉じ込められたか判らない。気が付くと自分のベッドの中にいた。


 窓辺に心配して集まっていた小鳥たちが、三日も姿が見えなくてどこに行ったのかと思っていた、魔女たちはぐったりしたあなたを見つけ、大慌てて癒術魔導士を呼んでいたよ、と言った。


 その件ではそれ以上、叱られることも罰せられることもなかった。気を失い、癒術魔導士を呼ばなくてはならない事態を起こしたことで、また罰を受けると冷や冷やしていたが、それはなかった。けれど、二度と何かをしてみたいと、口にするのはやめようと思った。


 何しろこの部屋の(あるじ)は、自分の世話を焼いてくれる魔女たちの機嫌を(そこ)ねないように、いつも細心の注意を払っていた。そして、それが巧く行かなかったとき、自分に課せられる罰をひどく恐れていた。


 それでも世話係の魔女たちを嫌うことはなかった。むしろ彼女たちに好かれることを望んでいた。世話係の魔女たちが怒るのは、自分が魔女たちの仕事を増やし手間を増やし、迷惑を掛けるからだと思っていた。だからこそ魔女たちに叱られないよう、方法が間違っていると知りつつも、自分では工夫しているつもりだった。


 しかし魔女たちは部屋の(あるじ)に必要以上の言葉を掛けることなく、必要外の言葉を部屋の(あるじ)が発することを禁じ、部屋の(あるじ)の心に添おうとする者はいなかった。


 昔、一度だけ抱き締めてくれた世話係の魔女が忘れられない。あの魔女のように優しく微笑んで『大丈夫よ』と抱きしめてくれる魔女が現れるかもしれない……そんな淡い期待が消えることがなかった。


 その魔女が去ってそろそろ一年、期待が叶えられることはなく、それまで叱られることはあっても罰せられることがなかったのに、最近では頻繁に罰せられるようになった。泣きたい夜は幾晩もあったが、枕を汚すことを恐れてベッドで泣くことはなかった。


 そんな夜はやはり窓辺に腰かけて、夜鳴鶯(ナイチンゲール)の声を聴いていた。夜鳴鶯はいつも森のどこかで、太陽と月の恋を歌っていた。


 広い部屋は薄絹で仕切られて、居間と寝室を兼ねていた。寝室には天蓋(てんがい)がついた大きなベッドとサイドテーブル、そしてこの部屋のもう一つのドア、バスルームがあった。居間には低いテーブルにソファー、壁には暖炉が口を開き、けれどルートとしては使えないよう封鎖術が掛けられている。


 廊下側の壁には作り付けの本棚があった。魔導士学校の蔵書庫と繋がっていて、たいていの本を呼び寄せてくれる。けれど魔法についての本は、呪文についても施術についても、一切出してくれない。さらにその横には使い心地がよさそうな机と椅子、そして廊下に繋がる、今、施錠されたドア。


 反対側はずらりと並んだ腰高窓で、この建物を取り巻く森の木々が手の届くところまで枝を伸ばしていた。


 世話係が居なくなったことにホッとしたこの部屋の(あるじ)は、食べずに隠し持っていたパンを取り出すと、大きく窓を開けた。出窓になっている窓だ。すると、近くの枝で様子を(うかが)っていた小鳥たちが待ってましたとばかりに集まってきた。


 部屋の主がパンを千切って(てのひら)に乗せると、我れ先に争って(ついば)み始めた。部屋の(あるじ)の手から、勢い余って転がり落ちる者もいた。残りのパンも千切って出窓に置くと、あっという間に小鳥が集う。


「明日は雨だね」

空を見上げて誰にともなく言う声に、小鳥がチチチと答える。


「雨は憂鬱(ゆううつ)だ。空も星も見えなくなる。そして空気が重くなる」

それに皿が濡れるから、窓の外に食べ物を捨てられない。服や部屋が濡れるから、出窓を開け放すのも無理だ。小鳥たちも雨の日は遊びに来ない。


 腰高窓の下には低いチェストが並べられ、部屋の主の日用品が納められている。そこにひょいっと腰を掛け、窓から身を乗り出して、外の世界を見降ろした。


 二階にある窓から飛び降りるのはやはり無理そうだ。今日もそう思う。わたしがもう少し成長したら、ここから飛び降りられるようになるだろうか? 部屋の(あるじ)が小鳥に問う。やめた方がいいと(さえず)る小鳥と、思い切って今、飛んでしまえ、と囀る小鳥、チチチ、チチチ、と騒がしい。


「今? 今のわたしには無理に思える。怪我をして、また怒られるだけだ」


 部屋は二階の高さにあったが、この建物にはこの部屋しかない。部屋の(あるじ)を閉じ込めるためだけに建てられて、一階は建屋を支えているだけだ。周囲に道もなく、廊下に開通した火のルートを使って世話係はここに来、そして帰っていく。部屋は閉ざされて、部屋の主は廊下に出ることもできない。


 パンはほとんど啄みつくされ、そろそろ窓を閉めるかと部屋の主が思う。森を抜けて吹く風は春の花々の香りを届けて柔らかいがまだ冷たい。もともと口数の少ない風は、明日は雨だ、と言ったきり何も語らない。


 外開きの窓に手を伸ばした時、新たに飛び込んできた小鳥がいた。

「やぁ、遅かったね。今日はもう終わりだよ」

顔なじみなのだろうか、親しげに声を掛ける。すると、(せわ)しなくその小鳥が鳴いて訴えた。


「それは……困った」

部屋の(あるじ)の顔が曇る。困っているのを知りながら小鳥は(さえず)り、懸命に訴え続ける。小鳥をじっと見ながら、とうとう部屋の(あるじ)は意を決したようだ。


 立ちあがるとベッドの天蓋を引き下ろす。机の引き出しからハサミを取り出して、細く裂き始める。それを()じって繋げて廊下に通じるドアのノブに結び付け、反対側を窓から垂らした。


「さて、わたしは重いか、軽いか?」

クスッと笑い、急ごしらえのロープに(つか)まり、慎重に降りていく。びりびりと布が少しずつ裂けていくのが手に響く。


「もう少し、もう少し」


 地面はすぐそこ、思い切って飛び降りる。勢い余って尻もちをついた部屋の(あるじ)、見守っていた小鳥たちが群がってくる。ぱたぱたと服を叩きながら、罰せられるほどの汚れかどうか確かめる。幸い乾いた地面はたいして服を汚さなかった。巧く行けば気付かれない程度だ。


「大丈夫。怪我もないし、服も汚れていない」

小鳥たちに余計な心配を掛けたくない。


「それで? (つの)引掛(ひっか)けた鹿はどこ?」

助けを求めてきた小鳥の後を追って、どんどんと森の奥へと進む。ちゃんと帰れるのだろうかと不安になって時々振り返るが、帰れなければそれでもいいか、とも思う。そして、鳥たちに聞けばいいんだと気が付いて、自分の間抜けさを笑った。


 森は木漏れ日が輝いて明るく、進むにつれて様々な花の香りが漂ってくる。それに新緑が付き添っている。所どころで蝶が羽を(ひらめ)かせ、恋の相手を探している。新鮮な命たちが春を謳歌している。


「あぁ、あれだね」

たどり着いた先には枝に(つの)を取られ身動きできなくなった鹿が、時どき後ろ足を蹴り上げて、なんとか逃れようと足掻(あが)いていた。


「外してあげるよ。じっとしていられる?」

興奮した鹿はこちらの言葉を聞いてくれない。案内した小鳥と付いてきた小鳥たちが一斉に、チチチと鳴いて、辺りが騒然とする。


 そこでやっと鹿が温和(おとな)しくなった。小鳥たちの声を聞き入れたのだ。


 部屋の(あるじ)がそっと鹿の胴に触れる。鹿は怯えて震えるが、触れた手を動かさずにいると、落ち着いてきた。小鳥が部屋の(あるじ)の腕に一羽二羽と留まっていったのも鹿を安心させただろう。


 腕を徐々に鹿の頭に近づけて、最後には鹿の頬を撫でた。鹿から怖がる様子が消えた。目を閉じて、好きなように撫でさせている。


 頷いて鹿から手を放すと、(つの)をとらえて離さない枝をじっくりと見た。しっかりと(つの)に絡みつき、鹿を動かそうにも足元が低くなっていて、(つの)を外そうとすれば、余計に(つの)が引っ張られる。どうしてこんなことになったんだろう? と、首を(かし)げるしかない。


「うーーーん、枝を折るしかないかなぁ」

その呟きに鹿を捕らえた木が幹を震わせる。


「どこでなら折ってもいい?」

枝に沿って指を滑らせる。小鳥たちがその様子をじっと見つめる。


「ここか。ここならいいんだね?」

もう木は震えない。部屋の主が頷くと、見つめていた小鳥たちの中から、コゲラとアカゲラが三羽ずつ飛び出して、示された場所を(つつ)きまわし、あっという間に枝が折れた。


 解放された鹿が喜んで跳ね上がるのを見てから、部屋の(あるじ)は木の幹に(てのひら)を当てると『ありがとう』と呟いた。木は幹を震わせて、それに応えた。


 鹿は首を部屋の主にこすり付け、感謝を示しているようだ。その頭を撫でながら

「気を付けるんだよ」

(ささや)くと、鹿はもう一度跳ねて、それから森の奥へと消えていった。


 見送る部屋の(あるじ)、ある一点で目を止めた。木立の間から、緑に光る何かが見えた。


 沼だ。こんなところに沼があるんだ。興味を引かれ(ほとり)に降りて底を(のぞ)きこむ。すると、きらりと黄金(こがね)に光る影――水中を横切って、沈むように消えて行った。

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