腰痛おじさんと草原の追走劇
森を抜けると、眼前に広がるのはどこまでも続く草原だった。
沈みかけた夕日が黄金色に輝き、風が草を波のように揺らしている。
「……やっと……森を出たか……」
俺は腰をさすりながら深呼吸した。
それだけで――バキィッ。
「腰痛様が風を呼んだ!」
「腰音に合わせて行進だ!」
「お前らまだ合唱してんのかよ!?」
擁護派は勝手に隊列を組み、腰音にリズムを合わせて歌い始めた。
「ポキッ♪ ポキッ♪ 腰の響きに未来を乗せて~♪」
「だから歌うな! 草原中に響くだろうが!」
その横で、精霊少女は俺の袖を握ったまま虚ろな目で呟く。
「……外側、近い。もっと……近い」
「もう来てんのかよ!? 頼むから黙っててくれ!」
畑を思い浮かべて必死に前を向こうとするが、足元は重く、腰は悲鳴を上げ続けていた。
草原は広く安全に見えるのに、まるで逃げ場がない檻のように感じられる。
草原の向こうに、旗が翻るのが見えた。
赤いマントをなびかせ、王子クラウディオが馬上で剣を掲げている。
「腰痛を逃がすな! 奴こそ国を滅ぼす元凶!」
「いや国を滅ぼしてんのはお前らの政治だろ!」
思わずツッコミが口から出たが、誰にも届かない。
討伐軍の兵士たちが一斉に突撃してくる。鎧の音と地鳴りが草原を揺らし、地面を蹴るたびに腰痛がバキバキ鳴った。
「聞け! 腰痛が鐘の音を鳴らしている!」
「腰痛様が祝福してくださっている!」
「違ぇぇぇ! ただの発作だぁぁ!」
擁護派の信者たちは勝手に人壁を作り、討伐軍の前に立ちふさがる。
「腰痛様を守れ!」
「腰痛の敵は我らの敵!」
兵士と信者がぶつかり合い、草原のあちこちで取っ組み合いが始まった。
「腰痛は国宝だ!」
「腰痛は災厄だ!」
「腰痛は整体の神だ!」
「なんでまた整体が混じってんだよ!」
夕日に染まる草原は、一瞬にして腰痛をめぐる宗教戦争の戦場と化した。
剣戟と怒号が響き渡り、俺は少女を抱えたまま必死に退路を探した。
草原を切り裂くように、冷ややかな声が届いた。
「腰痛波動、外側との同調率……八十七%。臨界近し」
「また出やがったな、算盤野郎ぉ!」
現れたのは魔王軍幹部ヌメロ。手に算盤をはじき、魔導書を片手に冷徹な眼差しをこちらに向けている。
「腰痛持ち個体、観測外。因果干渉、加速。外側との境界……崩壊中」
その言葉通り、草原の空がざらつき始めた。
夕焼けの赤が砂嵐のようにノイズに呑まれ、色を失っていく。
「な、なんだこれ……!?」
討伐軍の兵士が悲鳴を上げた瞬間、影が伸び、兵の一人を飲み込んだ。
そのまま、まるで最初から存在しなかったかのように姿が消える。
「腰痛に喰われた!」
「だから違うっつってんだろ!」
振り返れば、草原の奥に“外側”が立っていた。
黒いシルエットの身体、瞳の代わりに浮かぶ「ERR」「000」「∞」の記号。
その存在は、見ているだけで目の奥がじりじりと焼けるように痛い。
精霊少女が俺の袖を強く握り、震える声で呟く。
「……外側、もう……境界を越えてる……」
「越えんなぁぁ! 草原まで来んな!」
ヌメロは冷徹に算盤を弾きながら言った。
「腰痛波動、もはや制御不能。次の衝撃で、外側が完全に顕現する」
「おい待て! 俺は畑帰りたいだけだぞ!?」
俺の絶叫は、ノイズ混じりの風にかき消されていった。
ノイズに侵食された草原を、俺は少女を抱えて必死に駆けていた。
背後では討伐軍と擁護派が入り乱れ、ヌメロが冷徹に計算を続けている。
「腰痛波動、次の発作まで十秒……九秒……」
「カウントすんなぁぁ!」
だが予想通り、いや予想以上に――腰が鳴った。
――バキィィィン!
草原の地面が盛り上がり、轟音とともに裂け目が走る。
倒れた巨石が連なり、まるで一本の道のように延びていく。
「退路生成……確認」
「生成じゃねぇ! 事故だ!」
その道を駆け抜けると、遠くに見慣れた風車が見えた。
村だ。
あの畑が、確かにそこにある。
「……やっと……帰れる……!」
涙が出そうになった瞬間、少女が小さな声で告げた。
「……外側、もう止まらない……」
振り返ると、草原全体が黒いノイズに呑まれていた。
外側の影は人の形を越え、空を覆う巨躯となってこちらを見下ろしている。
瞳に浮かぶ「∞」の文字が、冷たく輝いた。
「帰らせろよぉぉ! 畑に帰らせろぉぉ!」
俺の絶叫が草原に響く中、外側の影はゆっくりと一歩を踏み出した。




