月に満ちる ―prologue―
人類が地球を捨て、月に住むようになってから数百年。
人類は月から地球を眺め、感動と羨望の溜息を零すようになった。
紺色の宇宙空間に輝く、青い星。けれどそれは、偽りの地球の姿だ。
かつての地球の姿をガラスに投影し、現在の地球に重ねて見ているにすぎない。
本当の地球は今、死の星と化している。
ある日を境に、地球には命あるものが住めなくなったのだ。
なぜそのようなことになったのかを、ここで言及するつもりはない。
ただ一つ言えること。
それは、人類は生き残るために、地球を捨てる決断をしたということだけだ。
しかし、月への移住は困難の連続だった。
急を要した移住だったため、様々な準備が足りなかった。
当然、すべての者を月へ移すことはできず、人類は選別され、必要であると思われる者たちだけが、新たな大地へ踏み出すことを許された。
現在に至るまでのとある過程では、人類は月と地球、二か所に分かれて生きていたのだ。やがて、地球に住む人類が死に絶える、その時まで。
けれど、月へと移った人類たちにも苦難は待ち受けていた。月面は、まだ整備されていない未知の大地だったからだ。
宇宙服無しで外へと出ることは叶わず、密閉された空間で、家畜のように過ごす日々。耐え切れない者は狂い、絶望から自ら命を絶つ者もいた。
絶望と希望の狭間で生き抜いてきた人類は、いつしか、一つの真実に到達することになる。
過酷な月で生きていくためには、この繊細で、手間のかかる肉体は不要であると。
人類は自らの存在を丸ごと移すべく、月に適応した新たな身体を創ることを考えた。自らの脳の複写をコンピューターへと移し、永久保存したのだ。
そうして人類は肉体を捨て、半永久的な命を得ることになった。
肉体がないため、腹を空かすこともなく、絶望に苦しむこともない。万が一生に飽きても、回路を遮断し眠ることを選択すれば、その苦しみからは解放された。
その代わり、喜びや楽しみ、何かに感動する心も、人類は失うことになってしまった。起きた物事も、情報として処理をするだけ。けれどその無感動な作業を、虚しいと思う心さえ失っていた。
存在を丸ごと移すことは、残念ながら失敗に終わってしまったのだ。
けれど人類の地球に対する郷愁と憧憬だけは、不思議なことに、どれだけ年月が経とうとも色褪せることはなかった。
人類のその執念とも呼べる強い想いが、やがて新たな道を切り開くことになる。
人類は地球を出る際、地球に関する様々な情報が記録された媒体を、月へと持ち出していた。かつての故郷、地球の姿を忘れないために。
人類はその記録媒体を使い、とあるものを生み出した。
実際の地球を元に創られた、メタバース。
そこは人類以外のすべての生物を、微生物から大型哺乳類に至るまで、川や海、大地や空にも、ありとあらゆる生物を投影し、忠実に再現された世界。
そこに仮初の肉体を持つことで、人類はかつての地球でのような生活を、手に入れることが可能となったのだ。
初期の頃は、試験者として選ばれた者たちが人類を代表して、月から地球へと降り立った。
彼らはあえて月での記憶を消し、地球に生まれた一人の人間として、様々なことを経験した。
大地を踏みしめ草原を駆け、
見上げた月の美しさに涙した。
波打つ浜辺で沈む陽を見つめ、
夜の暗闇に恐怖を覚えた。
失くしたはずの、喜び、感動。
排除したはずの、苦しみ、悲しみ。
それらを再び手に入れた彼等は、
誰かを愛し、あるいは憎み。
後悔を抱え、あるいは満足しながら、
いかにも人間らしく、その一生を終えた。
ここで生活した試験者たちの記憶は、メタバースのさらなる充実のための記録として、月に保管されているコンピュータへと集められた。
その後は次々と、次の試験者たちが地球へと降り立っていった。
いつしか人類は、月を捨て、地球のメタバースの中で生まれては死ぬという、永久機関を創り出した。
数人の管理者を月に残し、人類は冷たい身体から、実態のない仮初の身体へと自らの存在を移したのだ。
現在ここにいる彼等は記憶を消し、地球で生まれた生命として生活している。
それぞれが、それぞれの役割をこなし、あらゆることに一喜一憂している。
ただ時折、私のように、何故か消したはずの記憶が蘇ってしまう者がいる。コンピュータの不具合だ。
厄介なのは、その不具合はこの一生を終えるまで、直すことができないということ。
それでも、次の人生に移行する際には、その不具合はちゃんと正されるように調整されているらしい。
ようするに、私は今の人生だけをどうにかやり過ごせば、また生ぬるい現実の中で生きていけるということだ。
人類が月を捨て、地球で生活するようになってから数百万年。
自らの存在がただの幻だと知ってしまった私は今、地球から月を眺め、郷愁と悲哀の溜息を零している。
『月いるよりマシだ』
管理者に言われたその言葉がなかったら、おそらく私は今、生きてはいなかっただろう。
地球にいられることの幸運。
それを知れたからこそ、虚しさと折り合いをつけつつ、私は今も生きていられるのだ。
月から視線を外し、私は固まった筋肉をほぐすために首を回した。
「あ~あ。コンビニ寄って、ビールと唐揚げでも買って帰るか」
冷たいビールも、熱々の唐揚げも。
すべて幻なんだけどな。
そう口の中で呟き、私は帰路を急いだ。
歩き出した私を、月が追ってくる。
きっと管理者が、私を見張っているのだろう。
「言いふらしたりしないって。誰も信じないし」
輝く満月の下、私は独り言ちた。
私は今夜も暗闇の中で眠り、明日になったら朝陽を浴びて起きるだろう。
朝食を取り、仕事へ行き、誰かと笑い、誰かと共に生きる。これから死ぬまでの間、何百回、何千回と繰り返されるだろう、その営み。
何気ない日常。
滅多に起こらない非日常。
明日には忘れてしまう感情。
生涯忘れられない想い。
数百万年かけて、私たちが経験してきたそれらのすべてが。
空へと浮かぶ、あの月に満ちている。