ことの始まりの始まり
翌朝、慣れたスーツに袖を通し、ネクタイを締める。
赤く腫れた目の私をまっすぐ見つめるように、鏡の中の私が覗いていた。
私は、腫れた目をそっと指でなぞり、確かめるように、鏡の中の自身に語りかけていく。
無論、私は『真面目』である。
厳密にいうと、『真面目』というレッテルを世間、すなわち私を形成する親しい人たちに貼られていたのだ。
生まれ落ちてこの方、親から与えられた『愚直』という常軌を逸した奇天烈かつ奇妙な名は、私にとって重責であったことは事実である。
“愚かしいほど正直で、不器用なまでにまっすぐ生きよ。”
そんな親の願いを、私は文字通り、寸分の狂いもなく体現せねばならぬと信じて疑わなかった。
だが、それももはや重責ではない。
何故ならば、自らが『真面目』である人生を懸命に努め、自らが形成した、揺るぎなく私自身そのものであるからだ。
人様に迷惑をかけぬよう、常に三歩下がって行動し、誰かの困りごとには率先して首を突っ込み、苦手な飲み会とて、社会という名の複雑怪奇な器官の目詰まりを防ぐための義務と心得ていた。
こうして、積み立ててきた『真面目フィー』なる不可視なポイントは、決して自身を救済するための打算的なものではなかった。
愛想笑いを浮かべ、気の利いたお世辞を並べるような、他人を隔てる顔。胃酸が逆流するような精神的負担による、この度の健康診断結果である『十二指腸炎、経過観察』。
それらの全てが、私を蝕むものではなく、『真人生』へと導く、揺るぎない礎となっていたのだ。
『真面目』である人生は、私を縛りつける鎖ではない。
支度を終えた私は、いよいよ、この玄関の扉を開こうとしている。
私自身の足で『真人生』へ踏み出す時が来たのだ。
さて、突然ではあるが、とある男の『真面目』である人生の経過観察録は、ここまでである。
なぜなら、私という存在は、もはや紙の上に綴られた創作ではなく、今を生きる史実そのものである。
誰に咎められることもない、紛れもなく、私自身が選択した人生でなければならない。
この物語を手に取った読者にもまた、自身が紡ぐべき人生があるように、この物語を紡いだ作者でさえ、私の人生の続きを紡ぐことはできないのだ。
何故なら、私の人生は、私の人生なのだから。