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確かなこと

翌朝、郵便受を開けると、上司の連絡通り『有給休暇取得通知書』が届いていた。


与えられた期間は、十日間。これ以上の休みは、社会からの『逸脱』を意味する。


私に、漫然と過ごす時間はない。何としてでも有意義なものにしなければならないのである。


この『有給休暇取得通知書』こそが、『本来あるべき生』すなわち、『真人生』への『切符』であると、寝惚眼の私は確信した。


私は、限りある有給休暇の中で『真人生』を掴まなければならないのだ。


とりあえず、手始めに、身近にできることを片っ端から試してみることにした。


最初に手を伸ばしたのは、自己啓発本だった。

ネットで高評価のものを片っ端から買い漁り、付箋を貼り、重要な箇所は大学ノートに書き写し、一字一句、完璧に消化していく。


家具の配置は風水の教えを請負い、模様替えをし、照明の色は暖色、いくつかの観葉植物を、教えに習い、配置していった。


それだけに留まらず、私は客観的な視点や刺激を受けられると考え、自らに手紙をしたため、ポストに投函し、数日後に自ら受け取る『私的文通』を始めた。


手紙の内容は『絶え間ない努力に感服する』といった励ましから、『もっと効率的な時間の使い方があるはずだ』『不毛である』『そもそも気持ちが悪い』など、厳しく辛辣な指摘まで多岐にわたった。


全ては、心身を整え『真人生』ための合理的プロセスとして、私なりに完璧に遂行したつもりであったが、しかし、小さな揺さぶりでしかなく、決定的なものではなかった。


ただ、いたずらに有給休暇が過ぎていくだけで、私という存在自身が歪み、このままでは『真面目』であった人生でさえ、消えてしまう、そんな空虚な感覚が日ごとに募っていった。


気づけば、残りの有給休暇は1日となっていた。

すっかり有給休暇を持て余した私は、ぼんやりとテレビの前に立っていた。


テレビの中では、不確かな星座占いが流れている。

偶然にも、私の今日の運勢は1位。『旅に出るのが吉。親しき友人と旅に出よう』と。


この時、私は何故が腑に落ち、ベッド隅の色褪せたぬいぐるみに目を向けた。


転勤の多い家で育った私は、幼い頃から周りに馴染めず、友達と呼べる存在が少なかった。


そんな私を不憫に思った両親が買い与えてくれた、このぬいぐるみは、まさに唯一無二の『友人』であり心友なのである。


これから私は、『友人』と旅に出るのだ。


お気に入りになり過ぎたクタクタのTシャツに袖を通し、支度をする。


目的地はない。ただ、遠くへ。

私は、ぬいぐるみをカバンに収め、家を飛び出した。


大きく膨らんだカバンを背負い、私は駅へと歩いた。


改札を抜け、馴染みの立喰そば屋を通り過ぎ、規則正しく押し寄せる通勤の波をかき分けていく。


やっとのこと、電車に乗り込んだ私は、窓枠に額を預ける。しばらくすると、見慣れた街並みが音なく流れ始めた。


首が傾くほどの高層建築物が、手で掴めるほど小さくなっていく。


見慣れた景色が遠ざり、消えていくたび、私の『真面目』である人生を形成していた何かが、静かに霞んで、消えていく気がした。


電車は黙々と、私を乗せて走り続ける。


いつしか、窓の外は、私の見慣れない景色へと変わっていた。


見知らぬ街で、見知らぬ駅のホームで止まり、私が過ぎ去っていく。


私の知らない日常がそこにあって、私の知らない人々がいる。この街の何一つ、私は知らない。


そして、この街もまた、私がここにいたことなど知りもしないのである。


私が知らない街、この街もまた私を知らない。


隔絶された確かな世界が、私を深く震わせた。

私がいてもいなくても、寸分の狂いもなく世界は、廻っている。


そんな当たり前で、普遍的なことが、今の私に新く眩しかった。

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