背徳の時
ぼんやりとした意識の底から、声が聞こえた。
ゆっくりと瞼を開けると、眩しい有機的な光が視界に飛び込んできた。遠くで、電車の走行音が規則的なリズムを刻んでいる。天井に見慣れたシミはない。
傍らに立つのは、駅員らしき男だった。
腕には『救護』と書かれた腕章が見える。どうやら、ここは救護室で、私は倒れていたらしい。
立喰いそば屋に入り、店を出たことまでは覚えている。そこからの記憶が曖昧である。
そもそも、店を出た以上の記憶など無いのかもしれない。
胃の奥からこみ上げる不快感こそが、私が自ら招いた醜態であり、この顛末こそが答えであろう。
要するに、私は食べ過ぎたのである。
差し出された水に、私は反射的に体を起こした。
ありきたりな感謝と引き攣った笑顔で深々と頭を下げ、水を受け取り、足早に救護室を出た。
先ほどまでいた密室とは対照的に、喧騒とした世界が今の私に痛い。
そばっ腹を抱え、ベンチに腰を下ろし、ふと視線をやると、駅構内の大時計が目に留まった。
すでに短針は九時を回り、出社時間をとうに過ぎていることに、今となって気が付いた。
慌ててポケットから携帯電話を取り出すと、上司からの着信履歴が残っていた。
おそらく、一生分の着信の数ではないだろうか。
私調べに基づく。異論は認めよう。
携帯を握りしめ、私は思考の渦に沈んだ。
頭の中で、いくつもシュミレーションが試行錯誤される。
立ち食いそば屋で『デラックスハイグレードスタミナ盛りそば』の背徳に溺れたあげく、人様に迷惑をかける失態を晒したなど、口が裂けても言えない。
要点をまとめることが大事である。体調を崩し、安静にしていたという『事実』だけで十分ではないのか。
『デラックスハイグレードスタミナ盛りそば』の背徳に溺れたという『真実』は伏せ、伝えるべき偽りのない核となる『事実』を選び、言葉を慎重に並べることが回避策であり、最適解と私は考えた。
深呼吸を一つ、電話をかけた。
携帯を耳に当てると、呼び出し音が鳴り響き、数回のコールの後、聞き慣れた上司の声が聞こえた。
その声は、普段の厳しさの中に、わずかな心配の色を滲ませているように感じられた。
私は、先ほど頭の中で構築した言葉を、間違わないよう必死で努めながら紡ぎ出した。
今朝、駅の構内で急に体調を崩したこと。
吐き気と目眩がひどく、駅の救護室で休んでいた旨を、簡潔に伝えた。
上司からの返答に、私は耳を疑った。
『有給。休暇。休息。』
上司は、私に体調を気遣う言葉をかけ、無理をしないよう促した。
私の『真面目』である人生においてコツコツと積み立ててきた『真面目フィー』なる不可視なポイントが、突如現れた人生最大の不測の事態において、図らずも私を救済したのだ。
私は己に言い聞かせた。
嘘は言っていない。
けっして、嘘は言ってないのだと。
電話を切った私に、どこか後ろめたさが残ったのであった。