背徳の朝
その朝、私は一睡もできないまま、夜明けを迎えた。
熱は引いたものの、倦怠感の先に、不可逆的に変容してしまった何かが、胸の奥で、普段よりも強く脈打つように感じられた。
いつものようにスーツの袖を通し、ネクタイを締める。
鏡に映る自身の姿に急かされるように、私は家を出た。
駅の改札を抜けると、構内の上り線ホームの片隅に佇む、立喰いそば屋がある。
立ち上る湯気と共に、力強くも混じりけのない澄んだ鰹出汁の香りが、改札を抜ける夥しい数の背広姿の男たちの胃袋を掴んで離さないのだ。無論、私もその一人である。
間口の狭い店内に一歩足を踏み入れれば、湯気とだしの香りが一気に食欲をくすぐる。寸胴鍋からは、くつくつと熱気を帯びた液体が立ち上り、無骨な店主が、私の視界の中でわずかに歪んで映る。
店に据えられた食券機の前に立つ。
カウンターの向こうで、寡黙な店主が、客の差し出す食券を確認するたび、淀みない手つきで麺を茹で、トッピングを盛り付けていく。いつもであれば、私は迷うことなく『かけそば』のボタンを押していた。
最安値であり、多忙な店主の手間を掛けさせないこの一品を注文することは、まさしく社会人としての心得そのものであるからだ。
だが、今日の私の指は、かすかに震えながら、ボタンの上で静止した。
ごくりと、乾いた喉が音を立てる。
長年、コツコツと積み上げてきた『真面目フィー』なる不可視なポイントを、今こそ使う時だと、私は漠然と悟った。このささやかな逸脱が、私のあるべき人生への救済となるのかもしれない。
混沌とした店内の喧騒がぼやけて、鼓動だけが響いて、やがて消えていく。
まるで糸が切れたように、私の指は、メニュー表にある全てのトッピングを押した。
『かけそば』の文字が印字された食券に、数珠つなぎになったトッピングの食券の列を差し出す。
店主の、茹で上がった麺をすくい上げる手が、微かに宙で固まったのを、私は見逃さなかった。
無骨な表情の奥に、わずかな驚きの色が宿ったように見えた。だが、店主は何も言わない。ただ、いつもよりほんの僅かだけ間を置いて、カツン、と丼が置かれた。
そこには、湯気を立てるそばの上に、卵の黄身が満月の如く輝き、その周囲を埋め尽くすように、海老天、かき揚げ、肉、ワカメ、ネギ、そして油揚げといった、ありとあらゆるトッピングが積み重なっていた。まごうことなき、私の注文した『デラックスハイグレードスタミナ盛りそば』が、そこにあった。
私は箸を取り、混沌とした具材の山の隙間から、琥珀色のつゆの底に沈む黄身を、そっと崩した。
まろやかな卵の旨みがだしに溶け出し、これまでの私の『真面目』である人生には存在しえなかった、複雑で背徳な味わいが口いっぱいに広がった。
店主は再び寸胴鍋の熱気の向こうで、次の客の注文を捌いている。私は、その背中から、確かなものを感じ取っていた。
言葉ではない。この一杯の、常識を逸脱したそばこそが、私にとっての始まりの一歩であることを、私と店主は、無言のうちに共有したのである。