湖面の密室
「どうやら、道に迷った、と言って良さそうね……」
引っ越して来たばかりと云うこともあって、私はこの辺りの地理を知らない。
それを前々から気にしていたために、私一人で家の外を出て、一帯を散策していた、つもりだった。
道から少し外れ、なんの気なしに森に入ったら、しだいしだいに奥に飲み込まれ、もう外に出られないありさまだ。
──どうしよう。
不安だった。
一般に、迷子とは家に帰れないことを指す。
いまこの状況は、まさにそれだった──五里霧中にて暗中模索、外に出る手がかりさえも掴めない。
しかしまあ、遠大な目で見れば。
大きく云って、私は人生単位で迷子だと言える。
だってそうだろう?
家に帰ったら安堵がある。
だから家に帰りたいのだ。
だけど──私の家には、安堵などない。
『神殺し』の罪人と家族に蔑まれ、不遇をかこって暮らして来た。
だから。
私は常に不安だった。
私は彷徨える、迷子なのだった。
しているうちに洞窟を見咎めた。
穴の背は低く、天井には氷柱が垂れ下がっていた。
きらり。
私の顔が反射する。
氷柱の面には目が映っていた。
それを、私は強く見返すも、目を合わせることはつらかった。
だって、額の線が見えたから。
普段は前髪で隠しているものの、氷柱を見上げて横に逸れたのだ。
頭上にあまねく下がる氷柱には、私を見つめる目がたくさんだった。
それどれもが、私のことを憎んでた。
額に三つ走る獣の爪痕が、
恨めしいと云うように、私を。
見ていられなかった。
あの目は、私自身の目だ。
私を蔑む周りを蔑む、
そしてそれよりも、出生を恨む。
あった氷柱の大群も溶暗し、闇に溶けて水のように見えない。
私は奥へ行き、やがて何かの音の影を聞く。
なんの音だ。
「……!」
唸り声だった。
抜き足差し足忍足で行く、
私の耳朶を震わせたものは、不気味な生き物の声のようだった。
──ひたり。
こちらに、足音が近寄るようだった。
私は不安になって駆け出した。
否、不安なのはずっとそうだった。
暗闇で先が見えないのも同様だ。
いつもと同じで、私は彷徨える迷子なのだった。
暗い、怖い、襲われる、不安だ、不安なのだ!
半ば脅迫的に駆け出したが、足がぬかるみに取られるようだった。
実際はぬかるみなんてないけれど、暗闇が恐怖が不安が足裏を、接地する地面をぬかるみにさせていた──とうに平衡感覚は彼方へと失せていた。
肩を何かの爪が食い込んだ。
「──っ!」
不安に追いつかれたと思った。
生まれてからずっと私を追いやった、不安についに追いつかれたのだと。
その錯覚は生き物という実体を成して、私の肩口あたりに食い込んだ。
──死んだ。
私は目を瞑り運命を享受するべく全身を硬化させ、ややあって何も起きないことに気がついた。
「ん……あれ?」
目を開けると、辺りは明るかった。
橙色の灯りに照らされて、暖色の暖かさを備えた洞窟が立ち現れていた。
背後を省みる。
生き物が死んでいた。
それはいわゆるモンスターだった。
うつ伏せに倒れ、その背中には変わった紋様の傷跡を付けていた。
星──のように見えた。
五つの頂点と、五つの谷底を備えた傷跡が、モンスターの背中を穿つ恰好で、不可逆にくっきりと肉を抉っていた。
この痛々しい星の傷跡が、夜空に明るく輝く星々に代わり、この暗闇を照らしたのかと本気で考えた。
だがそれは違った……予想は当たらなかったのだ。
灯りはモンスターの近くに立っていた。
より正確に叙述するならば、灯りを手にする人が立っていた。
松明を手に取った、それは少女だった。
少女は左手に松明を持って、右手には武器? のようなものを持っていた。
持ち手に長い鎖が伸びていて、その先に奇怪な形の金属があった──察するにアレが星になるわけだ。
鎖の先端の奇怪な金属は尖り、それが後ろになるにつれ複雑に広がった。
そして広がった金属は裏からは、星の形をしているようだった。
松明の光が金属に反射して、右手に握られた星は煌めいた。
──さながら星あかりだ。
私より少し上背があるだろうか、彼女は私の方を正対し、
「大丈夫、怪我はないっ!?」
「え、ええ……」
「よかったぁ!」
とそう云った。
それは友人に対してするような笑みだった。
※
「わたし、マリナっていうの。貴方は?」
引き続き友人にかけるような笑みで、彼女は、マリナは、私に名を聞いた。
「私は──」
不思議と『神髄』とは言えなかった。
「私は──グラン・ランブルク」
そう言った。
思えば本名を名乗るのは久しぶりだった。
『神殺し』の貼られたレッテルを、そのまま『神殺しの脳髄』と転化させたあと、私は略して『神髄』と呼ばれている。
被差別的な呼称ではあるけれど、いざ素の自分を晒すことになると、なんだか身に纏う鎧がなくなるようだった。
そして同時に、重りがなくなった。
差別を受けて然るべき背景を、バックヤードを背負わずに済んで、グラン個人として立ち振る舞えるのだ──なんだか心持ち楽になるようだ。
「いい名前ね、よろしくグラン!」
「ええ、こちらこそよろしく……マリナ」
地元では『神殺し』は周知のことなので、生まれたときから私がそれだとは知らぬ者はいなかったせいもあり、友人になるなんて望むべくもないことではあったけど、そうか、ここではその限りではなさそうだ。
『神殺し』の罪科は知らぬ者はない。
ただし、越してきたばかりのグラン・ランブルク、私が『神殺し』の罪を背負う人間と、この辺りの人たちは関知していない。
氷柱に映った傷痕を知らない。
友達になることが枷とは──思われない。
「ありがとう。助かりました」
「いいって。敬語もやりにくいし、タメ口でいいよ」
「た、タメ口?」
急に言われると何か照れ臭い。
だが一応私は従うことにした。
「ええと……マリナ」
「うん」
「いいとは言うけれど、それでもやっぱりお礼をさせて? 貴方がいなければ死ぬところだった」
マリナは私に白い歯を見せて、「へへ」
「何か、私にできることはない? お礼になることならやらせて欲しいのよ」
それを受けマリナは思案顔になり、
「まあ、困ったことは、一応あるけれど……」
と口籠った。
「あるなら、遠慮なんてしなくていい。私にできることなら言って、お願いよ」
少し必死すぎたかもしれない。
だけどこれくらい私は救われた気持ちだった。
暗闇で、迷子で、どうしようもないところ、マリナは──彼女は救ってくれたのだ。
擬似的に人生を救われたようでもある。
私はずっと、生きているあいだ迷子だったから。
家に近い道を、見つけたようだった。
「じゃあ、一応言うだけ言うね。この洞窟の奥まったところには、周囲を洞窟の壁に囲まれてこそいるけれど、一瞬外気に触れられるところがある。中庭のような恰好になるのかな。とにかく外に出られる場所があり、その中央には湖があるの」
その湖面には島が浮いている、とマリナは言った後、
「そこに仲間の死体が見つかって、しかも密室であることがわかったの」
室外の湖で?




