過去篇⑤
ジギルを物置部屋に呼んだ方便に、二つ目の〈門〉のことを使っている以上、私は体として、そのことについて話さねばならなかった。
グラスの中身をかけた謝罪もそこそこに、誤魔化し誤魔化しでそれらしい質問を幾つかしたのだが、そのうち一つに真実興味深い点が見つかった。
「え、鏡の世界って一つじゃないんですか」
返ってきた返答に、驚きつつ私はそんなことを言う。
「ええ、確かめたのだけど、〈門〉に入って、たとえば物置部屋で待ち合わせてしても、違う〈門〉から中に入ったら、同じ物置部屋に向かおうとしても、待ち合わせが成功することはないの」
「ど、どうして」困惑して、私。
「だから、別の世界なのよ……変だけど。〈門〉一つにつき、鏡の世界は別個に一つある。だから、一つ目の〈門〉から入った物置部屋は、二つ目の〈門〉から入った物置部屋と違う。見た目には全く同じようだけど、実際はそれぞれ別の世界なの」
てっきり、鏡の世界が一つだけあって、その世界に出入りする為の〈門〉が、複数なんだと思っていたけれど、その実は逆で、まず〈門〉があって、その数のぶん鏡の世界があるらしい。
つまり、〈門〉は〈門〉というよりも、それ自体世界と言って嘘じゃない。
なんかややこしいな……〈門〉は〈門〉であり、同時に〈鏡の世界〉であるわけか。
「ありがとうございます。いやあ参考になりましたよ」
本来以上の収穫を得れて、充分満足した私は、要件が済んだことを告げた。
二人が部屋を出るのを見送って、再び二つ目の〈門〉に向き直る。
「さて、まだ確かめなくてはならないことが、私にはあるわ」
私は、ジギルは不可視の薄い膜のようなものが、あらゆる物理攻撃を防いでしまうから、現実世界では無敵と思っていた。
だが、果たして本当にそうだろうか。
ジギルは、まったくの暗闇で不意打ちに気づく。
ならば、物理攻撃を防ぐ能力は、気付いてから展開しているのではないか。
防御の能力は、常時展開されていると考えていたが、全ての攻撃に気付けるなら、常に展開しておくことはない。
攻撃があれば適宜展開し、それで防ぐことだって出来る。
だとするなら、気が付かなければ対応も出来ない。
常時展開してないとすれば──だけど。
「っ……と」
二つ目の〈門〉をくぐり、鏡の中に抜ける。
全てのものが左右逆になり、同じでありながら異なるものだった。
鏡には、私が写っていなかった。
ルールとして、鏡/現実に『持ち込んだ』ものは、元の世界から存在しなくなる。
私も鏡に『持ち込まれた』ものだ。
だから、元の世界──現実世界から存在しなくなり、現実世界を写す鏡面に、私の姿が写らないわけだ。
ふと、床にあるゴミに目を落とす。
鏡にかざして見るともなく見ていると、私が鏡に写らないせいで、ゴミだけが浮いているようになっていた。
鏡には現実の光景が写る。
つまり、実際に現実世界でも、ゴミだけがふわふわと浮いているわけだ。
「鏡の世界で物を動かすと、現実でもその通りに動く……『持ち込まれた』もの、という例外を除き、この法則に嘘は無いわけか」
なら、試そうとしていることも試せるな。
そう思い立って、私はジギルの元へ駆け出した。
ジギルは別の部屋で椅子に座っていた。
前に回り込んで、顔の前で手を振ってみたものの、こちらには一切気付く様子はない。
当然だ。
私は鏡に『持ち込まれた』ものだから、現実世界に存在していない。
いかに気配に敏感だとしても、存在しないものに気配などしない……、これで気付いたらそういう能力だ(もっとも、そのリソースは残されていない)。
で、ここからが重要だが、この、鏡の世界のジギルを殴ったら、実際にダメージが行くのか。
鏡の世界で物を動かすと、現実でもその通りに動く……なら、鏡の世界のジギルを殴っても、現実のジギルにもダメージが行くはずだ。
ただし、これはジギルが「攻撃を認識して防御を展開している」という仮定が正しければの話。
攻撃の有無を、認識している・認識していないに拘らず、常に防御を展開していれば、ジギルが攻撃を認識しなくても、物理攻撃はオートで弾かれる。
現実世界にいてジギルは、天下無敵を誇ることになる。
さて結果は──と。
私はジギルに正拳突きをした。
が、届かない。
薄い膜のようなものに阻まれて、拳がすんでで動かなくなった。
ジギルの目は拳をチラリとも見ない。
ダメ──か。
六年前、ジギルに包丁を振り抜けたときは、完全に包丁の軌道を捉えていた……が、今は違う。
一切認識できていないのに、ジギルは物理攻撃を防御した。
……つまり、物理攻撃を防ぐ能力は、オートで常に展開されている。
※
ジギルの殺し方は大別して四つ。
①現実世界で、現実世界のジギルを殺す。
②現実世界で、鏡の世界のジギルを殺す。
③鏡の世界で、現実世界のジギルを殺す。
④鏡の世界で、鏡の世界のジギルを殺す。
①ジギルが現実世界にいるので、物理攻撃が通じない。よって、これは選択肢から除外。
②私は現実世界にいて、ジギルは鏡の世界にいる。私は鏡に(左右反転して)存在してるから、鏡にいるのと条件は同じ。したがって、ジギルと、戦うほかにない。もちろん、ジギルに不意打ちは効かない。よってまともに戦わねばならず、そうなれば勝てぬのでこれは詰んでいる。そのためこれも選択肢から除外。
③①と同じ。ジギルが現実世界にいるので、物理攻撃が通じない。よつて、これも選択肢から除外(ついさっき、『攻撃を認識して防御を展開している』かどうか、確かめたときに試したから、これは言うまでもないことだが)。
④②と同じ。ジギルと戦うしか道はないが、やれば勝てぬのでこれは詰んでいる。よって、これも選択肢から除外。
「①と③は、ジギルが現実世界にいるから、二パターンとも物理攻撃が効かない。②と④は、形はどうあれ、鏡の世界にいる/左右反転して存在する以上、鏡の世界にいるジギルからわかる。戦うしかないが、勝負にもならない。よって、①②③④は、選択肢から除外される」
二かける二の順列組み合わせで弾き出された全ての可能性が悉く無に帰して、私の『神殺し』の公算の小ささを、まざまざと見せつけられる結果に終始した。
いや、寧ろ小ささを、ではない。
ジギルを殺す、という行為が含意する、汲めども尽きぬ不可能性の余りある高さ、それこそが見せ付けられていたものだ。
実際、私の勝ち筋は消えた。
代替案として、オルタナティブとして、代わりになるものもなくはないけれど、それも、別の形で置き換わるように、別の理由で不採用になった。
たとえば、鏡の破壊である。
ジギルを鏡の世界に連れ込んで、出入りの〈門〉を破壊するのだ。
そうすれば、〈門〉と伴い形成されている、鏡の世界も壊すことができる。
鏡の世界ごと葬り去るれるのだ、鏡の世界にいるジギルを──と、うっかりすれば思いかねないが。
実際は必ずしもそうではない。
実際は──鏡に触れようとしても、鏡の世界に通り抜けるのだ。
だから、触ることができず、鏡を破壊することができない。
どうしようもなく不可能事なのである。
また、屋敷の中まで運び込んでいる以上、触る手段があるということだ、それを用いれば或いは、と考える、頭の回転の速い諸氏もあろう、しかし、その手段というのがこれまた曲者で、普遍性を欠いた一品なのである。
その手段とは──『全てを触れる能力』を持つ神に、協力を仰ぐという代物だ。
そんな知り合い私には無いし、助勢を仰ごうにも仰ぎようがない。
だからこの案は不採用なのだ。
結論が変わることはないから、説明から削ってしまったのだけど、②はもっと、条件が厳しい。
鏡の世界に『持ち込まれた』ものは、現実世界から存在しなくなる──、この法則に適用されるのは、②は鏡のジギルなのである。
だから、現実世界にいる私のほうからは、ジギルは存在しないことになる。
一体どう勝てと、どう殺せと。
どう討ち取ればいいと、神は言うのだろう。
言ってくれたら、殺してあげるのに。
奥手なんだから、ジギルは。
さておき、ここまでで分かることは、『神殺し』は不可能事であるということだ。
『蒐集家』にある武器は近接──つまり、直接攻撃以外のものはない。
だから近づかなくてはならないし、暗闇で不意を打つことができなかったから、ジギルは視覚に頼ることはない、死角も効かない相手ということだ。
直接攻撃で、死角も不意打ちも通じることのない、腕っぷしの強い相手を討ち倒す。
無理だろう、そんなことは。
土台私は研究職である…‥、ただでさえ弱い職種の人間が、埒外に強い力の神様を、倒せると思う方が常軌を逸している。
背中から刺しても感知されているし、油断を誘っても不意打ちが効かない。
むろん、正面からは論外だ。
父と母、大人の男女を制圧する力。
二人の二の舞になるオチが見えている──しかし。
本当にそうだろうか。
ジギルの強さが確かめられたのは、父母が襲われた六年前であり、今でもそうかどうかはわからない。
不意打ちも死角も通じないとして、それがどの程度通用しないのか、確かめる術が果たしてあったのか。
たとえば、私がこけたふりをして、グラスの中身をぶち撒けたさいは、マルタン様の前に立ち身代わりになった。
これはしかし、ぶち撒く前に止めなかったということだ。
立ち塞がれば防げるからなのか、単に動くことができなかったのか。
そのどちらであるのか確かめようがない。
せめて、その意図がわかればいいのだが──、『対応できなかったから』ではなく、能力が常に展開してるから、濡れようにも濡れないから動かないとしたら、それは無敵の証明にもなるが。
だって、それなら逆説的に言って、動こうと思えば動けたということだ──一分の隙のない速さということだ。
そんな可能性がもしあるとしたら、本番に行くまでに確かめておくべきだ……、『神殺し』の蓋然が掻き消えるとしても。
※
は?
首元に貫手が押し付けられている。
喉が潰されて、声になる前の空気がかひゅ、と音がした。
──さながら、韋駄天か。
私はとある『聞きそびれた』ことのために、ジギルを鏡の裡に呼び込んだ。
もちろん『聞きそびれた』ことなど一つもない──これは、ジギルを呼ぶためのお題目だ。
前を歩かせて、背後を取りジギルの死角を確保する。
そして背中にそっと手を伸ばし、カバーの付いた刃物を押し当てる。
ことが、できなかった。
ジギルは、後ろを翻り、喉元を突いた。
押し当てたはずの刃物は腕ごと押さえ付けられて、捻ろうが引こうが動くことはない。
押し当てようとして、その瞬間。
私は気づいたら、制圧されていた。
「『聞きそびれた』のかい? コレを」
喉から手を離して、ジギル。
「刃物にカバーが付いているとはいえ、背後からじゃわかんないから、手加減できなかったんだけど」
「ええ」
私は答える。
「鏡の世界で、反射神経の変化があるか否か。私が誤ってお酒をかけた時、暗闇にも拘らずマルタン様を庇いましたよね? アレを指標にし、神の力以外にも変化があるのか、鏡の世界を調べたかったのです」
「さながら対照実験かの如く、同じ条件で、ただし違う場所で、私に脅威を与えたということか」
「そう──一度目は、飲み物をぶち撒けた前回で、二度目は、背中から突き刺した今回で──」
「ふん」
「誤解しないでくださいね。一度目はわざとではありませんでした。ただし、二度目からは別です。暗闇の『見えない』環境であることにそろえ、二度目は死角から『見えない』をやっていたわけです──闇でも死角でも、『見えない』ことに変わりありませんからね」
「『見えない』条件が変わらないなら、実験結果に変化がある場合、それは唯一変更のあった、場所に原因が求められる……つまり、能力の使える現実世界なのか、能力の使えない鏡の世界なのか。能力が使えないことによって表出するものが、能力以外のことにあるのか……。それを調べ忘れた、もとい、貴方は、『聞きそびれた』のだな?」
「正に」
「ところで、能力を使えない環境で、反射神経に変化があるか否か、だったっけ? なんで、どうして私の能力が、反射神経の向上じゃないと? ふつう、他人を庇うのを見たら、そっちの能力と思うんじゃないの?」
「簡単な話ですよ。だって、二人とも濡れてなかったから。反射神経に関する力なら、庇ったのに濡れていないのはおかしい」
私は、いてて、と肩を労った。
「いや、申し訳ない。こればっかりは、『不意打ちである』、とその条件も揃えないと、対照実験の意味がないのです」
「いや、構わない。むしろ大儀だった。常に力を使うことができる神に、能力が失われた場合、どんな影響が出るのか。常にあるものがなくなったのだから、変化がそれだけか調べるべきだろう」
神明学の権威として──と、ジギル。
良かった、言い訳が通じた。
一応事前に用意していたが、かなり苦しいので冷や冷やものだった。
さておき、これでわかったのは。
ジギルは、鏡の世界ではとても素早い、図抜けた能力があるということだ。
これは裏返しに、そんな素早さがあるにも拘らず、動かなかったことの証明だ。
つまり、ぶち撒く前に止めることもできた。
ジギルが動かなかったのは、能力で濡れないと思っていたからだ。
動く必要がなかったから、ジギルも身代わり以上はしなかった。
これはつまり、ジギルは攻撃を避けない、ということの裏付けだ……、現実世界では。
どうせ当たっても、自分は効かない、という思考癖がある。
六年前も、今も継続し。
だからある意味で、殺しやすいかもしれなかった。
攻撃が効かないという点に、目を瞑ればの話だけど。
ともあれ、ジギルに攻撃があらゆる意味で効かない保証も手中にし、①②③④が、全部却下なのが固定と相成った。
そうだろう?
刃物を押し当てようとした瞬間、私は腕ごと刃物を押さえ付けられて、完全に制圧されてしまっていた。
目にも止まらぬ速さとはこのことだ……、あのスピードなら、私がどんなに工夫したとしても、ジギルを殺害することはできない。
また、力に関しても同じことが言える。
ジギルに取り押さえられた腕は、万力を見紛うほどがっしと固定された。
引こうが捻ろうがうんともすんとも、びくともさせることができなかった。
(もしあの力のベクトルを、捻る方に使われていたら……)
想像するだに、酷く恐ろしい。
腕に固定されたさい痕が残ったが、痛々しい手形がくっきりとあった。
本人は、あんなに涼しい顔をしてたのに。
私は直感した。
ああ、ジギルは今でも、人の太腕を切り落とすことができる──と。
第二の〈門〉を出て、今度こそジギルの背中を見送った。
入ったのがジギルがマルタン様に送ったほうだから、出るときも同じ〈門〉から出て行った。
なんとなく〈門〉をあらためて見ると、姿見ほどしかないことに気づく。
全身鏡。
大きさにして、大人一人分の上背ほどだ。
マルタン様も交え話を聞いたとき、〈門〉一つにつき鏡の世界も一つあると聞いた。
この『蒐集家』に〈門〉は二つある。
つまり、第一の〈門〉と第二の〈門〉の分、鏡の世界は二つ存在する。
──待てよ、この方法なら。
「ジギルを、殺すことが……」




