過去篇②
「前々から君の噂は聞いていてね。是非とも話がしたいと思っていたんだよ。神明学の権威と意見を戦わせる機会なんて、そうそうあったものではないしね」
ジギルはにこやかな笑みで、握手を交わしながらそんなことを言った。
私は訝しむ。
コイツ本当に、自分が仇である自覚がないのか?
本当は分かってて、敢えて適当な口実をつけて近付いているのでは。
しばらく警戒していた私だが、疑念はすぐ解消された。
この男の神明学への情熱は本物だ。
取ってつけたような付け焼き刃の知識では、私の会話についてくることはあり得ない。
知識の博覧強記ぶりも確かだし、時折見せる洞察も見事、徒に被害者遺族に近づいたわけじゃ、どうやらないと言って嘘ではなさそうだ。
その道のプロとして、伊達に象牙の塔に閉じこもっちゃいないと威厳を見せつけることは難しくないが、無理にやりこめるよりは楽しげにやり過ごすことに終始した。
たぶん本当に、ジギルは仇としてではなく、一学者として来ているのだ。
はたと周囲の人間の視線がある一点に集まるのに気づく。
その視線の集まる先にはマルタン様がいた。
「これから私のコレクションを紹介します。世界各地で蒐集した、好事家垂涎の代物ばかり。見て行って損はありませんよー」
先導する彼女の背中を追う形で、十数人の男女が廊下を移動した。
やがて案内された部屋は三方棚があり、そこにはみっしりとコレクションがあった。
自分の横顔が映るのに気づく。
棚のない壁の一面には鏡が設けられ、壁の一面のスペースがそれだけで消えていた。
なんだか部屋に奥行きが感ぜられる。
コレクションのうち文字が刻まれているものは、鏡に映ったものは左右逆になり、とてもではないが読みくくなっていた。
「コレクションはこの部屋以外にもありますが、まずはこの鏡を見て欲しかったのです」
ほう、とか、見事だ、とか言う声が口々に上がったが、何がすごいのかわからなかったので、馬脚を表す前に黙っていた。
すると、この鏡のすごいのはここからです、とマルタン様は得意げに言って、鏡の表面に指さきを触れた。
水面のように波紋が広まった。
むろん、それは水面じゃない。
鏡の鏡面が、小石を投げ込まれた水面のようになっというわけだ。
マルタン様は徐々に指さきを、第一関節、第二関節と沈めて行き、果ては手首から先が鏡の中に消えた。
「!?」「身体が鏡面に!」「どうなっているのだ……」「ありえない!」
部屋にいる者は驚いて、困惑と驚愕の言葉を口にした。
私もその例に漏れず両目を見開いた。
そしてマルタン様ははにかむと、一気に身体を鏡に沈ませた。
──どぷん。
一瞬の静寂のあと、鏡面から頭だけがひょい、と飛び出して、
「ほら、何やってるんですか? 着いてきて下さいよ」
と、平然と言った。
それでもしばらくは誰も動かなかったが、やがて一人、二人と勇者が現れて、鏡の中の世界に飛び込んだ。
私も程なくして決意を固め、そろり、そろりと、鏡に手を添えた。
一気に手を沈め、その勢いで全身を持っていく。
濡れるかと思ったが、何かに触れたような感覚も皆無だった。
そこは左右が反転した世界だった。
一見してさっきいた部屋と変わらないのだが、よく見ると全てが逆になっている。
コレクションに刻まれた文字は総じて反転し、部屋の構造も以下同文だった。
たとえば鏡を背にしたとき、現実では扉が左だったのが、ここでは右に位置している。
左右、反転──
──逆向きの、世界。
「すごい……!」
私は素直に驚嘆した。
「手に入れるのに色々な苦労をしましたけど、こんな面白いもの手に入れなきゃ損ってものでしょう? いやあ、手強い交渉相手でしたよ」
有象無象の一人が言った。「いや、本当に素晴らしい」
「でしょう? ちなみにこの鏡の世界、単に左右が逆なだけじゃない。色々面白い仕組みなんですよ」
そう言って、マルタン様が近くの棚にあるコレクションを手にし、
「鏡は、まあやっぱり鏡ですからね。現実の出来事を写すものでなくてはなりません。ですから、鏡の世界で起きた出来事は、現実でも起こっていたことになります。つまり、鏡の世界のものを動かせば、現実でもその通りになるということです。因果が逆ですが、一つの辻褄合わせのようなものですね。……見ていて下さい、写っているものは、現実に起こっている光景です」
と、 今し方我々が通ってきた、鏡の前にそれを掲げた。
すると、鏡にはコレクションが、マルタン様が動かすのに合わせて写っていた。
ただし、マルタン様の姿は鏡にない。
コレクションだけが、ふわふわと浮いているように、宙に舞う様子が鏡に写された。
「ただ、現実から鏡に『持ち込まれた』我々は、鏡写しの対象を外されます。何故なら、鏡の世界に『持ち込まれた』ものは、現実世界に存在しないから。存在しないから写らないわけです」
そう言って首を巡らせると、何か質問はありますか、とマルタン様。
「鏡の世界の中から見たこの鏡は、現実を写しているのですよね?」私は確認のつもりでそう言った。
「そうよ。写っている世界が、そのまま入って行ける世界。言わば現実と鏡の中を行き来するための、〈門〉のようなもの思ってくれていい」
「〈門〉──」
「さっきコレクションが浮いて見えたのは、そのまま現実の光景として起こっていたことよ。鏡の世界にあるものを動かせば、現実でもその通りになるという実例ね」
「ただし、我々は『持ち込まれた』ものだから」
「この鏡写しの例からは漏れる」
なるほど、ようやく話が見えてきた。
「逆に、鏡の世界のものを現実に『持ち込んだ』場合、それは鏡に写らないのですね?」
さっきのマルタン様のように、と私は言い添えた。
「そういうこと。現実世界でものを動かせば、鏡の世界もその通りになる──鏡から現実世界に『持ち込んだ』、鏡に存在しないものを除いて、ね」
ルールを箇条書きにするとこうだろう。
・鏡に入ることで、現実と鏡の世界を行き来できる。
・鏡の世界では現実世界と右左が違う。
・鏡の世界で起きたことは現実でも起こる。
・現実で起きたことは鏡の世界でも起こる。
・鏡/現実に『持ち込んだ』ものは、元の世界から存在しなくなる。従って、『持ち込んだ』ものは、三、四つ目の限りではない。
「ちなみに、左右が反転しても性質が反転することはないのだけど、例外に神の力が挙げられます」
「……どういうことですか?」と、私。
「鏡の世界では、神の力が使えないの。たとえば、私は花の神だから、鏡の世界では花を咲かせない。どういうわけなのか、鏡の世界には、そういう力を封じる作用がある」
「それは──」
いいことを聞いた。
つまり、ジギルも鏡の中にいる今は、神の力を使えないわけだ。
超常的な能力のある者は、全員神の力を用いている。
つまり、六年前私の攻撃が、薄い膜のようなもので防がれたことは、神の力によることを意味する。
神の力さえ消えてなくなれば、相手はそこらにいる人間と何も変わらない。
壁としてそそり立っていた不安要素は、これで大部分崩れたと言えよう。
ところで、拐われた母の場所を知るために、老婆に助言を求めたことがあったけど、アレも例に漏れず神の力である。
ただ、落伍して、人の村で相談役をやっていただけだ。
老婆の能力は、人ならざるものであったというわけだ。
「ちなみに〈門〉は二つあります。いまいるこの鏡の世界に入るための〈門〉は、私が独自に交渉して手に入れたんだけど、もう片方はジギルから譲り受けました」
「約束です。例のものを」と、ジギル。
「ああ、鏡と交換してほしいって話だったっけ。ダメダメ。私がもう持ってるからいらないっつったのに、無理に押し付けてきたんじゃんか」
ジギルは憮然とした表情になった。
なにやら裏で交渉があったらしい。
「なにか気が変わらない限り、アレをジギルに渡すことはないよ」




