人の道
島の掲示板に貼られた“それ”は、
島民の注目を一番に浴びた。
『私、『田名部錦』は、
平成19年12月18日をもち、
湖東灯台にて『公開自殺』を行います』
『遺書』
日本では地図にも載っていない島
『露和南島』
人口は一万人と少なく、
占有してる産業も、特色もなかった。
南東に位置し、多くの日本人がこの島の存在すら知らないが、島にはPS2や新型のスマホが出回ったりと、俗に言う田舎とは、
また別のベクトルがあった。
この島に住む私こと『中海拓』には夢がある。
それは、歴史に名を残す事だ。
私の、この名前を今後永年、
教科書やなんやらに残し、
今で言う、偉人という者になりたいのだ。
この島には、沢山の現代文明がある。
そして、それを作った本土の人間は、
皆、人の注目の中だろう。
それが羨ましい訳でも、
疎ましく思っている訳でもなく。
私はただ、彼らを同類に思ってしまうのだ。
テレビやラジオで、
誰か、新しい著名人の名が出てくると、
いつも”良かったな“と思う。
多大な苦労が認められ、
やっとの事で人前に出る事が許された。
その彼ら彼女らの苦労と涙が、
自分の事の様に思えるのだ。
もちろん、私は彼らのように苦労した事も、
努力した事もない。
ただ成り行きで小説家になっただけの人間だ。
家が貧乏という訳でもない、
親が厳しかった訳でもない、
受験を頑張った訳でもない、
好きだった物書きを続けて私には今がある。
もしかしたら、本当は才能があって、
努力も必要のない人間なのだとしたら、
今を生きる偉人達に同情なんて出来るだろうか。
無論できない。
これは偏見だが、
生まれた時からそのひとつの事が秀でている人間は
自分以外が出来ない事に同情しない。
逆に軽蔑するだろう。
それは普通の人間の性なのだ、
例えば、「歩く」事に関しては、
一般的な人間は成長とともに出来るようになる。
だが、もし、この「歩く」という行為が、
自分にしか出来なかったら?
ましては、自分だけが走る事が出来たら?
自分以外が四足ではいはいをして、
自分に対し、”どうやってやるの“と聞かれる。
多少の優越感はあるだろうが、
それ以上に他の者を見下すだろう。
なんでこんな簡単な事も出来ないんだと、
私にはそれがない。
小説は書けるが書けない人間を見下す事も、
軽蔑する事もしない、
秀でてない才能は、才能と言わず、
その人間の一部なのだ。
手や足と同じで、生まれた時に備え付けられた、
こうでなきゃ、
才能などという言葉は生まれてない。
私は傍から見れば、
才能があると言えるのかもしれない。
努力してないのに、小説家という人間なれたのだ。
この語録を並べるだけではそう言った事実が浮き出てくる。
だが実際、私がやった事は好きな事を続けただけ、
子供が成長する様に、運動して体力が付くように、
これは、体の一部が成長したに過ぎない。
だからこそ、
私は才能のある人間の気持ちが分からないのだ。
それと同じように、
私には努力という概念が分からない。
自惚れと思われるかもしれないが、
さっきも書いた通り、
私は物書きを続けただけなのだ。
確かに辛い事はあった。
だが、ただ辛い事を努力というのは違う。
例として、野球の練習をして、
投げられたボールが不意に自分に当たったとする、
それは痛いし、硬球であればアザとなるだろう。
この時、当てられた方はこれを経験として、
辛い努力と認めてれるだろうか。
苦しい思いの努力など、
私には理解ができない。
私は学が無いわけでもなく、
かと言って自分の中で伸びているものは、
物書きだけだった。
しかし、それは趣味を続けたに過ぎない。
元々、私は絵を書いていた。
それ以前から、頭で妄想するのが好きだった。
それを絵に落とし込む事で、
自己満足していた。
だが結局は、人から認められなければ、
ただの紙屑だ。
私の絵は良く言って個性的、
悪く言えば意味不明だった。
幼い頃、私は絵で生計を立てると誓ったものだが、私には守破離がない。
私には入る型がなかったのだ。
色も塗れず、表現法もろくに知らなかった。
そして、いつの間にか絵を描くことが億劫になり、今では月に一、二程度、落書きを描くばかりになっている。
そして結局は物書きに落ち着いた。
物書きは私にとって大層楽なもので、
思った事を文字に落とし込むだけで、
ある程度は人並み、
あるいはそれ以上になれる。
私には恩師がいた。
その方は私にとって吉田 松陰だった。
恩師は、私達に色々な話をした。
どれも刺激的な内容だったが、
私がその中でも心に残った物は、
守破離という概念だ。
言い出したのは、千利休だったか、
観阿弥世阿弥の親子だっか覚えていないが、内容は深く覚えている。
守 先人の作ったものを守る。
これは基礎を学べという事だ。
破 それを破る。
ここで自我の個性を出すのだ。
離 基礎から離れる。
これで自分という個性が生まれるのだ。
これは良く、容器と液体で例えられる。
まず、容器、
これを“基礎”と考える。
そして、液体
これを“個性”と考える。
基礎がなければ、個性は常に形を変え続け、
統一性も、あるいはその個性自体がなくなってしまうというのだ。
だからこそ、守破離は大切なものだと、
なのだが…
私はそれを守れなかった。
だからこそ、心に残っているのだ。
物書きを初めてから、
一度だって、自分のスタイル、
やり方を変えようとはしなかった。
他の小説家の表現を真似ることはしたが、
それ以上の“努力”をしなかったのだ。
ここでまた、同じ問いが私に来るだろう。
それが“才能”なのではないかと、
これも声を大にして言える、
それは違う。
さっきも言った通り、
これは才能でなく、
体の一部だ。
人それぞれ顔が違うように、
中身も違うのだ。
みんな、個性があるのだ。
世の中にはよく、
自分には才能がないと、
著名人に醜い嫉妬を出す輩がいるが、
それはただの探求不足なだけだ。
これは絶対に言えるが、
人には、個性がある。
それがなんなのかは、
人生を賭けて探す事だ。
親が裕福であれば、
沢山の事を経験して、
どれが自分にあうか探せるし、
貧しければ、その場で出来ることで探す。
これに最も便利なのが、
“勉強”だ。
勉強を沢山しろという訳でない、
ただ、自分の好きな分野は、
インターネットを見るだけは補えないという事。
もし仮に自分に計算の出来る個性があるとする。
そして、それを続ければ、
職にする事だって可能だ。
これを前、島民に話した時、
勉強が出来ない貧しい子もいると
配慮がないと言われたが、
言わせてもらう。
これは私の考えを言ってだけであって、
人に強制している訳でない。
もし、その貧しい子とやら、
“私はできない…”と悲しんでいても、
私に知ったことではない。
生きていれさえすれば、
おのずと見つける方法を、
自分で見つけるだろう。
それが出来ようと出来なかろうと、
私は興味はない。
これに関連するが、
つい最近の話だ。
酒鬼薔薇事件というものを覚えているだろうか。
中学三年生の男子が、
幼い児童を何人も殺害した事件である。
犯人の少年は、酒鬼薔薇聖斗と自分を称し、
マヌケな暗号を残して捕まった愚か者だ。
この事件の後、
テレビでの規制が厳しくなった。
青少年への不健全なものは配慮しようと、
一斉にテレビが意識し始めたのだ。
私はこれにいつも不満がある。
確かに、幼い子供への暴力の知識や性の知識は、彼ら彼女らの認知を歪めてしまうが、
酒鬼薔薇の様に、あれほどイカれた事が出来る人間は、元から違うだのだ。
これは一種の才能ともいえる。
人を殺す才能。
あまりに不名誉だが、
思春期の子供には名誉の勲章に思えるだろう。
変な異名なんか付けず、
“社会のゴミ”また現るとか、
その程度でいいと思う。
一個前に戻り私が思うに、
世界は極端過ぎるのだ。
一か十かしかないんじゃないかと思うくらいに、世界は極端だ。
変なものをなくすのは結構だが、
少しの失言が、その人間の転落となるのが、
どうも遺憾に感じるのだ。
それと同じ様に、
国が税金を上げることに不満をあげ、
消費税を無くせといっている人間も当てはまる。
確かに消費税は減って欲しいが、
消費税が無くなれば老人達から税金が取れなくなる。
老人が四分の一を占めるこの国で、
それは重い負担になる。
そして、国民が分かることは、
国だって分かっている。
国民が簡単にわかる事で、
国がデタラメを言い始めたら、
終わりということだが…
私には、二人両親がいる。
二人とも普通の大人だ。
特徴と言えば、父は厳しく、母は優しい。
飴と鞭のような両親だ。
必然的に子供は、
母と過ごす時間が多くなる。
世論では優しい人間に育てられた人間は、
人に厳しくなると、
そう言われているが、
私は環境が厳しかった事で、
そうなる事はなかった。
学徒の当時、私は虐められていた。
三年間そうであり、
本人達は島を出た。
私がこの島を出ない原因でもあるが、
鬱と私は病んでしまった。
だが、やる事はやった。
いわゆる、引きこもり、
ニートにはなりたくなかった。
そして、いつの日か、
神を信じなくなっていった。
もし神がいるのなら、
テロも疫病も起こらないではないかと。
これに続け、私は聖書を読んで思った。
キリストは人間に殺され、復活し、
神の子となった。
だが、人間は元々神が生み出している為、
やっている事に矛盾があるのだ。
それも含め、私は神を信じなくなった。
島の二つほどある神社には、
そう思った以来、
足を運んでいない。
それ含め私には、
人間の存在が繰り返された様におもえる。
ピラミッド、スフィンクスという物体をご存知だろうか。
どちらもエジプトにあるものだが、
作られた年代は、
ピラミッドは四千年前、
スフィンクスはなんと、一万年前と
言われている。
さらにスフィンクスの向いている方向は、
今の天体学に通ずる学があるらしい。
私はこれで思った。
白亜紀が未来でないのではないかと、恐竜は戦争の兵器で、
火山の噴火は核戦争。
勝手な憶測だが、
これを真実と、嘘半分で考えている。
なぜなら、恐竜の骨格だ。
どれもが戦闘に特化している。
トリケラトプスという恐竜を知っているだろうか。
どうやって自然とあの姿になれたのだろうか。
人間だって進化はしたが、
あれほどの進化は、
何か別のものを私は感じた。
そして、今現代に一匹もいない事に、
私は不信を覚える。
やはり、核戦争で滅んで、
未来の化学で人類をやり直したのではないかと。
考えて見れば、
原始時代から地球自体はかわってない。
石器時代からスマホだってつくれたのだ。
やはり生物しか変わらないのは、
何か違うのでないのか…
そして、繋げると、
人間という生き物は都合が良すぎるのだ。
いや、生物全体に言えるだろう。
食べる事や寝ること、交尾する事、
全て、体がそういう風にできている。
……こう人が考えないことを本気でかんがえるのは、楽しいものだ。
私は今、計画がある。
自殺だ。
それもただの自殺でない、
公開の自殺である。
私にはひとつ、
人生賭けて知りたい事がある。
それは、今から死ぬ人間の言葉は、
普通の人間の言葉より心に残るかだ。
どうだろう、これは私が病んでいると思われるかもしれないが違う。
好奇心だ。
好奇心しか心にはない。
そして、今私は、生に興味がない、
打って付けの人間だろう。
それに、今は四秒に一人人間が生まれてるんだ。
私一人居なくなったところで、
特に害は無いはずだ。
それより、何より、
その死に際の私の話を、
何を話すかが肝だ。
死ぬんだから長く話したっていいだろう。
死ぬ人間が生きていく人間に配慮するなんて
たまらなくバカバカしい。
私の人生を話そう。
この三十何年かの人生を語りつくそう。
そして、この世への考えを…
長く長く話そうじゃないか。
最後の占めは拳銃だ。
私はこの日の為、
銃を所有できる免許を取った。
時間と金はあったから、
かなり簡単にとれた。
そして、シューティングサプライの
ページで必要書類を送り、
私は銃を買った。
ずっしり重かったが、
弾は入ってなく、
付属で、パッケージに包まれた金の包が
こちらを向いていた。
弾を詰めると、
さらに拳銃は重く、
それでいて、凶器という事を私にアピールしていた。
私は感慨深かった。
この重みが人を殺す重みなのだと。
私は嬉しかった。
この重みで私は死ねると。
病んではいないが、
無性に死にたくなってきた。
私は、試しに家に生えている
ヤツギ木の甲に銃を向けた。
本当は発砲は射撃場でだけだが、
どうせ死ぬのだからこれくらいの犯罪良いだろう。
映画で見て分かっていたつもりだったが、
発砲した瞬間、
私は後ろに吹っ飛んだ。
あまりにも私は、
火薬の力を舐めすぎていた。
グリップの持ち手から、右手の関節を思いきり捻ってしまい、数時間は苦しんだ。
そして、完全に安心した。
これで死ねると。
私はまた準備を始めた。
この島の人が集まる場所。
武道館のような、巨大な目立つ物はなかったし、あるにしても公開自殺を受け付ける場所はこの世に無いだろう。
私が選んだのは、湖東灯台。
ここは、最も島の中で巨大な建造物。
島で行われる祭りやイベントも、
多くはここで行われている。
私は、島の掲示板へこう書いた。
私、『田名部錦』は、
平成19年12月18日をもち、
湖東灯台にて『公開自殺』を行います。
と。
田名部錦とは、私のペンネームである。
元とした名前は、『吊革オトコ』や『ギャリン』
で有名な田中鯉登という脚本家だ。
この人の作品はどれも興味深い物で、
私は死ぬ時、この人の事も話そうと思うくらいに、この人が好きだ。
そして日にちだが、
この日は、私の小説家になった時の日にちだ。
第二の誕生日と言っていい。
この日に、私は死ぬ。
親が恋しくなったが、
もう数年話してない。
だからこそ、
私がこんなふざけた死を迎えたら、
びっくりして後を追うかもしれない。
それはないか…
日と場所と道具を決めた。
次に決めるのは…
ない、
ない、もうない、
後はもう死ぬだけだ。
ありがとうございました。
〜公開自殺終了後〜
後日
後日
後日
後日
後日
後日
後日
後日
後日
後日
後日
後日
<人の道 完>