吹き荒ぶ風
風が吹く。随分と強い風だ。突然の風に帽子を目深に被った康祐は身体を震わせながらこう呟く。
「急に天気が変わる変わる。春が来たな」
皮肉にも聞こえるその言葉は、春の訪れを祝っていた。春が来たとは言えども、まだまだ気温自体は低くなっている。だが、太陽が顔を出しているためかあまり寒さは感じない。しかしだからと言って、コートを着ないと風邪を引く程度の寒さはあるが。
突風で止まった足を再度動かす。棒ほどではないが黒鉛程度に固まった足を動かすのに苦戦しているが、程なくして歩みを進める。
「目の前にあるこの道は、誰かが通った後の道。私はただ誰かの実績に縋るしかないのか…なんて、字書きを気取ってみたり」
そんな言葉の後に笑みが続く。溜まった疲れた長いこと誰とも話していない状況が、康祐を壊していく。だがそれは心であって、身体はいたって健康である。もっとも、その事実こそが康祐の心を一番蝕んでいることだろう。
「ん?あれは…」
極限状態の康祐が歩いていた道の奥。100mは離れているだろうそこに、一人人間がいる。否。あれは人間なのか。そんな思考は断ち切られ、康祐は縋るようにその人の元へ向かう。10m、20m、距離はどんどん縮まっていく。だんだん輪郭がはっきりとしてきた。人間だ。
「お早う。」
彼の人は康祐にそう言った。明らかにオーバーサイズな灰色のコートに身を包み、雪のように白いスラックスと明らか場違いな赤色の革靴を履いている赤髪のその男はこちらを眺める。寒さが寒さなので頬は赤くなっている。いきなり現れた様に思える人からの挨拶に、康祐は返すことが出来なかった。
「いやあ、まさか北海道のこんな外れで人と出逢うなんて。」
その男は中性的な声でそう語る。楽しそうに。
「あんたこそ、こんなところで何やってんだよ」
康祐は尋ねる。その男は顔色ひとつ変えずに
「風が吹いていたから飛び出してきちゃったんだよね。」
そう悪気なく言った。
「あ、言ってなかったね。せっかくの機会だ。自己紹介をしよう。僕は高田、とでも…あ、コレじゃ自己紹介とは程遠いね。」
コロコロと話が変わり、その度に鈴を鳴らす。面白い人だ。
「それじゃ、俺からも。俺は澤野康祐。今は旅をしている」
「へえ、旅か。僕もうんと休みをとって岩手あたりに行きたいな。」
「岩手、いいじゃないか。あそこはいいぞ。美味いものもあるし、観光も楽しい。人によって趣向は変わるから100人がそう話すのかは分からないけどもね」
言葉はだんだんと尻すぼみになっていく。目の前の…高田、そう名乗ったこの男は顔色を悪くしつつもこちらの顔を覗いてくる。おっと、いけない。暗い顔になっていたのか。高田にそう尋ねるも曖昧な言葉で躱される。
「僕はね、一度だけ岩手に行った事があるんだよ。小学生の頃だったかな。二週間もいなかったからあまり覚えてはいないんだけどね。」
高田は唐突にそう告げた。なんと、岩手に行った事があったのか。まあそうだろう、と康祐は考える。あんまりこう言うことを言うのは良くないが、岩手は田舎、辺境だ。人が観光目的で進んで向かうような場所ではないだろう。そんな場所に行くのならばそれ相応の事情があるだろう。その事情について康祐が尋ねる。すると同窓生に会いに行くこと、という理由が帰ってきた。
高田は康祐が唐突に黙りこくったことよりもあたりが気になったのか、康祐の周り、半歩程離れた場所を行ったり来たりし、途中途中で立ち止まってこの近辺を計測するように首を傾げながら過ごしていた。
康祐は考えをまとめたのか一度こくりと頭を揺らすと、高田に向かって進み始めた。
「やあ、どうしたんだい」
あまりの風に目を細め、高田から目を離す。その途端に後ろから中性的な言葉が紡がれた。
康祐はあんまり驚いたのでまとまった考えも何もかも吹き飛んでしまった。ちょうど康祐の、高田の頬を撫でたその風の如く。
「うん、あんまりだ。風が強い。」
「そうに決まっている。天気予報を見なかったのか?」
「なんだい、それ。テンキヨホウって。」
康祐は呆気に取られた。今の時代、天気予報を知らない様な人が居るのか。だいたい、この高田と名乗ったこの人間は、いつも薄ら笑いを浮かべている。それに、こんなに風がどうと吹いて来ているのに、一向に寒がらず、薄ら笑いをとめず、むしろにやりと本当に面白いと言わんばかりに笑っている。
「天気予報、というのはだな、今日だったり明日だったりまたその次の日だったりの気象情報を教えてくれる便利なものだぞ」
「へぇ、そんなものがあるのか、便利だね。」
康祐はまたもや呆気に取られた。否。これは呆気と捉えることが出来るものの、それよりももっと阿呆に、送るものだ。高田は未だにニコニコ静かに笑っているし、康祐は高田の胸の内に触れることすらできなかった。
「そういや、君。きみは岩手に行ったことがあるのかい?」
高田の問いに対し、康祐は少々の躊躇いの後に言葉をこう紡ぐ。
「ああ、そうだね。言ってなかったか…岩手に住んでるんだよ、俺」
高田は口角が上がっているのを感じていた。では、僕と会ったことがあるのか。胸の内に生じたソレは自然と言葉に出る。豪華絢爛な飾りのもとで。
「へぇ、あんた…確か、高田か。高田、高田、高田ねぇ…」
考える素振りを見せる康祐。顎に手を当て、左上を見つめる。視線の先には太陽が、雲に隠れているもののその眩しさのせいなのか、目を細める。
「いいや、少なくとも俺の記憶には無いな。もしかしたら、別の奴なら…あるかもしれん」
上がった口角は少し広がる。同名なのだから、と期待し過ぎていた自分を感じていた。
厚い雲は光を通さず、ただ風を吹かせるのみ。少しの静寂の後、躊躇いを見せつつも口を開く。
「高田。大丈夫か?さっきからずっと黙って」
「ああ、嫌。なんでもないよ。」
康祐は頭の天辺から爪の先まで高田に目を通し、そして低い声で「嘘はつくものじゃ無いぞ」と言った。
「ねえ、君。」
次に口を開いたのは高田。少しの差で康祐も開いていたが、慌てて口を噤む。そして話を聞く姿勢をとる。
「僕とこうやって話していて大丈夫なのかい。旅行中だろう。時間は余裕を持っておくといいよ。先輩からの助言さ。」
「ん?あ、そうだな…ここはあまり長居する予定はなかったもんな…」
康祐は、考えを巡らせるために一度言葉の繋がりを切り、そしてこう針を通す。
「ここで、おしまいでもいいか?」
「うん、いいよ。君の故郷で僕のことを知っている人が居たなら、今日の出来事は話さないでおいてくれるかい。」
高田はそう即答した。
「わかったよ、高田。」
康祐もそう即答した。
「そういや、高田。俺はあんたの下の名前を知らないんだ。教えてくれないか?」
「うん。いいよ。僕の名前は…」
…
……
………
一段と強い風が吹き、康祐は目を腕全体で覆い隠す。周囲の木々をガサガサ揺らし、大地に積もった雪が舞い上がる。その時間は、とても長い時間にも、たったの数秒のようにも思える。そんな時間を体感した康祐は風が止んだのを確認してゆっくりと目を開ける。晴れだ。快晴だ。雲ひとつない青く、そして高い空にあたりのものを照らす太陽がよく映える。雪のせいか、澄んだ冷たい空気を肌と肺で余すことなく体感し、目を開ける。
と、その時。康祐はある違和感を感じていた。高田がいない。高田がいないのだ。風と共に、否。雲と共に居なくなった、という表現の方が良いのか。だがそんなことは推敲する意味がない。高田がいない、そのことだけで十全だ。あたりを探し回る康祐は、ある違和感を払拭できていなかった。
旅行を終え、岩手へと帰ってきた康祐は、祖父にこう尋ねる。
「なあじいちゃん、高田って人知ってるか?」
祖父は高田、といった孫をみて感慨深く頷き、ひとつ確認をした。
「康祐や、あんさんが行った場所は北海道なのかい?」
「そうだけど…それがどう繋がるんだよ」
詰め寄る康祐をいなしながら祖父はこう語る。
「康祐、あんさんの名前は私の父…康祐から見たら曽祖父に当たる人と同じなんだよ」
「そうなの!?知らんかった…」
上々の掴みから祖父はこう続ける。
「曽祖父様はな、小学生だったときにな、ある転校生と出会ったんよ。その転校生はかなり不思議だったそうな。行く先々で風を起こし、ヘンテコな話し方をしたんだと。聞けば父の転勤で北海道からはるばると来たそうな。」
ここまで話し、祖父は一度茶を飲み唇を濡らす。
「だがその転校生は二週間立たずに北海道に戻って行った。何もこれまた父の仕事の都合らしい。して、その日は風がとても吹いたそうで、ガタガタと窓枠が揺れていたんだと。康祐、私の言いたいことがわかるか?」
少しの考えのもと、康祐が導き出した答えは次の通りである。
「その転校生が、高田ってわけか」
「そうさね。だが高田だけだと別の人かもしれぬ。下の名は何と言った?」
「ええっと、確か…」
…三郎、だったかな。
宮沢賢治記念館訪問記念