伊藤さん
「さあ、お話をはじめようか」
目の前の状況に理解が追いつかず、ただ立ち尽くすしかないこまちにその男は語りかけた。男は端正な顔立ちで年の頃は30代から40代といったところだ。黒いスーツに黄色のネクタイを締めている。髪は短く無駄な肉のついていない身体は細身だがスーツの上からでも普段から鍛え抜かれた様子が窺える。一見すると、スマートなビジネスパーソンといった風貌である。
こまちの腕の中に収まっているタマが鋭い視線を向ける。
「自己紹介がまだだっね。はじめまして。私は伊藤と申します。伊藤さんと呼んでもらって構わないよ。私はこの街でひっそりと市政に貢献している者です。市政ってわかるかな?」
そこまで話すとこまちの理解を確認するように言葉を区切った。
「なんとなく…」
こまちは震える唇で答えた。
「賢いね。素晴らしい。君くらいの年齢で『市政』なんて言葉をなんとなくでも理解できる子はそうそういない。ご両親の教育が良いんだね。さすが稲穂の一族だ、なぁ、イネ、ホサク。さすが君たちの娘だ」
なぜこの伊藤という男は両親の名前を知っているのか?こまちは強い不安を覚えた。
「なぜ君のご両親の名前を知っているのかって顔をしているね。言ったでしょう。市政に貢献しているって。市役所に登録されている情報なら調べるのにわけはないさ。まぁ、そんなものに頼らなくても、私の情報網はそれらをはるかに凌駕しているけれど」
伊藤はそこで一度言葉を切った。
「それ以前に私は君の両親とは古い友人なんだよ」
「友人…?」
「そう、お友だちさ」
こまちは『友だち』という言葉にいくらか安心しかけたが、では、この伊藤という男が本当にこまちの両親の友人ならば、なぜこんなひどいことをするのかわからなかった。
「お友だちなのになぜこんなひどいことをするのかわからないって顔だね」
こまちは頷いた。
「昔々にケンカしたんだ。二人と。それまでは仲良くやっていたんだがね。ある時から仲が悪くなってしまった。そうだ、あれは私が今の仕事を始める頃だ。二人に猛反対されてね。私の人生だって私は言ったんだがね。二人は理解してくれなかった。そこからケンカ別れさ」
伊藤はそこで窓の外に目をやってため息をついた。その後ゆっくりと視線を戻すとこまちの両親の目隠しと口を塞いでいたものを外した。
「自分たちの口で教えてやったらどうだ。どうせ何も教えていないんだろ?君たちがどういう一族なのか。なぜ人間の姿までしてこちらで生きているのか」
こまちは二人に駆け寄った。
「お父さん、お母さん!」
「こまち、すまない…!こんなことに巻き込んでしまって」
「ごめんね、こまち、怖かったでしょう」
こまちは泣きながら二人に抱きつき何も言えなかった。こまちの腕から降りたタマは、三人の様子を黙って見ていた。
「いったいこれは何?どうして私たちこんな目にあっているの?稲穂のなんとかってなに?」
こまちの父、穂作は妻の稲と顔を見合わせてお互いに頷いた。
「こまち、今から言うことをよく聞いて欲しい。そして、お父さんお母さんに何があってもこまちは生きるんだ。わかったね?」
「お父さんとお母さんは死んじゃうの?」
こまちは不安に駆られて息がうまく出来なかった。
「いいや、死にはしないさ。ただ、一度還るだけだよ」
「還る?」
「こまち、時間がないから先に説明をするよ」
穂作は話し始めた。
―こまちたち家族は『稲穂族』と呼ばれている。もっとも稲穂族とは彼ら自身の呼び方であり、人間たちからは稲穂の守り神として言い伝えられてきた。その名の通り、稲作の豊作を願い信仰されてきた。その生命は稲穂に宿り米粒を守護する者として存在してきた。彼らは米粒の精霊に仕える。彼らの存在があるから米粒の精霊はその役目を果たすことが出来る。代わりに稲穂族は米粒の精霊の力で半永久的に存在できる。持ちつ持たれずの関係なのだ。
穂作と稲はそんな稲穂族の役目を全うする内に人間界への調査を命じられた。二人は最初戸惑った。なぜ我々なのか?と。それに対し返ってきた言葉は、精霊の思し召しの一言であった。精霊の思し召しとあらば二人はその命を受け入れるしか選択肢がなかった。
二人は不安だった。そんな二人にオニヤンマの友人が言った。私を一緒に連れて行ってくれないか?私が二人を守る守護神になりましょう。二人はその申し出に驚いたと同時に嬉しかった。彼が一緒に着いてきてくれるなら心強い。しかし、本当にそれでいいのかと尋ねると、「もともとずっと一人ぼっちで嫌われ者だった。初めてできた友人の力になりたいんだ」
オニヤンマは言った。
旅立ちの日、穂作、稲、オニヤンマは揃って精霊の社にいた。精霊のササニシキの命に命を受けた。
一つ、人間界で穂作と稲は夫婦となり子をもうけること
一つ、人間に正体を明かしてはならない
一つ、逐一人間界の現状を報告すること。報告の手段にはオニヤンマを遣うこと
以上の三つだった。
オニヤンマには二人を守り、報告を届けることとあり、その他の命については報告の際に伝えるとのことだった。
かくして、穂作、稲、オニヤンマは人間界に降り立ったのである。
稲穂族も人間界にはツテを持っており、住まいの手配はされていた。最初の三ヶ月は、こちらの生活に慣れるために生活の訓練が行われた。人間の世界の決まり、生活様式、お金の遣い方や人付き合いなど、生活に支障がないように訓練された。
三ヶ月が経つと仕事を紹介された。二人の仕事は誰にも口外しないように誓約書を結んだため、明かすことができない。二人の毎日は目まぐるしく過ぎていき、あっという間に三年が過ぎた。仕事や人間の生活に少しずつ慣れてきた。
五年が過ぎた。二人は子を設けた。
こまちだ。
二人は不思議な気持ちだった。
こまちが生まれると、二人も、そしてそれ以上にオニヤンマが喜んだ。その頃にはもう伊藤と名乗っていた。伊藤は自分の子どものように喜びかわいがった。穂作と稲はそんな伊藤の姿をみるのが嬉しかった。
二人はこまちをかわいがり、大切に育てた。伊藤も何かと理由をつけては二人の下を訪れ、こまちと遊んでくれた。
こまちが一歳になる頃、伊藤はやってきた。新しい仕事のことだった。
穂作と稲は反対した。伊藤らしくないと思った。ケンカになり、袂を分かつことになった。二人はとても悲しんだ。まるで、自分の家族を失ったかのようだった。二人は寂しさを紛らわすようにこまちに愛情を注いで育てた。こまちの誕生を見守り自分のことのように喜んでくれた伊藤の事を思いながら。
それからやく十年、伊藤とは二度と会うことなく暮らしてきた。
気づくとこまちは十歳になっていた。