青嵐
幸子…愛していた…残念だけど、たぶんもう会えないのだろう…。そんな気がする。
その日、阿部龍一(41)の乗るタンカーは洋上を歩く人を発見。状況を飲み込めない乗組員たちはただ、どうすることも出来ずにいた。海上保安庁からは、到着までの間待機を命じられている。しかし、その人影はゆっくりではあるが、確実にこちらに近づいてくるのである。乗組員全員がその状況に、緊張し、高揚し、恐れを抱いていた。海の上を人が歩くなどという話は、おとぎ話の世界の話である。それが、今目の前で起こっているのだから、みんなどうしたらよいか分からなかった。龍一はその誰かを甲板の上から観察した。見たところ子どもの風貌をしている。年は恐らく幸子と同じぐらいのようにも見える。着物を着て、腰には刀を差しており長い髪を後ろで一つにまとめている。その長い髪が風になびいて艷やかさを演出していた。とても綺麗な顔立ちだ。男か女か。どちらかはわからなかった。ふと、目が合った。視認できる距離ではないはずなのに、その瞳の色や、美しさがそのまま脳裏に入り込んできたような、不思議な感覚に襲われた。目が離せなくなった。
「…………。」
何か聞こえたような気がした。その誰かの唇が動いているのが見えた。波の音が大きくて、聞こえるはずもない。しかし、何かを話しているのが分かるのだ。
「…………。」
やはり何かを喋っている。
堪らず龍一はその海の上の誰かに向かって声をかけた。
「おーい!君は一体何者だ?ここで何をしているんだい?」
気づくと龍一の乗るタンカーの側まで来ていた。その何者かは左手をスッと胸の高さまで上げると、龍一の目を見つめた。白くて細い腕だった。その手のひらにはピンと張った真っ赤な糸の先が握られていた。
「桃姫…」
歳に似つかわしくない艶やかな声だった。
「おい、龍一!海の中見てみろ!」
仲間が呼びかけるも、その者から目が離せなかった。なぜだか胸騒ぎがした。冷汗が溢れてくる。
糸の先を辿った。浜辺だった。
「幸子…真希…」
妻と娘が見えた。その者の左手から伸びた糸は二人から伸びている。ふと、自分の左手の小指を引っ張られた。見ると赤い糸が龍一の左手の小指から伸びていた。目の前のその者が握っている。
「邪魔だ…」
龍一は悟った。冷汗が止まらず、胸の鼓動が早鐘の様に鳴る。喉はカラカラに渇いた。
「や、やめ…」
幸子…愛していた…残念だけど、たぶんもう会えないのだろう…。そんな気がする。
「閻魔」
視界が急に開けた。青い空がキラキラと光り、美しかった。
仲間の悲鳴と叫び声が聞こえた。龍一の首は胴体から離れ、真っ赤な血飛沫が空に向かって噴き出していた。乗組員はパニックになり、甲板は騒然となった。ズズンと地響きがしたと思うと、そのタンカーは何か得体のしれないものに呑み込まれた。一瞬だった。
その様子を浜辺から見ていた幸子と真希の母娘は呆然とした。
「お父さん…?」
船が沈む直前、何かがキラキラと光って空に向かって飛んでいった。幸子はそれが父親だと何となく理解した。
「これに」
背後から声がして二人は驚いて振り返った。さっきまで海の上にいた誰かが幸子たちの後ろにいた。何かを胸の前でに抱えている。それが龍一の首であることに気づくと真希は悲鳴を上げた。
幸子はただ、呆然とするばかりで身動き一つ取れなかった。
「返す」
すっと龍一の首を幸子の前に出す。
「閻魔」
その日、浜辺には母娘の首と、もう一つ、胴体の行方が分からない首が一つ並んでいたという。
その日、政府は大慌てだった。そんな事お構いなしに世界はどこかへ向かっていく。
いわき市の海で暴れたその何者かはゆっくりと海の上を北上した。
「桃姫…会いに行く…」
最凶がまた交わろうとしていた。




