キキ
目を覚ますと知らない天井が目に映った。何だか身体を動かすのも辛い気がする。外では雨の降る音と、蛙の鳴き声がする。一匹二匹の話ではなく、大勢の蛙が一斉に鳴いている。身体を起こせないので、布団に仰向けのまま首を動かして部屋の中を見渡してみる。
やはり知らない部屋だ。
壁の時計は10時を過ぎたところだ。窓の外は明るいので昼間だろう。
その時静かに襖が開いた。
「あ…」
襖の向こう側に立っていたのは女の子だった。歳は15、6歳だろうか。目が合うと少し気まずそうにしている感じがしたが、すぐに、「おばあちゃん、この子目覚ました」
と廊下の向こう側に声をかけると部屋に入って近づいてきた。
「起きたけ?良かったぁ、何日も目を覚まさねえから心配したぁ」
口を開くも声が出ないことに気づくと同時に身体に衝撃に近い痛みを感じた。その痛みで息が止まりそうになり胸の辺りを思いっきり握りしめた。
苦しそうな様子に、「大丈夫?無理しないでぇ」と優しく手を握ってくれた。
「声が出ないの?ゆっくりでいいから無理しないで。ばあちゃんが見つけた時は酷い怪我で、死んじまってるんじゃねえかってばあちゃんと焦ってたんだよ。」
呼吸を落ち着かせるとゆっくり目を開けた。口を動かす。声は掠れるほどしか出ない。
焦れったいのと苦しいのと相まり、涙目で側の少女の手を力いっぱい握りしめる。少女は黙って水を呑ませてくれた。思ったより身体が渇いていたのか、必死になって少しずつ飲んだ。水を飲む間も少女の手を離さなかった。少女はそんな様子に目をうるうるさせて、大丈夫だよ、ついているよと声をかけてくれる。
「祐未。」
部屋の外から初老の女が声をかける。
祐未と呼ばれたその少女は目を拭う素振りをしてから振り向く。
「ばぁちゃん、やっぱり今日は学校休んで正解だったぁ。この子の看病しなきゃ」
「なぁに言ってんだか。ばぁちゃんに任せとけって言ってんのに聞かねえ子だよぉ、本当に」
ばぁちゃんと呼ばれた女は呆れたように首を振って溜息をついた。
「目覚したかい。良かったよ本当に」
「ばぁちゃん、この子今喋れないみたい。すごく辛そう」
祐未はばぁちゃんに向かって言う。ばぁちゃんは祐未の側に座った。初老だが、もっと若く見える。背筋もしっかり伸びていて隙がないように見える。なんとか必死に腕を挙げて空中に文字を書く素振りを見せると、祐未が必死にそれを読み取ろうとしてくれるが、結局分からず自分の手のひらを指先に当てた。
「……………………ばぁちゃん、この子」
ばぁちゃんが瞳をじっと覗き込むように見つめてくる。それから、ふぅと一息つく。
「あんだけの怪我だったからね、ショックで一時的に忘れてるのかもしれない。よほど酷い目にあったのかもしれないしね。あんたには悪いけど、あんたの着てた制服のスカートのポケットに生徒手帳が入っていたよ。苗字は血で見えなくなってたけど、漢字で『黄々』って書いてあった。キキで合ってるのかい?」
キキと呼ばれても何だが何を言われているのか分からなかった。思い出せない。
「キキかぁ!キキ、よろしくね!私は高津祐未。こっちはまつりばぁちゃん!」
「傷が治るまでしばらくここにいなさい。あんたの家にかけようにもなんせ家の電話回線が調子おかしくてね。警察に連絡したくてもいろいろあって出来なかったんだ。と、いうわけで祐未、あんたこの後警察に行ってくるんだよ」
「え?ばぁちゃんこれからぁ?外雨だべよ!」
「学校サボったんだからそのくらいやんなさい。まぁ、今から出ても早すぎて怪しまれるから、15時過ぎくらいにしなさいよ。」
「よかったぁ。んじゃ、それまではキキの看病してられるな」
祐未は嬉しそうに見えた。祐未の明るさに、ほっとしつつ、だけど、一体ここはどこで私はなんでこんな大怪我をしたのか?全く思い出せないことにもどかしさを感じた。
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「おばあちゃん、こんにちはー」
佐々木、こまち、タマ、高橋の三人はカーチェイスの後、弱った佐々木と高橋を休ませるためにちょうど祖母の家が近くにあると言ったこまちに案内されてここにいる。
「裏で仕事してるかもしれないからちょっと見てくる」
こまちは家の裏に祖母を探しに行った。いつの間にかタマは佐々木に抱かれて眠っている。高橋は壁にもたれて肩で息をしている。佐々木はさっき起きたことを思い出していた。自分に起こったことをひとしきり考えてみた。あれは一体何だったのか。初めての経験に頭も心もついていかない。
そんなことを考えているとこまちが裏から戻ってきた。
「佐々木くん、高橋さん、おばあちゃんいました!」
こまちに遅れて裏から現れたのは足を引きずった老人だった。
「こちら私のおばあちゃんです。おばあちゃん、こちら私の友だちの佐々木くんと、お母さんとお父さんのお友だちの高橋さん。」
「ご無沙汰してます、苗子さん」
高橋はそう言ってお辞儀をした。苗子と呼ばれたこまちの祖母はそんな高橋を見て少し目を細めた。
「高橋、あんたが来たってことは穂作と稲は伊藤と一緒だね?」
苗子は状況を瞬時に理解したのか、少し険しい口調で尋ねた。
「申し訳ありません。俺がついていながら。こまちさんを守るので精一杯でした」
高橋は本当に悔しそうに言った。
「いや、あいつ相手にこまちを守ってくれただけで立派だよ。それに、追手もいたと見える。あんた『変身』したね?よく無事だったね」
「それは、俺も驚いています。あれだけの力を使えたのは初めてです。おかげでこのザマで、お恥ずかしい」
祖母と高橋の会話に戸惑うこまちをよそに苗子は続けた。
「一先ず回復が先だね。中に入りな。それに佐々木くんと言ったかい、あんたも大分消耗しているね。一緒に来なさい。あんたも回復が必要だ」
佐々木は戸惑いながらも苗子に従った。
「こまち、今は状況が飲み込めないだろうけど、辛抱しておくれ。説明する前にやる事がある。一旦中に入りなさい。あんたたちちょっとばかりうるさくしすぎたみたいだよ。高橋、たぶん、お上からお叱りがあるから覚悟しときな。奴さんたち今回の件でいろいろ火消しに動いたみたいだ。それにちょっと厄介な奴を刺激したみたいだ」
一同は家の中に入った。
「あんたたちが来る前に結界は張り終わったから、しばらくは大丈夫だから安心しな。佐々木くん、ところで厄介な奴を連れているね」
苗子は何か面倒な物でも見るような目つきで佐々木の腕の中で気持ちよさそうに眠るタマを見つめた。
「えと、これは友だちのタマです。僕、タマに助けてもらって…」
「こいつが人助けとは恐れ入ったよ」
苗子は苦々しく吐き捨てた。
「起きな化け猫!」
そういうと、苗子はタマの首根っこを掴んで放り投げた。
タマは勢いよく壁にぶつかり悲鳴をあげた。
「おばあちゃん!」
こまちが驚いて叫んだ。
「敵襲か?!」
突然の事にタマは驚いて周囲を素早く見渡す。
その時苗子と目が合い、一瞬拍子抜けした表情を見せた。
「おいおいばあさん、あんたとはもう会わねえと思ってたよ」
「え?タマとおばあちゃんは知り合いなの?」
またまた、こまちは困惑した。




