前編
・聖獣に嫁入りする公爵令嬢視点の前編、その幼馴染の侯爵令嬢視点の後編で構成されています。
・前編は種明かしパートである後編の前置きみたいな形なので、ちょっと長く感じるかもしれません。読むのが怠い方、さっさとざまあが読みたい方は後編へどうぞ。
「どうかお待ちになって、ローゼロッテ様」
身の丈三メートルを超える獅子に抱きかかえられ、時空の裂け目に入りかけていた令嬢の背に声が掛けられた。
♢♢♢
事の始まりは、オデール王国が誇る国立魔法学院の卒業パーティ―で起きた騒ぎである。
炎の如く波打つ深紅の髪を結いあげ、胸元を強調した流行のドレスを身に纏うローゼロッテ・デュンケル公爵令嬢は会場中の目を引いていた。真珠色のドレス生地に使用されているのは、極東からの輸入規制が解かれた最上級の絹であろう。その全面には小さな輝石が細かく縫い付けられている。
もしや隣国で採掘が再開されたと噂の月帝石では?ああ、あの煌めきはそうに違いない。ティーカップ一杯程度で城が一つ建つと言うが……。
周りのざわめきを欠片も意に介さず、令嬢は会場をしずしずと歩む。シャンデリアの光を受け虹色に淡く発光する様は、国内で一般的に流通している装束とは完全に次元が異なっていた。
流石は歴史あるデュンケル公爵家、今日この日の為に一体幾ら費やしたのだろう。皆がその美しさと公爵家の財力に溜息をついた時だった。
美貌の公爵令嬢は学友たちと歓談している婚約者――ギルベルト・オデール王太子の前で美しいカーテシーを取り、声を掛けた。
「ギルベルト王太子殿下」
「どうしたローゼロッテ、仰々しく礼などして。婚約者である僕らの仲にそんな物不要だろう?さあ、こっちに来て一緒に踊ろうじゃないか。今日は祝いと旅立ちの日なのだから」
そう言いながらへらへらと手を差し出す彼の両脇には、見目麗しい他家の令嬢が佇んでいた。婚約者である自分を差し置き、女を侍らせ悦に入る王太子。婚約を交わしていない者を軽々しく傍に置くなど、王族としての風聞に関わるから控えるよう何度も進言したのに。その場では大人しく頷くものの、一向に改善されないまま今日この日を迎えた。
少し前までなら公爵家に生まれた者として、責務を果たそうと我慢していたけれど今は違う。ある出会いにより、自分が如何に歪んだ環境にいたのか思い知らされた。このまま都合の良い女として王家に使い潰されるなど、まっぴら御免である。
――どうか力を貸して、イヴァン。
ローゼロッテは愛しい相手の顔を思い浮かべ自身を奮い立たせると、再度婚約者へと向き直った。
「貴方様の為を思い何度も注意してまいりましたが、わたくしの声はお耳に入れて頂けないようですね。……もう、限界です。今日を限りに貴方との婚約を破棄させて頂きます」
「な、何を言うんだ⁉この婚約は王家とデュンケル公爵家で結ばれ、教会で祝福されたものだぞ。僕らの一存でどうこう出来る物ではないだろう」
「確かにそうですね。ですが、これならどうです?」
ローゼロッテの言葉とほぼ同時に、彼女の後ろの空間に亀裂が走った。ガラスが割れる様な音と共に、そこから光が放たれ数瞬皆の視界を奪う。光の裂け目から大きな獣の腕が覗く。
そうして、裂け目から完全に姿を現したのは、銀色の体毛に覆われた巨大な獅子だった。四つん這いでいる筈の其れは、何故か人の様に二本の後ろ足で直立していた。
ふわふわとした毛に覆われた太い腕は、裂け目近くにいるローゼロッテを抱き込み、愛おし気に微笑む。
「ローゼ、迎えに来た」
突如現れた異形に、震えながら王太子は指を指す。
「な、んだ……それは……」
言いながら、彼の脳裏には幾度も教会で見た宗教画が思い起こされた。いや、まさかそんな。あれらはあくまで伝説上の存在だった筈だ。縋るように見た婚約者は、獣を傍らに不敵に微笑んでいる。
「『それ』などと不敬ですよ。この方こそ我が国オデールに伝わる聖獣にして、レーヴェ教が掲げる神レーヴェケーニヒですわ」
王太子妃教育に疲れ切っていたある日、屋敷の庭で力なく鳴く子犬を発見した。変わった毛並みに興味が湧いて保護したけれど、弱りきった聖獣だったと誰が予想するだろう。
ローゼロッテの献身的な介護により子犬は見る見るうちに元気になり、元の姿を取り戻した。お礼に何でもすると人の言葉で話しかけて来た時は、酷く驚いたものだ。
厳し過ぎる教育、浮気性の婚約者に、此方の事情を欠片も顧みない王家の面々。
苦しい心持ちを親身になって聞き優しく慰めてくれる彼に、種族を超えて恋心を抱く様になったのは仕方がない事だったと思う。彼も同じ気持ちだと知った時は、まさに天にも昇る心地だった。
彼に「君の人生なのだから、君は思うままに生きる権利がある」と言われた時、ローゼロッテは長い夢から覚めた思いだった。
家の為でも、一族の為でも無い。ただ、一個の「ローゼロッテ」として生きる権利。生まれ落ちた時から持っていたのに、今の今まで見えなくなっていた。
――ありがとうイヴァン。私、やるわ。
愛しい人の後押しがあったからこそ、ローゼロッテは此処まで思い切った行動を起こす事が出来たのだ。
狼狽し震える王太子に、ローゼロッテは力強く宣言する。
「教会の信仰対象である聖獣様自身が、私を所望しているのです。貴方との婚約は滞りなく破棄されるでしょう」
「脆い人間になどローゼは任せておけない。彼女は俺の故郷へ連れ帰る」
僅かな言葉を発しただけだと言うのに、獣の魔力は波の如く会場を走り天井のシャンデリアが揺れる。そのじゃらじゃらと喧しい音に、誰もがこの存在が幻などでは無い事を嫌でも理解させられた。
デュンケル公爵家側からの婚約破棄宣言に加え、ここ百年は現れていない聖獣の顕現。
あり得ない異常事態に皆があっけにとられ動けない中で、一人の令嬢が声を上げた。デュンケル公爵家と長く同盟関係を続けてきた、リーリエ侯爵家が三女ユリアーヌである。件のローゼロッテとは、幼い頃から姉妹の様に交流を持って来た幼馴染でもあった。
こうして、ようやく話は冒頭に戻る。
揃いの金紅石を不満げに煌めかせ、聖獣の腕の中からローゼロッテは言う。
「ユリアーヌ、いくら貴方の頼みでも私は行くわ。一向に素行を改めない王太子にも、それを注意もしない王家にもほとほと愛想が尽きました。これより先は二度と帰りません。悪いけれど引き留めても無駄よ」
「ローゼロッテ様のお決めになったことですもの。口出しなど致しませんわ。ただ……デュンケル家と当家は長きに渡り良き隣人でありました。これから旅立つ貴方様に、当家から餞別を送らせて頂きたいのです」
「餞別……」
「嫁がれるというのに、贈り物一つ出来ないなんて寂しいですわ。どうかユリアーヌの最後のお願いをお聞き入れ下さいませ」
今の状況を理解しているのかいないのか。ふわふわ微笑む年下の幼馴染に、ローゼロッテは一瞬怒りを忘れた。幼い頃からおっとりしていて何処か貴族らしからぬ彼女の事は、妹の様に面倒を見て来た過去がある。心配そうに自分を見つめるイヴァンの鬣を撫で、ローゼロッテは頷いた。
「いいでしょう。貴方の好意、ありがたく受け取ります」
「ふふ、ありがとうございます。では、どうか左手をお貸しくださいますか?」
耳元でイヴァンが警戒するように唸り声をあげる。
「大丈夫よイヴァン。彼女は信用できるわ」
侯爵家の一人娘として大切に大切に育てられてきた彼女は、他者の悪意という物にとことん馴染みが無い。
茶会で揶揄い混じりに投げ掛けられる悪口も、それを悪口だと認識していないのだ。ふんわりと微笑む姿に、やがて言った当人さえ毒気を抜かれいつの間にか友人になっている。
そんな彼女がこの場面で自分を害する筈が無い。
そもそも、剣術や馬術はいうに及ばず、魔術の腕さえユリアーヌは自分に遠く及ばない。イヴァンの腕から自分を引き戻したり、剰え傷を付けるなど彼女には到底不可能だ。
ローゼロッテの予想に違わず、差し出された嫋やかな左手首には何事も無く美しい銀の腕輪が嵌められた。繊細な意匠は模様のようにも見えるが、よく見れば細かい古代文字がぐるりと刻まれている。
「これは……」
「当家に代々伝わるアミュレットですわ。たった一度しか使えませんが、必ずやお力になるかと」
イヴァンがいるからこの様なお守り必要無いのだけれど、それでも家宝と思われる宝物を差し出した彼女の好意は受け取ろう。
「ありがとうユリアーヌ。貴方とリーリエ家の好意、確かに受け取りました」
「……末長いご無事を、お祈り申し上げますわ」
ふにゃりと眉が下がり悲し気な声を出す幼馴染をみて、ローゼロッテはくすりと笑う。
感情を表に出すなど、貴族として一番注意される事なのに。でもこればかりは仕方がない。なにしろ彼女と自分は本当の姉妹の様に仲が良かった。口では祝いの言葉を述べていても、本心は寂しいのだろう。
さっきは王太子の手前二度と返らないなんて言ってしまったけれど、向こうでの生活が落ち着いたら少しだけ顔を見せてあげても良いかも知れない。驚くだろうか、笑うだろうか。それとも子供のように顔を歪めて泣くだろうか。
その時の彼女の顔が今から楽しみだ。
ローゼロッテは晴れがましい心地で、未来の伴侶と共に揺らぎの中へと消えていった。