On your mark
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更夜side
「なあぁーにが星影だいっ。もうずっとほったらかされてるし。星影は潰えたって事だね」
銀杏並木に囲まれて、ひらひら舞い散る黄色を手のひらで受け止める。
あれからもう四年が経つ。
高校を卒業して、僕はまだ弓を続けて…弓道の先生の伝手で大学を卒業した後に弓の仕事をすることになってるし、連盟にも加入して…薄給だけど僕は一生弓道をやっていける。
高校の時に初出場した大会を覚えてくれていた人がスカウトしてくださって、将来安泰ってやつだ。
お陰様で大学生活も順風満帆だったし、のんびり勉強して…これからも弓道に打ち込める。
光は卒業後、イギリスに渡って、手術を受けて…元々障害を抱えていても実力があったんだ。
完治した彼は陸上選手としてスカウトされて、今はアメリカ暮らし。
最初の一年はメールも電話も頻繁にしていたけど、選手になってからは思い出したようにメールが届くだけだった。
ほったらかしで、ずーっとずーっと寂しい思いしかしてない。
あの時はスマホなんて持ってなかったし。パソコンでやりとりしてたけど、そのメールも毎日チェックしては悲しい思いをしてるから、もう見てない。
それでも僕はずっと好きでいる。
高校生最後の夏に優勝して、好きだと告白しあったあの日のことを忘れられずに、光の監獄へ囚われたままだ。
大学生になってからわかったけど…あれは思春期の迷いってやつだったのかな。
僕は迷ってなかったのに。
ずっと、ずっと重たい気持ちが心の中に残ったまま…寂しくて、辛くて、光が読んだあの小説のように苦しんでいる。
好きだと言ってくれる子は何故かポツポツ現れた。みんな可愛い子だし、良い子だったけど。でもダメなんだ。瞳の中に…星影がない。
光みたいなあの輝きはどこにもなかった。
「あっ!部長!!こっちこっち!」
「もー。部長じゃないでしょ?駿くん」
待ち合わせていた駿くんが手を振っている。駆け寄って行くと、肩を組まれてニヤリと嗤う。
「更夜はずっと俺の部長だからさ。しゃーねー。」
「相変わらず口が良くない。師匠が怒るのもわかる」
「す、すんません…」
ぺこ、と頭を下げるが駿は肩を組んだままだ。
光のことをボコボコにしようとしたチンピラだった彼は、僕の後についてきて同じ大学に入学、弓道を続けてる。
今年は二人で世界大会にも参戦する。こんなふうに長い付き合いになるとは思ってなかったけど。
「彼女どうなったの?」
「あー。アレはダメっす。虚言癖が治らなくて。流石にダチにも迷惑かけるから、別れました。浮気されてましたしね」
「そっか」
嘘をついて光を貶めたら彼女は駿がずっと面倒を見てきたけど変わらなかった。
僕と同じで、駿も長く囚われていたんだな。
「てか部長こそどうなったんですか?それ、光から送られてきたんですよね?」
「うん、そう。音信不通だったのにいきなり届いた。」
日本で開催される世界陸上。彼は50.100.400メートル走に全て出場するスーパースター選手だ。
メールも電話もないのにいきなりチケットが実家に送られてきてびっくりした。
「僕もそろそろ区切りをつけろってことかな」
「…別に、好きなら良いじゃないっすか…今日来るなら、会いに行って…その…」
駿は優しい。寂しい僕のことを思ってくれて、ずっと一緒にいて励ましてくれた。
柄が悪かった人たちとも縁を切って、真面目に大学生してる。
チンピラグループを抜け、怪我だらけで僕の元へ来て。
土下座しながら「弓道、やり直したいです!教えてください!」って泣きながら言ってきた駿のことは忘れられない。
スタジアムにチケットで入場して、駿と二人で観客席に向かう。
連絡してこなくなった光とはもう、高校生ぶりの再会だ。
僕から一方的に見る彼は背が伸びて、陸上選手らしいすらっとした体になって、日に焼けて…精悍な顔をしていた。
ずっと変わらず、真っ黒な目の中に星をたたえたままで。
「やべ、随分前の席っスね」
「わー、近いな。」
陸上競技のゴールライン真前で、随分じゃないよ。一番前じゃん。周りの人たち、関係者じゃないか?スポーツドリンクや国旗を持ってる人たちしかいない。
「…君が影くん?」
金髪の男性が声をかけてくる。キラキラ光るシルバーブロンド、青い目、背が高いなー。見上げるような高さから優しそうな瞳が僕を見つめてる。
「どちら様ですか?」
「光のチームのマネージャーだよ。光に言われて、君を見てるようにって。私はピーター。よろしくな。」
「へぇ。そうなんだ。」
胸がギシギシと音を立て始める。
ガラクタに塗れて、そこら中に破片が突き刺さったまま血を流してる心に…久しぶりに血が通い始める。
痛いな。あの時した怪我よりずっと、ずっと痛い。
手足の先から痛みが心臓まで届いて…死んじゃいそうだ。
「別に逃げませんよ。
よろしくはできませんね。僕がこうして光を見るのは…これが最後だ」
「……」
「ぶ、部長…」
「駿くんも付き合ってよ。フラれたもの同士、あとで飲み行こう?」
「つ、付き合うっす!」
胸の痛みに耐えながら、息を吐いてプラスチックの椅子に座る。
冷たい椅子だ。僕が初恋を看取るのに相応しい。
本当は、何度も光を見に行った。遠くからずっと、高校生の時みたいに見てた。
ずっと、ずっと。
でも、もうやめる。こんな事してても何にもならないし、光は僕を見てくれることはない。
「影くんは…フラれたと思ってるのかい?」
「…はい。」
「どうして?」
ピーターさんが駿の反対側に座ってくる。
「メールも電話もなくなって、フラれた以外に何か他の解釈がありますか?」
「…彼は忙しかったんだよ」
「それはそうでしょうね。陸上でも有名になって、今や世界中が星光を知ってる。
僕はしがない弓道部の選手で、日本の中で凡庸に暮らしてる。
釣り合うとかそういう問題じゃないでしょう、もう」
「ぶ、部長はすごいっすよ!?連盟の偉い人たちにも注目されてて、卒業したら役員になるじゃないっすか!?後進を育てて弓で食っていける人なんてそうそういないんですよ?」
「それはそうだなぁ。弓道は死ぬまでやって行くよ。ずっと、ずっと。
光と出会ったのも、これをやっていたお陰だしさ。…一生続ける」
「部長ぉ…」
駿くんが顔を覆って泣き崩れる。
君も泣き虫だなぁ。
僕も泣きたいけど、ここ数年で僕の涙は枯れ果てた。
今はただ、傷だらけの心を抱えて痛みの中で生きている。
それでもいい。もう、光と手を握れなくても、キスができなくても…光が僕を見てくれなくても。
光のことを見れなくなっても…僕は囚われたままでいたいから。
他の人を好きになんか、なれやしないんだ。
「ふーむ。色々とあるようだが…まぁ良いか。今日の終わりに色々とわかるだろう…私は応援してるよ?」
「何をですか?わけわからないんですけど」
「ふふん、それは君自身で答えを出したまえ」
得意げに笑うピーターは意地悪な顔をしてる。
ポロシャツを着た首からカードを下げて。オリンピックにも出る予定があったはずだし、ちゃんとしたチームに所属しているからこういう人が居るんだろうな。
光も、順風満帆ってわけだ。
「あっ!出てきた!!」
黒いシャツに短パン、長い前髪。
すらっとした姿の光が現れる。
会場内からは黄色い悲鳴が轟いてる。
人気だよねぇ、かっこいいもん。
高校生の時のあどけない可愛さが消えて、厳しい顔してる彼は雑誌やら新聞やらCMにまで出てたし。
世界中で引っ張りだこだ。
先週だったかな。有名女優さんとのデートが報じられたのは。
僕の机にはそれが載せられたまま。自分で読んだのに、もうそれに触れないでいる。
まずは50m走からか。
スタート位置で足や手をぷらぷらさせてる。
…ん?なんか、足の動きがおかしい。
「怪我してるんだよねぇ。だから今回の大会はキャンセルする予定だったんだよ」
「な、なんで?どうして参加してるんですか?」
ピーターさんが言った通り、足の付け根からスニーカーまでテーピングをギッチリ施してる。足を浮かせてるから…痛みがあるのか。
「なーんでかな?僕もチームも反対したけど。彼は聞かなかった。頑として首を振り続けた。日本に来られるのはこれを逃したら当分先だ」
「……。」
そこまでして、僕を見限りたかったの?
そんなことしなくたって…電話一本でいいのに。
お前のことが好きじゃない、もう別れようって。たった一言くらい言ってくれたら僕だって楽になれるのに。
がっくり力が抜けて、頭を落とす。膝の間から見える地面に、ポタポタ…枯れたはずの涙が落ちた。
光の目線を感じる。僕は、それを見つめ返せない。
光を見るのが怖い。そんな決心に包まれて、怪我をしてまで走る光を見たら…心が壊れちゃうよ。
こんなに痛いのに、どうしろって言うんだ。
「部長、光が見てますよ」
「わかってるよ…」
「部長!」
「……」
光の目線を受けて、僕の中でいろんな音がしてくる。
胸が痛い。相変わらず真っ直ぐな瞳で僕を見てくる。
お互いの目線を確かめ合って、僕たちの離れた年月を思う。
好きだったのにな。
あんなにそばにいたいと思っていたのに。
距離が離れて、年月が経てばこうして恋なんてあっという間に消えてしまうんだ。
「On your mark」
スタート用意のアナウンス。
目線が途切れて、クラウチングスタートの配置になる。
あんなに足を伸ばすのか…痛そう…大丈夫かな。
「Set」
短い号令のあと、破裂音が鳴って、一斉に駆け出す。
顔を顰めた光が長い手足を目一杯振って、空気をかき分けるように走り出す。
光の呼吸音が重なってくる。
はぁ、はぁ…と酸素を肺に送って、痛みに耐えながら足を繰り出して…。
ギリギリでトップ走者を抑えて、ゴールテープを切る。
ゴールを過ぎて、しばらく走った光が苦しそうに歩きながら息を整えてる。
風の中で、光が…一生懸命生きてる。
必死に走ってる。
いつもなら大差をつけて一位なのに、怪我が影響してるんだ。
「なんか、ギリギリっすね。いつもの余裕がない」
「怪我してるからねぇー。苦しいだろうな。痛いし、苦しいし、ギリギリの戦いだし」
再び光の目線が送られてくる。
僕、泣きそうなんだけど。もう目が逸らせなくなっちゃっただろ。
わずかに微笑んだ光が、トラックの端に座ってる。テーピングを巻き直してもらって、顔を顰めてる。
「このあと400mまで出ずっぱりだよ。痛み止めはドーピングに引っかかるから飲めないのさ」
「やめて…やめてよ。もう。僕はこんなことしなくたって、ちゃんと諦められる。
光が痛い思いをしなくたって、見せ付けなくたって…。僕、帰ります」
カバンを持って、立ち上がるとがっしりした手が僕の右手を掴んでくる。
筋肉にしっかり巻きついて、凄い力だ。
「ダメだよ。光と話をしてもらいたいから。彼もちゃんと区切りをつけなきゃならない」
「…いやだ。もう、もう…僕はもういいよ。僕はずっと好きだった。彼の重荷になりたくない…走る姿はずっと見てましたよ。テレビでも、ネットでも。
どうしてこんな事するんですか…」
ピーターさんが腕を引っ張り、冷たい椅子に押し付けられる。
「全てが終われば全てがわかる。
君はその時まで帰れない。光がそう望んでるから」
「……」
苦しい。叫び出したい。逃げたい。
ピーターさんの強い眼差しが僕を射抜いてくる。
青い瞳の中にある、その意思が僕の体を動けなくしていく。
いいよ、もう。それなら見てやるさ。
痛くて痛くて死んでしまいそうだ。
それなら死んでもいい。光がそう望むなら。
「はー。もう、離してください」
「逃げるのはやめた?」
「はい」
「そ?」
パッと離された腕がジンジンしてる。馬鹿力で掴むなよ。利き手なんだぞ。
「なんだろなー、日本人の恋ってもどかしいよねぇ。なーんでこう、スパッとシャッキっとしないわけ?」
「は?知りません」
「君だってさっさと光に会いにくればよかったじゃん?光のせいにしてるっぽいけど、好きならそう言えばいいだけなのに」
「彼のためにならないでしょ。それこそ、忙しいのに…忘れようとしてる人が会いに来たら迷惑だ」
「こうして招待されてるのに?」
「最後にしろって意味でしょ」
「なーんでそうなるんだ…why Japanese peopleなんですけど」
「腹立つな…」
訳がわからないのは僕の方だよ。
背中を椅子の中に押し込めて、ひたすら唸る。
次の競技のアナウンスが始まった。
光が足を引き摺りながら、スタートに並ぶ。
「クソッタレ」
最近覚えた日本のエフワードを口にして、僕は光を見つめた。