一線を越える
2018年 リムソンシティ ホーネット地区 地下格闘技場
今日も重量マシーンで運動をするラースキン巡査の隣には、いつも通り接待嬢のアイリーンがいる。自分は情報取得のために彼女を利用し、彼女は組織のために自分を利用しているだけ、そう言い聞かせていたラースキンだが、最近彼女に親しみを感じている。彼女はラースキンを好意的に受け入れてくれる気がしたのだ。
ラースキン巡査は愛に飢えていた。彼は子供の頃、両親に愛されていると感じたことは一度もなかった。とある大企業の幹部の息子である父親と検事の娘である母親は彼らの家族の影響で冷酷な性格をしていた。即ち、彼らにとって子どもは愛を注ぐ対象ではなく彼らが自由自在に作り替えることのできる「作品」であった。気に入らないところは強制的に修正しようとする。そんな彼らに嫌気がさして、ラースキンは模範的な子どもの正反対を目指すことにした。即ち不良である。不良になった後に出会ったメリーという女性はそんな彼にとって貴重な存在だった。彼を心の底から愛してくれたのだ。その後彼はメリーの両親の愛国的な政治活動(彼らはプロテスタント系の政党の党員であった。)に触発されて軍隊に入る。軍隊は大変ではあったが、メリーのおかげで人生は充実していた。だがそんな喜びの時間をオスカーという間抜けな部下が壊す。彼はテロリストに対して過剰なまでの拷問を行ったのだ。それにより、ラースキンは監督責任で除隊。メリーはラースキンを慰めてくれたが、ラースキンはその愛情を自ら拒絶した。妻子に暴力をふるった。酒を浴びるように飲んだ。不良の頃よりもすさんだ生活をした。気づいた時には遅かった。彼は虐待者とされ、メリーと離婚。こどもたちはもちろんメリーのもとに。そして今。彼を愛する者はいない。
アイリーンの甘い言葉は、たとえそえが本音ではなく金稼ぎのための言葉だったとしても、ラースキンにとっては至福の喜びだ。こんな偽りの愛に落ちる自分を情けないと思いながらも、アイリーンには魅力を感じてしまう。
「すごいわね!頼もしい方!」アイリーンはラースキンを褒めちぎる。彼が最大速度でランニングマシンを、汗も流さず平然とした顔つきで走っていることに対する賛辞だ。「次は重量挙げで君を持ち上げてあげよう。」とラースキン。ランニングマシンを降りた彼に大きな胸を押し付けてくるアイリーン。ラースキンは重量挙げの中から80kgを選ぶ。そしてアイリーンが平然とその重量挙げの上に乗る。「私の気持ちを舞い上がらせてごらんなさい。」と挑発する。「やってやるとも。」と彼は返し、踏ん張ってアイリーンごと重量挙げを持ち上げる。周囲から驚きと嫉妬の声が上がる。
柔道の黒帯を持つ地下格闘技構成員のもとでの戦闘指導の後、少し休憩だ。ラースキンはこの時にさりげなく情報収集をする。「君がこの地下格闘技運営団体に雇われた経緯が知りたい。」一瞬警戒したように見えたが、彼女はすぐいつもの男のハートを操る笑みに戻った。「私ね、今はこんなに綺麗なドレス着ているでしょう。」「ああ、とても似合うよ。」「ふふ、ありがとう。でもね、昔はこんなドレスじゃなくてね、すりきれたジーンズと色あせたジャンパーを着て道端で色を売っていたのよ。」「なんと!あんたがか?」ラースキンは心の底から驚く。この高級感をまとった美女が道端で・・・!「ふふ、意外でしょう。私を買う奴のほとんどはあんたみたいなイケメンさんじゃなくてね、だいたいは薬をキメたブスのチンピラだったよ。ヤクちゅうのチンピラから彼らのわずかばかりの貯金を巻き上げていたのよ。下劣な商売よね。」自嘲気味に笑う。「だ、だがやむなくやったのだろう?金に困っていたかなんかで。」「ええ。」驚くほどあっさりと彼女は言う。「実はね、麻薬の売人が私たち道端売春婦に給料を与える代わりに春を売らせたの。奴は男たちに麻薬を提供して金を奪い、さらに思考が鈍った彼らに春を買わせたわけ。奴はめちゃめちゃ儲けていたけど、私たち奴隷はほんのわずか。だけど当時トンずらしたクズ彼氏に多額の借金を押し付けられていた私は必死になっていた。わずかの金にもかぶりつく下等生物になっていたのよ。」「それでか・・・で、君はなぜここに?なぜ俺を虜にできている?」その言葉が誘導作戦ではなく自然に出た言葉であることに我ながら驚くラースキン。しかしそんなラースキンの内面にお構いなくアイリーンは「そうそう、その話だったわね。」と続ける。「あるときね、いつもと違う雰囲気をまとった男が私を車に連れ込んだ。アンバランスに飾り立てた安物の車を乗りまわす連中とは違う。立派な高級車にのり、高級スーツに身を包み、目はきちんと開かれていた。私を買うヤクちゅうどもの目は薬のせいでおかしいの。しかもその男は運転手とボディガードまで付けていた。この状況でカーセックスか、と思ったけどその男はカーセックスをせずに私をドラゴンホテルに連れ込んだ。」「ほう。かなりの金持ちのようだな。」ドラゴンホテルはリムソンシティで一番高級なホテルである。政治家、俳優、女優、大企業の社長、歌手などの大物ご用達だ。「そうね。でね、ホテルに入ったらベッドインかと思うでしょ?」「ああ。まさか違うのか?」「そう。そもそも彼は私の春を買うために連れ込んだわけではないようよ。」「え?」「彼はね、私の才能をもっと健全な目的のために生かせる場所があると言った。どういうことか分からなかったけれど、そのうち彼の部屋になんと私から金を巻き上げている麻薬売人がやってきた。そのときの奴の顔といったら・・・」彼女はおかしそうに軽く笑う。その笑い方がなんともかわいらしい。「奴はこの高級スーツを着た男に怯えていた。ギャングとやりあえそうな柄の悪い大男が穏やかそうな青年に怯えている様子は滑稽よ。彼はね、私は今日から自由の身だといってそそくさと逃げるように出ていったわ。」「ほう、その青年は何者だったんだい?」「よくわからないけど多分この組織の人材発掘部門の幹部ね。」「どこかのギャングのボスかな?売人が怯えるほどだし。」「さあね、私もその青年の正体はよくわからないのよ。今のも憶測で言っただけだし。その後彼は私をあの男に紹介したの。」そういって彼女が指さしたのはパイプ椅子に座って無表情にトレーニングの様子を眺める眼帯の男。あの男はデスマッチの選手の歓待とトレーニングスペース、ドリンクバーの管理を担当しているようだ。「ほう、俺も少し気になっていたが、あの男は何者だ?」「たぶんだけどここにおける私たちの直属のボスね。だけどこの組織のボスではないことは確かね。」「というと?」「彼は私を引き抜いた青年に対してはひどく丁寧に接していた。青年のほうはため口だったのよ。恐らく立場としては青年の方が上よね。」ラースキンは疑われる前に質問を終わらせたが、ある閃きがあった。麻薬の売人・・・稼いでいる・・・ギャングとやり合える・・・・一人の人物の顔が浮かんだ。
翌日 リムソンシティ 行政特別区 リムソン市警
署長室でロックウェル署長は少し驚いた様子で電話の向こうの副刑事部長ラリーの話を聞いていた。「ほう。そんな身近なところに。ああ、分かっているよ。まだ確定的ではないがね。確かめてみよう。」受話器を置いた署長は自分の家計に貢献している贈賄者の一人にメールを送る。
しばらくして面会室にロックウェル署長、モニカ副署長、ラリー副刑事部長が集まってドクターダニエルと対面していた。
彼は表向きは町の有名な外科医だ。しかし裏の顔は麻薬売人の元締め。裏稼業として運び屋の体から麻薬を取り出す仕事をしている。彼は街に多く存在する犯罪組織の熾烈な競争の間で生き残るためにリムソン市警に賄賂を払い、なおかつほぼ無償で警察署内の医務室にも非常勤で通う。
「どうしたんだね?」とダニエル。「この街には運営者不明の地下格闘技場がある。」と突然語りだすロックウェル。「ほう。だが私になんの関係が?」「あなた、その運営者の正体を知らない?」とモニカ副署長。ダニエルは真顔で問い返す。「なぜそう思う?」「実はな・・・」ラリーがラースキンの報告に合った話をする。ダニエルはそれを聞き、鼻で笑う。「なるほど。確かに私はこの街に根を張る麻薬売人だ。だが水商売を動かしたことはない。麻薬一筋でやってきた。それに運営者らしき男に怯えるタマじゃないのはあんたらも分かっているだろう?」と三人の幹部を挑発的に見る。「実際問題、あんたたちは私の実力を知っているだろう。ダスケに直談判して、彼に私の取引に介入しないと約束させた。」「ああ。そうだな。だが、あの時我々を通じて塀の中のイタリア人の大物と接触して口利きしてもらったろう?」とロックウェル。ダニエルは不愉快そうな顔をしながら、「とにかくだ。私にはその格闘技団体とやらは分らんぞ。」と言う。「そう。分かったわ。いざとなったら捜査するだけだし。」とモニカ副署長が言い、このにらみ合いは終了した。
同日夜 リムソンシティ ダック地区 密造酒バー「ウルフガン」
ラースキンはこっそりとピストルの撃鉄を起こして店に足を踏み入れる。この店ではいつなんどき襲われるか分からない。ならず者と麻薬依存症の者の巣窟だ。鋭い支援を投げてくるロシアンマフィアのグループと、明らかに違法薬物と思われる者を堂々と取引している二人のフードを被った人物達の間を通り抜けて奥のテーブルに向かう。
そこにはピンクの覆面を被り、猛犬を二匹連れている(二匹とも頑丈な鎖で机の脚に結び付けられている。)人物がいた。その人物は誰とも関わらず、一人で安酒を飲んでいる。「やあ。」とラースキンは声をかけ、勝手にその人物の向かい側の空席に座る。相手は黙ったまま煙草を取り出し、ふかしはじめた。ラースキンはダロス警部に持たされた封筒を相手のほうに滑らせる。相手はその封筒を一瞥すると初めて口を開く。少ししゃがれた男の声だ。「どんな情報が欲しい?」
彼は裏社会に精通した正体不明の情報屋ピンキーマスクだ。この街に多く存在する全ての犯罪組織から頼られ、警戒される存在だ。彼に機密情報を握られているため彼を消したいと思う者は多くいるだろう。だが彼のような、どの組織にも忖度しない情報屋は貴重だ。だから誰も彼を殺さない。そして、彼は捜査機関やメディアにも情報を提供する。
「とある地下格闘技のことなんだが・・・・」「ああ。知っている。」「本当か!」「もちろん。だがその実態は不明だ。」「そうか・・・」目に見えてラースキンは落ち込む。「以上か?」「ああ。」「そうか・・・ならば金はこんなに要らん。半額でいい。」ピンキーマスクは封筒から半分だけ金を抜き取ると、封筒を突き返してまたぬるくなったビールを飲み始める。ラースキンは黙ってその場を立ち去った。
二日後 地下格闘技場
ラースキンがはいった途端アイリーンが駆け寄って来たからラースキンは驚いてしまった。彼女の振る舞いはもはや金目当ての商売女の振る舞いではない。「ねえ、今日は団体の人たちがいるから私とお話しましょう。」と流し目を送ってくる。「あ、ああ・・・」
ラースキンの心は戸惑いだらけだ。なによりも彼は自分に驚いていた。アイリーンに声をかけられたときは気分が高揚していたように感じられる。彼女は自分を気にいっているようだ。それだけで彼は嬉しくなった。捜査中にも関わらずだ。不適切な感情であることは分かっていた。捜査に集中しなければいけない。でも・・・彼は自分に言い聞かせた。彼女はあっさりと組織に拾われた経緯を話してくれた。警戒心が薄いんだ。捜査のためにも彼女との交流は必要なんだ。
トレーニングエリアを独占するソマリアギャングチームのピンキーライオンズを横目に見ながら、彼とアイリーンはドリンクを片手に話す。「あなたはこのような刺激的な遊びをどこで知ったのかしら?」「おう・・・実は俺は最初この格闘技の配信を見ていてさ、とても面白いもんだからどうやるんだと思ってね、でダークウェブで情報収集したら、この表にあるバーにたどりついたわけさ。」「あらま。やっぱりあなたは刺激を求める獅子なのね。かっこいいわ。」「ああ、ありがとよ。」心からの言葉だ。ラースキンはそんな自分を怖く思いながらもアイリーンとの話を続ける。「君は俺を随分と気に入ってるようだな。俺よりも金も体力もありそうな奴、わんさかいるじゃねえか。」「ふふ・・・私はあなたがいいのよ。他の男たちは私の同僚に任せるわ。ほら、見て。」そういって、アイリーンはピンキーライオンズのボスにマッサージをするマーガレット潜入捜査員を指さした。「あのワンダ(マーガレットの偽名はワンダであるようだ。)って女、新入りなのに私の上客を取っていっちゃうのよ。でね、私は諦めたの。」少し陰のある表情になるアイリーン。「何をだ?」「金にこだわることよ。」「おいおい・・・あんたの生活は俺らのような、君を気に入ってる客を利用して営業成績を上げることだろう?」「本当はそうね。だけど私は本当の愛情に飢えていたの。」ラースキンは彼女に運命的なものを感じた。そして、気が付くと自分も愛情に飢えていたことを語り出していた。それに呼応して、彼女も自分の人生を語ってくれた。ラースキンよりも壮絶な人生だ。
彼女の母親は商売女であった。ヤクザの経営する「遊郭」で体を売っていた。ある時、そのヤクザと関わりの深い日系企業のアメリカ人幹部が彼女を所望した。彼は部屋に入った途端、彼女の服を引きはがし、半ば強引に行為に及んだ。普段ならば商売女を傷つける行為に対しては表に出てきてヤクザ経営の店であることを思い出させるヤクザである。しかし今回は客がヤクザの上の方と深いつながりがあるせいで、客の行為は黙認された。後日、子ども、すなわちアイリーンが生まれた。子どもの存在を知ったヤクザはアイリーンの母親を路頭に追い出した。アイリーンの母親は後ろ盾なしの商売女になった。身を売って稼いだ金で麻薬取引の現場にもなっているボロアパートに引っ越した。その影響で、ある時母親は麻薬に手を出してしまう。そのせいで人格崩壊した彼女はアイリーンに虐待をするようになった。そんな母親でもアイリーンは愛していたし、尊敬していた。麻薬に堕ちる前は男に捨てられても子どもを大切に守り、育てようとしていたからだ。そんな母親は、ある時麻薬売人に殺される。麻薬を盗もうとしたからだ。アイリーンはその売人を殺そうとしたが、逆に捕まった。死を覚悟したが、売人は彼女を殺さなかった。だが別の方法で彼女を苦しめた。それが道端で春を売ることだったのだ。
彼女が語り終わると二人の間に沈黙が流れる。やがてそれは温かいものに変わっていく。互いを理解した、と感じている空気。その空気感の中でアイリーンがある提案をした。「この後、ホテルに行きましょう。」「ああ。」ラースキンは自分でも驚くほど自然と答えていた。こうしてラースキン巡査は遂に一線を越えた。