第139話 ジャーマン・スープレックス
クロガネの豪腕が鈍い轟音を響かせる。
酒呑童子の長身がぐるりと一回転し、仰向けにマットに叩きつけられる。
「っしゃぁっ! コラァ!」
間髪入れず、クロガネが酒吞童子の両足を脇に抱え込む。
持ち上げ、ひねり、酒吞童子をうつ伏せに反転。
そしてそのまま両足を引き、酒呑童子の背中に腰を下ろす。
――逆エビ固め
背中と腰の関節を極めるプロレスの基本技。
戦後のプロレス黎明期から、多くのプロレスラーが必殺技として多用した技。
近年のプロレスでは逆に見ることの少なくなった、基本にして奥義。
それが炸裂し、避難者たちが歓声に沸き立つ。
「ぐおおっ!」
酒呑童子の端正な顔が苦痛にゆがむ。
両腕をバタつかせるが、背中にいるクロガネの身体には届かない。
びきびきと背骨が軋む嫌な音が体内で反響する。
「おっと、プロレスを知らねえんだったよな。降参したけりゃマットを3回叩け。それかロープに触れろ。ロープに触れたら技を解くのがルールだ」
満身の力で酒吞童子の脚を引きながら、クロガネはレッスンを再開する。
酒呑童子は歯を食いしばりながら、クロガネの巨体を背負ってマットを這う。
一回、二回。
両腕を伸ばし、引く。
それはさながら蝸牛の如く。
ぬめった汗が、マットに軌跡を残す。
三回、四回。
両腕を伸ばし、引く。
震える指先が、かろうじてロープに触れる。
「ブレイク! ロープブレイク!」
「ハッ、根性あるじゃねえか」
ササカマの宣言で、クロガネが技を解く。
酒呑童子は荒く息を吐きながら、ロープを掴んでかろうじて立ち上がる。
「なぜ……技を解く……」
蓬髪を振り乱しながら、酒呑童子がつぶやく。
「ああン? それがルールだからだよ」
コーナーに戻り、ロープにもたれかかりながらクロガネが応える。
「なぜ……刀を使わぬ……。先に武器を使ったのは儂だぞ……」
「ハッ! 舐めるんじゃねえよ。ルールも知らねえよちよち歩きのトーシローに凶器を使われて、凶器で返して何がプロだ? 何がプロレスラーだ?」
それは、クロガネの矜持。
ひとたびプロレスラーとしてリングに上がれば、徹底してプロレスで戦う。
関節に刃物を埋め込んだ敵が相手でも、橈骨をショットガンに入れ替えた敵が相手でも、チタンセラミックの歯で噛みつく敵が相手であっても、クロガネは愚直にプロレスに殉じる。
それが、クロガネの道。
クロガネの歩むプロレス道なのだ。
「くくく……なんとも面白い人間がいたものよ……」
「ったりめえだ。面白い試合を見せるのが、面白い試合で魅せるのがプロレスラーの仕事なんだよ」
「ハハハッ! 仕事! 仕事か! 人間は随分と面白い仕事を生み出したのだな!」
「なんだかわからねーが、ありがとよ。で、休憩は済んだか?」
「まさかこの酒吞童子が情けをかけられるとはな。ああ、休ませてもらった。これよりは、儂も命懸けで挑もうぞ!」
酒呑童子の全身を、青い雷光が走る。
空気がパチパチと灼け焦げ、雷の匂いが漂う。
蒼炎がゆらゆらと立ち上り、陽炎で周辺の景色が歪む。
酒呑童子は思う。
あの右拳の一撃は、卜部季武の剛弓を思わせた。
酒呑童子は思う。
ぶちかましを受け止めた剛力は、碓井貞光を思わせた。
酒呑童子は思う。
己の喉を打った豪腕は、坂田金時の鉞を思わせた。
酒呑童子は思う。
己を投げ飛ばし、関節を固めるその技は、渡辺綱の柔を思わせた。
蒼炎に包まれながら、酒呑童子は笑う。
まるで、頼光の配下どもと一度に戦っているようではないか。
あの者たちは一対一にこだわり、結局まとめて闘うことは出来なかった。
酒呑童子が望んでも、決して応じることはなかった。
千年にわたる飢えが、癒やされることのなかった渇きが、いま満たされようとしている。
「へえ、雰囲気が変わったじゃねえか」
クロガネが歯を剥いて笑う。
「なに、眠気を醒ましてもらっただけよ」
酒呑童子が歯を剥いてそれに応える。
そのまま腰を落とし、再び相撲の立ち会いの構えを取る。
蒼炎が激しく燃え上がる。
それは酒呑童子の命の炎。
妖気が燃え盛る魂の輝き。
<運営>の観点から説明すればこれは魔素の燃焼現象だ。
酒呑童子の正体は濃密な魔素の圧縮構造体だ。
魔素自体に意志が宿り、知恵を得た情報生命の一種である。
魔素の薄いこの宇宙においては極めて特異な存在だった。
酒呑童子は、己の命を燃やすことにより、初めて本当の実力を発揮できるのだ。
しかし、これは酒呑童子自身も、当然クロガネも知る由もないこと。
そして、この闘争にも関係のないこと。
いまはただ、二頭の凶獣の闘志がリング上でぶつかり合うのみ。
「人間。いや、クロガネ。参るぞッッ!!」
「かかって来いやオラァッッ!!」
爆音。
酒呑童子が一筋の雷光と化す。
全身全霊のぶちかましが、クロガネの巨体に突き刺さる。
クロガネの巨体が弾かれ、雷光が貫いていく。
「ぐおっ!?」
「クロさんっ!! うしろっ!!」
ササカマが思わず叫んだ。
クロガネが正面からパワー負けする姿など、初めて目にする光景だったからだ。
そして、クロガネの背後に、大きくたわんだリングロープに背を預けた酒呑童子がいたからだ。
しかし、振り向く隙もなく、酒呑童子が再び雷光と化す。
さながらロープは弦。
酒呑童子はつがえられた矢。
放たれた酒呑童子が、クロガネの背後から腰に組み付く。
「投げられるばかりでは面白くなくてな」
「ハッ! このままじゃ、とんだ塩試合だったからな。テメェがちょっとはやれて助かるぜ!」
「フハッ! クロガネよ、貴様はやはり面白いぞッッ!!」
酒呑童子の身にまとう炎がさらに大きく燃え上がる。
その全身の筋肉がびきびきと音を立てて膨れ上がる。
クロガネの巨体が酒吞童子の剛力によって持ち上がる。
そしてそのまま、巨体が弧を描く。
全身をうしろに反らした酒呑童子が投げたのだ。
クロガネの両肩が、轟音とともにマットに叩きつけられる。
クロガネの口から、「ぐう」と短い苦鳴が洩れる。
――ジャーマン・スープレックス
そうとしか呼びようのない投げが炸裂した。
もちろん、酒呑童子はそんな技の名前など知らない。
しかし、見事に半円を描いたその軌道は、かつてプロレスの神様と呼ばれた男が得意とした必殺技の瓜二つ。
すなわち、ジャーマン・スープレックスそのものだった。
ササカマが、そして避難者たちが、言葉を失い静まり返った。
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