第138話 ラリアット
酒呑童子の額から生える2本の角が、クロガネの腹筋をえぐっていた。
もう少し、ほんの僅か、指先一本ほども押し込めば腸が破れていただろう。
しかし、鋼鉄の腹筋はすんでのところでそれを押し留めていた。
「そんじゃあ、こっちの番だ」
食道からせり上がる熱い血を飲み込み、クロガネが不敵に笑う。
酒呑童子の背中から覆いかぶさり、腰に手を回す。
傷口が引き裂けるのも構わず、酒吞童子を逆さまにぶっこ抜く。
酒呑童子の長身を、その分厚い肩に担ぎ上げる。
「ぬおっ!?」
「歯ァ、食いしばれよ」
そのまま、振り下ろす。
鉱夫が振るうツルハシのように、酒吞童子を振り下ろす。
落雷。
否、落雷の如き轟音。
酒呑童子の背中が、マットに叩きつけられる。
リング全体がぐわんぐわんと揺れ、囲むロープが弦楽器のように震える。
――パワーボム
クロガネの全体重を乗せた衝撃が、酒呑童子の全身を痺れさせる。
プロレスの代名詞のひとつとも言える技が炸裂し、酒呑童子はマットに大の字に横たわる。
その顔面に、クロガネの肘が降りかかる。
寸前で酒呑童子が身を捩り、エルボードロップをかわす。
そのまま素早く立ち上がり、2歩、3歩と飛び退る。
「フハッ! 驚いたぞ! 金時の相撲には、儂も手を焼いたのだが」
「ハッ! テメェみてえな真似っこが相撲だと? プロレスにはな、力士出身のレスラーがごろごろしてんだよ。横綱級のぶちかましは、あんなもんじゃねえぜ?」
腹の傷から血を流しながら答えるクロガネに、酒呑童子は顔をしかめる。
「ああ、ぷろれすは徒手空拳が信条だったな。これは無作法をした」
そう言うと、酒吞童子は己の角に手をかける。
それから歯を食いしばり、両腕に力を込める。
びきびきと生木が裂ける音。
ぶちぶちと生肉が裂ける音。
だくだくと流れる紫の血液。
「ふう、これでよかろう」
紫の血で顔面を染めながら、酒呑童子が笑う。
その両手には、いまぶち折ったばかりの2本の角。
根本は紫、先端は赤に濡れたそれを、酒呑童子はリング外に放り捨てる。
「血止めも必要だろう。待ってやる」
「要らねえよ、ンなもんは。おい、ササ、タオルくれや」
「押忍!」
リングサイドのササカマが、クロガネに向かってタオルを投げる。
降参を告げる白タオルではない。おさかなプロレスのロゴが入った水色のタオルだ。
クロガネはそれを掴み取ると、腹の傷をごしごしと無造作に拭く。
水色のタオルが、みるみる真紅に染まる。
そして、真紅のタオルをササカマに投げ返した。
その後に残ったのは、生々しい肉色の傷。
しかし、そこからの出血はない。
鍛え上げた腹筋を締めることにより、止血を行っていたのだ。
「フハッ! 貴様、本当に人間か?」
「おう、よく聞かれるが、一応人間のつもりだぜ」
酒呑童子とクロガネが、同時に笑う。
それは旧来の友が出会ったようでもあり、猛獣が牙を剥き威嚇しあっているようでもある。
二頭の凶獣の笑い声が、道場に満ちる。
「腹の底から笑ったことなど、これもまた千年ぶりよ。ああ、そうだ。褒美をやらねばな」
酒呑童子が上を向き、おもむろに口を開ける。
その口から、みりみりと刀の柄が現れた。
鮫皮に金糸銀糸を巻いた見事な拵え。
鍔のないそれが鎺まで来たところで手をかけ、ずるりと抜き出す。
「銘は安綱だ。童子切だの、鬼切だのと呼ばれておる」
妖しく光る刀を、酒呑童子は無造作に放り投げた。
かつて酒吞童子を斬ったとされる童子切安綱が、クロガネの足元に転がる。
「これで、今度こそ儂を斬ってみせよ。あの忌々しい陰陽師どもの言霊を、絵空事ではなく真実にしてみせよ」
クロガネは足元の刀を見下ろす。
眉を曲げ、顎を二三回掻き、それからつま先でリング外に蹴り飛ばす。
「は?」
酒呑童子の目が丸くなる。
童子切安綱は、人間どもが誰もが求めた名刀だ。
京の貴族が、各地の豪族どもが、帝でさえも求めたという名品だ。
それを軽々と足蹴にするこの男は、何を考えている?
「俺にポン刀を寄越すたァ……ずいぶん舐めてくれるじゃねえか。おまけにこんな唾だらけのばっちいもんをよォ……」
クロガネの顔に赤黒い血管が浮き上がる。
両足の筋肉が、脹脛から太腿にかけてポンプのように脈打つ。
上半身の筋肉が熱を含んで、どくどくと脈動しながら膨れ上がる。
「面白れぇやつかもしれんと思ったが……テメェもヤクザのたぐいかよ……」
「待て、何を言っておる?」
クロガネが身体を捻る。
上半身がほとんど真後ろを向くまで、大きく体をひねる。
右の拳が、大弩に装填された太矢の如く、限界まで引き絞れる。
破断する寸前まで巻き上げたゼンマイを思わせる、ぎちぎちと筋肉が軋む音が静かに響く。
怒気。
怒気。
怒気。
圧倒的な怒気が、空間を包む。
目を輝かせてクロガネを応援していた避難者たちさえ、瞬きも、呼吸すらも忘れる。
空気が、弾ける。
「ぶっ殺すぞこのドチンピラがぁッッ!!」
放たれた右拳が、酒呑童子の頬を貫く。
長身がぐるりと回転し、回転し、回転し、逆さまになってロープに叩きつけられる。
輪ゴムのようにたわんだロープが、パチンコのようにその身体を弾き返す。
戻ってきたその身体を、縦回転するその身体の、白い首をめがけて、クロガネの巨木の如き二の腕が迎え撃つ。
――ラリアット
得意技で吹き飛ばし、戻ってきた相手に容赦なく追撃を加える。
超日のリングでは、危険すぎると封印された禁じ手。
メキシコのリングでは、何度となく刺客を返り討ちにした連続技。
死神の大鎌が、酒呑童子の首を刈り取った。
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