第137話 人間と書いてプロレスと読む
言霊という信仰がある。
神道を始めとする世界各地の古代宗教に伝わる、口に出した言葉は実現する――という考えだ。
「誰それが不幸になればいいのに」と多くが願えばその通りになるし、「ああ、自分の人生なんてお先真っ暗だ」と当人が深く思えばそれらは実現する。そういう素朴な信仰の形である。
しかし、表の世界には伝わらない、呪術の世界ではそれは異なる。
言霊が現実化するのではなく、現実を言霊に閉じ込めるのだ。
神道では荒御魂、和御魂というものがある。
前者は人に害をなす悪神であり、後者は人に恵みをもたらす善神だ。
だが、それらは簡単にひっくり返る。
悪神をもてなせばそれは和御魂に変わるし、善神も粗末に扱えば荒御魂と化す。
本来の意味での言霊とは、そうした相互作用を生み出す呪いなのである。
千年の昔。
平安京の御代には酒呑童子は現世の存在であった。
京の都の北西、大江山に絢爛豪華な大城を築き、土蜘蛛と呼ばれる一族を率いたあやかしの王であった。
千年前、この国にはたしかにふたつの王が存在したのである。
人間の目から見れば、それは大皇が統治する日の出ずる国。
あやかしの目からは、それは鬼神が睥睨する日の没する国。
そういう国であったのだ。
しかし、日の出ずる国の帝はそれをよしとしなかった。
昼も夜も、己が手で支配したいと願ったのだ。
これは一概に権力欲とは言えない。
夜の支配者であるあやかしどもは、人間を人間とも思わない。
日が没すれば我が物顔で京の都を闊歩し、赴くままに人を喰らう。
まぎれもなき悪だったのだ。
まあ、これはあやかしの側から見れば言い分もあろう。
人間どもは火を発明して以来、ずっと夜を払い続けてきた。
あやかしからすれば、先に領分を破ったのは人間の方なのだ。
夜の世界ではたしかにあやかしが横暴を振るっただろう。
しかし、昼の世界であやかしを狩り続けたのは人の側なのだ。
これは少々視点が高くなりすぎるが、無数に存在する平行宇宙の中で、この世界は特段に魔素が薄い。
たかが陽光ごときに散らされる魔素しか存在しない世界では、あやかしどもは夜に生きるしかなかったのだ。
魔素で構成されるあやかしは、光に当てられるとたちまちその超常の力を失う。
その中で、異彩を放ったのが酒吞童子である。
曰く、天津神と国津神の不義の子であるという。
曰く、人でありながらあやかしの肉を喰らったという。
曰く、大皇と荒御魂が睦んだ忌み子であるという。
本当の来歴は誰も知らない。
夜であれ、昼であれ、変わらぬ暴虐を振るった鬼は、昼に追われる者の王として君臨したのだ。
このまま、昼の世界を飲み込んでくれ。
昼に追い散らされる我らを救ってくれ。
そんな願いを携えて、列島各地の夜が酒吞童子の麾下に集った。
しかし、当の酒吞童子にはそんな様子は見られない。
日々酒宴を楽しみ、ふと思い立ったがように人間どもを蹴散らすだけだ。
夜どもは非常な不満を抱えていたが、酒呑童子の圧倒的な力の前には口に出すこともできなかった。
酒呑童子がとくに楽しみにしていたのは、源頼光とかいう昼との戦いであったらしい。
この人間は、大皇に仕えるサムライという人間らしい。
大皇に侍らう者、という意味なのだそうだ。
頼光は4人の配下を引き連れ、たびたび大江山にやってきた。
そして酒呑童子はそれを喜んだ。
頼光は云う。
「血の気の多い郎党でな。こうして発散させねばならんのだ。あと、ついでに退治されてくれると助かる」
「誰が退治されてやれるかよ」
酒呑童子は応える。
頼光自身は戦わない。
細身でなよなよした、いかにも貴公子と言った風情だった。
ひいふうひいふう言いながら、大江山への険しい山道を歩いてくるのだ。
卜部季武、碓井貞光、坂田金時、渡辺綱の4人の荒武者を引き連れて。
「大将、山登りなんて面倒ですからね。山を囲んで矢の雨を降らせてやればいいんですよ」
「あー、いや。山の麓から矢が届く化け物なんて君だけだからね?」
卜部季武は右腕だけが異様に長く、太い。
その指先は鉤状に曲がって硬直している。
日ノ本でも最高と言われる弓の名手だが、しかし、それでも酒吞童子に矢は届いていない。
「うちの太郎にやらせときゃァいいんすよ。こいつ、放っておいても喧嘩売りに行くんだし。そんなことより今年の稲が気になるんすわ」
「碓井くん? あのねえ、ボクにも立場ってものがあってね? あー、それから弟子をあんまり放任するのはどうかと思うなあ」
碓井貞光は色黒ののっそりとした男だ。
鎧を脱がせて襤褸を着せれば、百姓か木樵にしか見えないだろう。
「おす! 自分が行くでごわす! 今日こそ一番、土をつけてみせるでごわす!」
「待て、お主の番ではなかろう。拙者もこの日のために技を磨いてきたのだ」
「まとめてかかってきてもかまわんのだぞ?」
「「それでは武士の一分が立たぬ!!」」
酒呑童子の半ば呆れた言葉に、声を合わせるのは坂田金時と渡辺綱だ。
碓井貞光の弟子である金時は、金太郎のおとぎ話でおなじみの彼だ。七尺を超える長身だが、遠くからではそうは見えない。横幅が大きすぎるのだ。筋骨を丸めた団子のような男であった。
彼と言い合いをしたのは渡辺綱。
一見して女と見紛うような痩身の美貌。本当に男なのかすらわからない。金時と綱が向かい合う姿は、一本の稲と太くそびえる杉のようだった。
「して、主殿、今日は拙者の番であったろう?」
「いやいや、おいの番でごわす。この前、綱は片手でぶん投げられていたでごわす」
「この間に弓でぶち抜いちゃえばいいんじゃない?」
「今年はいい稲ができると思うんだけどなあ」
好き勝手を云う郎党どもに、頼光は烏帽子を脱いで頭を掻く。
「まあ、こんな感じだからさあ。酒呑童子くんは誰がいいと思う?」
「フハッ! それを儂に聞くか。たまには貴様自身がかかってきてはどうだ?」
「あー、いや、そういうのはなしで」
「なんとも手応えのない男じゃのう。どちらでもいい。虫拳でもして決めろ」
酒呑童子がそういえば、金時と綱は大真面目に虫拳をはじめる。
何回かあいこを繰り返し、金時がカエル、綱がナメクジを出す。
「おおしっ! おいの番でごわす!」
「くうっ、一生の不覚!」
狩衣の上着を脱ぎ捨てた金時が、腰に巻いた荒縄を締め直す。
蹲踞の姿勢で腰を落とし、酒吞童子に向かい合う。
「発剄、よいでごわす」
「フワッ! 貴様らは相変わらず面白い!」
酒呑童子は、坂田金時の前に立つ。
酒呑童子の身体は金時に比べればずっと細身だ。
しかし、どういうわけか今度は酒呑童子が杉の大木、金時がわらしべに見えてくる。
「残ったッッ!!」
だが、そのわらしべが弾けるように加速した。
額から酒吞童子の胸に突っ込み、爆音とともに、その身体を二三歩後ろも後退りさせる。
「フハッ! 面白い!!」
酒呑童子は金時のぶちかましを受け止めると――
――これが、本当の話だ。
現在の伝承では、酒呑童子は源頼光の奸計にかかり、酒に酔って油断したところを討伐されたとされる。
しかし、それは真実ではない。
いや、真実の一端ではある。
だが、それだけではない。
そんな情けないやられざまは、酒吞童子を封じたい者たちが言霊として残したものだ。
昼の者たちが描いた言霊により、その輝かしい日々は単純な勧善懲悪に塗り替えられた。
それについてはおいおい語る機会もあろう。
だが、いま重要なのはそんなことではないだろう。
いま重要なのは、酒呑童子とクロガネの戦いだ。
千年の時を超え、坂田金時が発明した相撲のぶちかましを、酒吞童子がクロガネに向かって放ったこの瞬間であろう。
轟音が鳴り響く。
おさかなプロレス道場が震える――否、揺れる。
酒吞童子という一個の弾丸が、砲弾が、肉塊が、クロガネという城塞に衝突する轟音。
城塞は避けなかった。
城塞なのだから当然だ。
城塞は動き回るものではない。
城塞は揺るがなかった。
城塞なのだから当然だ。
城塞は砲弾の一発で揺るぐものではない。
「ハッ! 前頭ぐらいにはなれんじゃねえか?」
口の端から血を垂らしながら、クロガネが笑う。
酒呑童子のぶちかましを、分厚い胸で受けていた。
その胸には、酒呑童子の二本の角が突き立っている。
角を伝って、根本から鮮血が酒呑童子の顔を流れる。
「フハッ! いいぞ、人間! それでこそだ!!」
酒吞童子もまた笑う。
人間の技まで使ってみせた。
しかし、この人間はそれを正面から受け止めてみせた。
人間とは何なのか。
酒呑童子は、それを知りたいと願った。
作品がお気に召しましたら、画面下部の評価(☆☆☆☆☆)やブックマーク、感想などで応援いただけると幸いです。