第132話 マスクド・ササカマ
■仙台市宮城浜区浦波町 おさかなプロレス道場(株式会社浦波水産)
本名、笹木大智。
リングネーム、マスクド・ササカマは仙台の生まれだ。
小学生の頃、父親の影響でプロレスに魅せられた。
華麗にリングを舞うスカイランナー、トリッキーで予想の付かないイリュージョニスト島崎、そして圧倒的なパワーで愚直に戦うクロガネ・ザ・フォートレス。
超日三羽ガラスと呼ばれる彼らの活躍に、タイチ少年は拳を握りしめてテレビにかじりついた。
中学生の頃、独立したスカイランナーとクロガネが仙台に道場を新設すると聞いたときは胸が躍った。
高校生になったら入門しよう。いや、練習生なら中学生でも入れるんじゃないか。そんなことを妄想しながら、その日を楽しみにしていた。
しかし、両親の仕事の都合で引っ越しを余儀なくされ、夢は叶わなかった。
スカイランナーの訃報に涙しながら、少年は新天地で学業に励みつつ、アマレスリング部に入って心身を鍛えた。
大学は地元仙台を選んだ。
希望する水産関連の勉強をするためと、生まれ育った仙台に愛着があったからだ。それに仙台で暮らしていれば、あのクロガネと街なかでばったり出会ってしまったりするかもしれないという子供じみた期待もあった。
大学では学業の傍ら、プロレス同好会を作って活動した。
高校でのアマレスリングの経験を通じて、自分の才能はそこそこだと自覚していた。超日三羽ガラスのような輝きは放てない。けれども、プロレスには携わりたい。そんな諦観が、WKプロレスリングへの入門ではなく同好会という道を選ばせた。
大学ではダンジョン配信が流行していて、ササカマも何度かダンジョンに潜ったことはある。だが、そちらにはどうも心が惹かれなかった。ダンジョンはすべてが作り物めいて感じられて、自分を熱くさせるものがなかったのだ。結局<ジョブ>も獲得しないまま関心をなくした。
しかし、これがササカマの意外な才能を開花させた。
企画や組織運営に向いていたのだろう。ササカマが主催する学生プロレス団体「おさかなプロレス」は、いかにも素人臭いコミックプロレスからスタートしたのだが、地元では順調に人気を獲得していった。専業で食べていけるほどではないが、スポンサーもつき、赤字にはならない程度の収益を上げられた。
クロガネと出会ったのは、在学中のことだ。
商店街の企画で、WKプロレスリングとの試合が組まれたのだ。以前に出した「おさかなプロレスVS悪の魔界商店街軍団」という企画書が商店会長の目に止まり、どうせ対決するなら地元のプロレス団体の両方に声をかけようとなったらしい。
伝説的名レスラーであり、あこがれの存在でもあるクロガネをヒールとする企画に、ササカマは内心震え上がった。超日時代のクロガネは武闘派で有名で、意に沿わぬ脚本を押し付けられたときには怒り狂って対戦相手を八つ裂きにする――なんて噂がファンの間でまことしやかに語られていたのである。
「おっ、面白ぇアングルじゃねえか。うちに足りなかったのはこういう思いきりだったのかもなあ」
しかし、実際に出会うクロガネは噂とはまるで違っていた。
筋肉をこねて固めたような傷だらけの巨体は迫力満点だが、表情は柔らかく、企画書に目を通しながらぼりぼりと頭をかいている。
「悪役用の設定が必要だよね。試合時間も短いし、わかりやすいのがいいよねえ……。うん、そうだ。デビル・コースケ。魔界商店街の切り込み隊長なんてのはどう?」
巨体の隣には、なぜか中学生くらいの女の子がいた。
慣れた手付きで差し出す名刺には、『風祭青空』とあった。彼女があのスカイランナーの忘れ形見であることを知るのは、もう少し後のことだった。
それ以来、クロガネとは何度も試合をした。
練習を見てもらうこともあり、「おお、なかなか筋がいいぞ」などと褒められたときには嬉しさのあまり夜も眠れなかった。隙あらば超日時代の思い出話をねだり、まるで小学生の頃に戻ったような気分だった。
大学を卒業しても関係は続く。
地元の水産加工会社に就職したササカマだが、すでにおさかなプロレスの看板選手となっており、引退するわけにもいかなくなったのだ。それに、引退したらせっかく出来たクロガネとの縁も失ってしまう。
勤め先の社長はササカマの活動に理解があり、遊んでいる倉庫をひとつ使って小さな道場まで用意してくれた。
マスクド・ササカマのイラストを使った魚肉ソーセージはちょっとしたヒット商品だ。ササカマが商店街を歩いていると、子どもたちからサインをねだられることもある。
そんな愛する街が――怪物たちに蹂躙されている。
逃げ場を失った住人たちが、道場に避難してくる。
泣き叫ぶ子どもたち、疲れた顔の大人たち、放心する老人たち。
ササカマの胸の奥に、ぽっと炎が灯った。
絶対に許せない。絶対に守らなければならない。誰にも、傷ひとつ付けさせない。
ササカマは道場の入り口に立ちはだかり、迫りくる怪物どもを殴った。蹴った。投げ飛ばした。
全身から血を流しながら、異形の津波をたったひとりで受け止める。
「部長! 水臭いっすよ!」
「及ばずながら、乱入します!」
無我夢中で戦っていると、気がつけばおさかなプロレスの仲間たちが次々と駆けつけていた。
地に伏せる怪物の数が、ひとつ、またひとつと積み上がっていく。
生まれて初めての真剣。
しかし、ササカマはいまの自分が一番強いと確信した。
怪物を倒すたび、避難した住民たちから歓声が沸き起こる。
絶望に染まった顔に、希望と笑顔が戻っていく。
熱い。
熱い。
熱い。
声援が炎となって、背中を焦がしているかのようだ。
怪物の圧力が弱くなっていく。
すべて倒しきったのだろうか。
違う。
あたりを見渡すと、怪物たちが左右に別れ、道を開けていた。
本能のままに暴れるだけだった獣が捕食者を恐れるが如く、縮こまり、震えて、何かのために道を開けている。
「人間にもまだ面白い者がいるではないか」
「シュテン様が直々に手をかけるような相手では」
「儂が戦う相手は、儂が選ぶ。イバラ、お主でもこれだけは口出しさせんぞ」
「申し訳ございません、出過ぎた口を……」
現れたのは二人の人型。
ひとりは長身の男。
長い黒髪を後ろで束ねた色白の男。平安貴族を思わせる狩衣を身にまとっている。体格は中量級のMMA選手のようだ。細く引き締まった筋肉がはだけた襟から見えている。
ひとりは長身の女。
こちらも長い黒髪。朱色の艶やかな着物をまとい、男に寄り添い歩いている。ゆったりした衣装の下からでもわかる豊満な乳房。大胆に切れ込みが入った裾から、肉感的な長い脚がちらちら覗く。
ササカマは息を呑む。
大家による日本画から抜け出たように美しかったからだ。
ササカマは唾を呑む。
クロガネのとはまた異なる悍ましい圧力を感じたからだ。
だが、異形。
男の額には二本の長い角が生え、女には額飾りのようにぐるりと小さな角が生えている。
すなわち、鬼。
台風が近づいてきているような、空気の重さ。
全身が均等に、そっと押されるような不快感。
ササカマは、退がりそうになる足を踏ん張る。
避難者たちが、俺の背中を支えてくれている。
ここで退いたら、プロレスラーじゃない。
「いい面付きだ、人間」
目の前に、端正な顔。
いつの間に間合いを詰められた。
まつげが長い。夜空よりも黒い瞳。
だが、その双眸には何も映っていない。
虚無。吸い込まれるような虚無。
そこには虚無しか見出だせなかった。
「相手を許す。好きに攻めてみよ」
「おさかなプロレス、舐めんなよッッ!!」
反応したのは左右の仲間たち。
サトルが、エイジが、ミノルがタカヒサがユキノリが一斉に飛びかかる。
「今はこの者と闘っている」
仲間たちが吹き飛ばされる。
悲鳴の欠片すらもない。
5人の男たちが、道場の壁をぶち破って床に転がった。
兼業とはいえ、鍛え上げた男たちが一瞬で。
勝てない。
最初に浮かんだ、そのイメージを振り払う。
ここで退いたら、プロレスラーじゃない。
自分に、言い聞かせる。
ぎりりと、右手を引き絞る、
全身の筋肉を、限界まで巻き上げる。
それはまるで、大弩のように。
「ほう、その技は」
溜め込んだ力を開放する。
左腕を大げさに引く。
クロガネの教え通りに!
轟音。
花火が炸裂したような、轟音。
びりびりと大気が震える。
取り囲む怪物どもがびくりと身体を震わせる。
――バリスタナックル
クロガネの代名詞である技が。
ササカマの魂を込めた右拳が。
端正な顔面に突き立っていた。
会心の手応え。
だが。
「ふむ、悪くはないぞ」
鬼は身じろぎもしない。
片方の鼻腔から垂れた血を舌先で舐める。
「千年ぶりに血を流した。褒めてつかわす。だが、まだまだあるのだろう? プロレスというものは?」
「ふぐっ!?」
衝撃。
ササカマの身体が宙を走る。
道場の壁を突き抜け、リングまで吹き飛ばされ、バウンドし、ロープに当たって戻される。放り投げられたボールのように。
「人間。儂に名を教えよ」
「マスクド……ササカマ!」
音もなくリングに立っていた男に、ササカマは答える。
血を吐きながら、それでも満身の力を足に込めて立ち上がる。
ガクガクと震えながら、それでも立ち上がる。
避難者たちは、その姿を見ていた。
あまりの出来事に、硬直している。
奇妙な静寂が小さな道場に満ちる。
それを破ったのは、小さな子供の声。
「ササカマ、がんばえー!」
それに続いて、さらに子供の声。
「ササカマ、がんばってー!!」
いくつかの声の、和音。
それから、大人の声が入り交じる。
「ササカマ! がんばれ!」
「サーサカマ! サーサカマ! サーサカマ! サーサカマ!」
大歓声。
たかだか数十人の応援が、何千、何万もの大観衆にも感じられる。
ササカマは、右手を突き上げる。
勝ち名乗りをあげるその瞬間のように。
「ってわけで、負けられなくなったみてえだ」
「わからんな。わからんが、面白いぞ、人間!」
鬼の姿が消える。
ササカマが弾き飛ばされ、二度、三度とロープに跳ね返り、リングを往復する。
「ロープに振ったら、こうだったか?」
鬼の抜き手が真っ直ぐ伸びる。
鋭い爪がササカマの喉元を目指して伸びる。
人々から悲鳴が上がる。
一瞬ののちに訪れる惨劇を幻視して。
だが、その瞬間は訪れなかった。
「ササ、よくがんばったな。やっぱりお前は筋がいいぜ」
耳慣れた、野太い声。
筋肉をこねて固めたような、太く、広く、大きな身体。
「それからテメェ」
ササカマを受け止めた声の持ち主が、ぐるりと首を回して後ろを見る。
その先には、鬼。
視線に、身体に満ちるのは、灼熱の怒気。
リングが陽炎に包まれ、ゆらゆらと空間が歪む。
背中に爪を突き立てられ、血を流す野獣が、低く唸った。
「ぶち殺す」
轟音とともに風を切り裂くクロガネの裏拳が、酒呑童子の顔面に叩き込まれた。
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