第100話 鹿折ダンジョン 第9層 ビンタ
「うおっっっしゃぁぁぁあああ!!」
咆哮とともに、クロガネが観客席を練り歩く。
両手を上げて唸り声を上げ、観客たちを追い散らす。
「ボーイ……? 何をしているのかね?」
『ボーイだと!? ハッ、10万飛んで37歳の吾輩に、小僧っ子が何を言いやがる!』
クロガネは血混じりの唾を吐き捨てると、パイプ椅子を掴んで片っ端からリングに投げ込んでいく。
そんなものが当たるわけもなく、猪之崎はただ唖然とするのみだった。
「ちょ、コースケさん、何を……?」
突然の凶行に、アカリが思わず素に戻る。
しかし、クロガネはそれに不敵な笑みと共にマイクをアカリへと返す。
何か狙いがあるのだ。
それを察したアカリは、背筋を伸ばして気持ちを切り替える。
マイクを握りしめ、叫ぶ。
『おーっと、デビル・コースケ選手、突然の乱入! そして乱心です! 観客を脅し、奪ったパイプ椅子をリングに投げ込んでいきます!』
20脚、いや30脚は投げ込んだだろうか。
リング上はパイプ椅子が散乱し、足の踏み場もないほどだ。
「へっ、こんなとこか!」
クロガネがリング内に飛び込むと、蹴散らされたパイプ椅子が耳障りに泣き叫ぶ。
「ボーイ……いや、デビル・コースケ君と行ったかな? 神聖なリングに何をしてくれたのだね?」
それが設定であることを理解し、猪之崎は即座に話を合わせる。
デビル・コースケはクロガネがWKプロレスリングを経営していく中で生まれたプロレスラーだ。この猪之崎はその存在を知らないのだ。
だが、どうやら悪役であることは間違いない。
ならばと猪之崎は正義役の立場で対応する。
「クハハハハ! リングが神聖などとは笑わせる。魔界のリングは血と炎に彩られた灼熱地獄よ! 本物のデスマッチってもんを見せてやるぜ!」
クロガネの足元からパイプ椅子が飛ぶ。
足で引っ掛けてぶん投げたのだ。
猪之崎は顔面めがけて飛んできたそれを両手でブロックする。
「だあっしゃぁッッ!!」
その直後、クロガネのドロップキックが猪之崎を襲う。
ガードの上から押し込むような重い一撃。
さすがの猪之崎もこらえきれずたたらを踏むが、パイプ椅子を踏んでしまってバランスを崩す。
そこへすかさず、クロガネのショルダータックルが炸裂。
技も理合いもない力任せの体当たり。
猪之崎の身体がロープ際まで押し込まれる。
クロガネがさらに乱打。
大振りのフックの連発。
巨拳の暴風雨が猪之崎の身体に土砂降りを浴びせる。
『すごい、すごい、すごい! 乱入したデビル・コースケ選手! 猪之崎選手を圧倒ッッ! 奇襲からの容赦ない追撃で攻め立てる! プロレスの現人神たる猪之崎に、こんな暴虐が許されていいのかッッ!?』
ルール無用のラフファイト。
本来ならばとっくに反則負けだが、いまのクロガネは悪役だ。
ルールになど縛られる存在ではない。
「ハハハッ! エクセレントだ! だが、イタズラがすぎるぞコノヤローッッ!」
猪之崎の怒号。
クロガネの身体が弾き飛ばされる。
口元から吹き出す鮮血。
クロガネの猛攻の隙間を縫って、反撃を決めたのだ。
「歯ァ食いしばれよッッ!!」
ビンタ。
ビンタ。
ビンタ。
平手打ちの無限連鎖。
空襲の如き爆音が鳴り響く。
クロガネの頭がピンボールのように左右に振られる。
平手打ちというと、女のようだと思うかもしれない。
しかし、猪之崎の平手打ちは違う。
細く長い指を鞭のようにしならせる、拳よりも数段速い打撃。
それが素早く脳を揺らし、脳震盪をたやすく引き起こす必殺技。
一度でも喰らった相手は、魔法にかけられたが如くその連打を浴び続ける。
クロガネの顔が真っ赤に腫れ上がる。
目尻から、耳孔から、鼻孔から、口元から鮮血が散る。
その巨体がぐらりと傾き、片膝を着く。
猪之崎は悠々とそれを見下ろし、右手を突き上げて天を指さす。
客席から大歓声が巻き起こる。
『こ、これは猪之崎選手、早くも勝利宣言かーッッ!?』
「勝ったつもりでいるんじゃねえぞ、クソジジイ!」
クロガネの右手から、何かが放たれる。
それが猪之崎の顔面に命中し、暗褐色の霧が拡がる。
「ぐあっ!? なんだこれは……げほっ! がほっ! へーくしょんっ!?」
「クハハハハ! 魔界七十七つ道具のひとつ、コショー爆弾よ!」
もちろん、そんなものはない。
4層で拾ったテーブルコショーをポケットに入れていたことを思い出し、それをぶちまけただけだ。
「げほっ! くしょんっ! こんなものまで仕込んで……げほっ、くしょんっ!」
「おらっ! ビンタのお返しだ!!」
猪之崎の首を掴み、顔面に頭突き。
続けて腹に膝蹴り。
くの字になった背中に前腕を何度も振り下ろす。
首を脇で抱え込み、全体重をかけて後ろに倒れ込む。
DDT――プロレスの代名詞のひとつである大技が炸裂。
しかもリングは常の状態ではない。
散乱するパイプ椅子に脳天から落とされ、鮮血が舞う。
頭を押さえて苦しむ猪之崎を尻目に、今度はクロガネが両手を上げてリングを練り歩く。
観客席はブーイングの大合唱。
紙コップや丸めた新聞紙、クッションなどがリングに投げ込まれる。
クロガネはそれに対し、両手の中指を立て、舌を出して挑発する。
『ひ、卑怯……! あまりに卑怯な戦いぶりに客席から大ブーイングです! みなさん、物を投げるのはやめてください!!』
ここまでやるとは想像もしておらず、アカリも思わずドン引きしていた。
これが悪役に徹したときのクロガネ……この数週間でクロガネたちのことは理解できてきたつもりだったが、自分の見てきたものは彼らのほんの一部分でしかなかったのか。
そのクロガネの背後で、猪之崎が幽鬼の如く立ち上がる。
「この、ファッキンボーイがぁぁぁあああッッ!!」
怒りの咆哮。
高々と飛び上がり、クロガネの首筋に回し蹴りを叩き込む。
延髄蹴り――これもまた、アトラス猪之崎の得意技の一つ。
客席の挑発に夢中になっていたクロガネにこれが直撃。
立ったままふらふらとぐらついている。
そこにすかさず猪之崎の身体が絡みつく。
首、肩、肘、背中、上半身の関節のほとんどを極め、のしかかる体重で一切の身動きを封じる立ち関節の究極。
卍固め――アトラス猪之崎の必殺技が完全に入った。
「ぐああああ……っ!」
クロガネの口から苦悶が洩れる。
関節がギシギシと悲鳴を上げる。
「おイタが過ぎたなッッ! ファッキンボーイッッ!」
猪之崎が渾身の力を込めてクロガネの身体を締め上げる。
その顔には怒りとともに、勝利を確信した笑みが浮かんでいた。
そして、それを受けるクロガネの顔には――
「へっ、読み通りだぜ……!」
苦痛に歪みながらも、不敵な笑みが浮かんでいた。
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