004
女はダイニングテーブルにリュックを下ろした。
「とりあえずお茶、入れるから。そこ、座って待ってて頂戴」
後に続いたおれをそのままにしてキッチンに向かい、勝手知ったふうにペットボトルに汲んだ水をヤカンに入れ、カセットコンロに火を点けた。
男っぽい格好のくせに、急須や湯飲みを用意する動きが意外に家事慣れしている。
「おい、あんたなぁ……」
「私の名前は、葉月。あんたって呼ばないで。キミの名前は?」
振り返りもせず女、葉月が言う。どこまでもマイペースだ。
「直哉。窪田直哉だよ」
「直哉、ね。志賀直哉の、直哉?」
「ああ……そうだけど」
「分かった。覚えた」
このごろはスポーツ選手やドラマの主人公の名前を引き合いに出す奴も多いが、おれは彼女がテレビにあまり興味がないんだろうと想像した。
キッチンから戻って来た葉月に、先日叔父さんが死んだことと、おれがここに住むことを改めて告げた。彼女は叔父さんが死んだと聞いて顔を曇らせたが、おれに頭を下げ、改めてここに住まわせてくれと頼んできた。
「お願い。ここに置いてくれるならバイト代から食費も入れるし」
「無理ゆうな。見ず知らずの人間と一緒に暮らせっかよ!」
「それなら猫でも拾ったと思って」
「猫って……おい!」
「何? 猫は嫌い?」
「嫌いじゃないが……勝手気ままだし、それにほら、散らかすだろ!」
「さっき散らかしたのは、直哉のほう。あ、パンツ取ってない?」
「誰が取るか! おれは中学生じゃねー!」
「好みじゃなかった? イチゴとか、縞パンのほうが良かった?」
「そう言うことをゆってるんじゃねーんだよ!」
お願い、無理。パンツ、取ってねーから! というやりとりを何度か繰り返すうち、おれが先にキレた。
「ふざけんな! 警察に突き出すぞ! あんたいい年して自分探しか家出か知らねーが、いい加減、家に帰れよ」
「家には……帰れない」
「は?」
「と言うか、もう無い。親が事業に失敗して家を手放したから」
「は? 何だそれ?」
そのときヤカンが鳴って、湯が沸いたことを知らせた。
4人掛けのテーブルにおれと葉月は向かい合って座った。緑茶と煎餅が目の前に並ぶ。
濃いめのお茶は適度な熱さで、甘い煎餅にまぶしたザラメが口の中でじわっと溶ける。何のひねりもない普通の取り合わせなのに、おれの中のいらいらした気持ちがすーっと和らいでいくのを感じる。
そんなおれの様子を、葉月がじっと見ている。
「な、何だよ。冷めるぞ。飲まねーのかよ」
「もう少ししたら。私、猫舌だし」
「そこも猫なのかよ!」
「そう言われても、生まれつきだし」
苦笑しながら、葉月がこれまでのいきさつを話し出す。
葉月の家は関東圈を中心に商売をやっていたのだという。彼女も事務やら配達やら手伝わされ、何とか家族ぐるみで仕事を回していたが、結局は2年前に倒産したらしい。
事業に失敗し離婚した両親と別れ、彼女は一人で暮らしていく決心を固めここに来たのだという。
「マウンテンバイクとカバン2つ、中身は着替えだけ。あとは売って旅費にしたし。それでこの団地の知り合いを頼って来たんだけど、彼女はとっくに引っ越して、家は空き家になってて」
「おい、連絡してなかったのかよ。携帯は?」
「携帯は親に貰ったガラケーで、お金払えないから止められてた。どのみち倒産したなんて正直恥ずかしくて言えないし、まあ会ってから言う筈だったんだけど」
行き当たりばったりで何も考えてないのか。いい大人のくせに無鉄砲がすぎる。
「私、頭も猫だから」
「何だよ、それ?」
「3歩歩くと忘れるのが鶏頭。目の前のことに夢中で、他の事がすっぽり抜け落ちるのが猫頭」
「そんなの知らねーって!」
はいはい猫猫そしてまた猫。
「空き家の前で座り込んでた私に、声を掛けてくれたのが、この家のおじさん。ひと月ばかり家に泊めてくれて。その後安いアパート探してくれて。仕事の保証人にもなってくれたし」
叔父さん……いい人過ぎるだろマジで。
「だったら、そのアパートはどーしたんだよ」
「秋に派遣の仕事から戻って来たら更地になってた。大家さんがアパート壊して売ったみたい」
「は? 何だよそれ!」
葉月は派遣社員で工場に勤め出したが、去年の夏、半年ばかり隣県の工場に出向させられたのだという。その間に部屋には大家から退去するよう連絡があったらしいんだが、元々荷物もなく、連絡も取れなかったため、勝手に出て行ったと思われたらしい。
「他に行く当ても無いし、その足でここに来たんだけど、おじさん留守だった。その時にはもう入院してたんだと思う、多分。最初会った時から、体調悪いようだったし……そのうち日も暮れてきて、野宿よりましと思って物置に入ったら、階段下に続いてて中に入れたから、それで……」
「……それで今に至る。か」
お茶と煎餅で小腹が癒えたころ、葉月の話も終わった。