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こっちはゆっくり書いていきます。
「父さん4月から上海工場に出向になったから。母さんもついていくわ」
春休みの日曜日、遅い朝食を手早くパンで済ませ、2杯目のコーヒーを啜っているおれに、両親が言った。5年は帰ってこないらしい。
「すまんな。そういうわけだから」
「直哉ももう大人なんだから、大丈夫よね?」
ニコニコ顔の両親に一人息子を日本に置いて行く不義理を詫びる苦悩なんてものは無い。伊達メガネを外して試験のマークシートの見落としを探すようにしてもどこにも見当たらない。今の二人の頭の中は手に手を取り合って海外で新婚生活をやり直す夢で一杯のようだった。
地元工業系大学のデザイン科にとりあえず合格し、受験戦争からの解放を味わっていたおれにいきなりの信じられない無茶振りである。
怒りを通り越してキレた。受験中は封印していたから約2ヶ月半ぶりにキレた。当然だ。
「あのなー、おれが何のためにここから通える大学を選んだと思ってんだよ! それに今からじゃ寮もアパートもどこも空いてる訳ねーだろうが! バカじゃねーの!」
そんなおれを前にして両親は、お前言わなかったのか、いえ父さんこそ、といつもの夫婦漫才を繰り広げ、結局は受験の邪魔をしたくなかったからとかテンプレの言い訳に終始した。
確かに一人暮らしには憧れもある。だが何より問題なのは、会社の持ち物であるこの家を3月いっぱいで出なければならないという現実だ。
「テントでも買って、春から野宿でもしろってゆうのかよ!」
「まさか。家ならもう手配してあるから安心しろ」
「直哉は会ったこと無かった? お祖父さんの末の弟の、金弥叔父さん」
「ほら、子供の頃行くとよくお前の絵をほめてくれただろ」
おれにとっては大叔父か。それなら何度も会っているはずだが、よく思い出せない。
その大叔父がこの正月に亡くなったというのだが、そのこともおれには知らされていなかった。またまたおれが受験生だという理由で。
「それでね、その空いた家に住まないかってお祖父さんに言われたのよ。直哉、どう?」
「どうって何だよ? あ、用意したってーはその家のことか!」
「まさに渡りに舟って感じだったから。ね、いいんじゃない?」
「無理あるだろ! 一人暮らしの爺さんの家なんて、どーせ古臭い和風住宅だろ?」
「いや、小さいがアトリエとガレージの付いたモダンな家だったぞ」
「モダンって言い方がそもそも古い……はっ? アトリエって何?」
「金弥叔父さんは建築家だったのよ。会社を辞めて独立した後は、建てた自宅を事務所にしていたの。まあここ一年は入院してほとんど住んでなかったらしいけどね」
「お前覚えてないのか? 小さい時よく言ってたぞ。ぼくもおじちゃんみたいになる、とか。それでデザイン科に進学を決めたんじゃないのか?」
おれが進路を決めるきっかけになったほどの人だったのか? それなのにまるで覚えてない。
と言うかおれは子供のころの記憶がところどころ抜け落ちている。そのせいで遠回りな苦労をしたのだが、それはここでは関係ない。
今のおれに影響を与えた人物の暮らした家、何となく興味が出て来た。だがしかし……
「それだって……結局古い家なんだろ? 雨漏りとかするんじゃねーの」
「そのぐらいは自分で何とかしろ。何なら直哉の好きにリフォームしたらいい。祖父さんには許可をもらってある」
「おれが? 一人でかよ」
「友達に手伝ってもらえ。工業大学の学生ならそういうの興味ある子もいるだろ」
「おれがやりたいのは自動車のデザイン! 肉体労働じゃねーんだって」
「100万円」
「はっ?」
「最初は物入りだろうからな。そこに住むんなら仕送りの他にリフォーム代、100万円出してやる」
「断ったら?」
「無し。普通にアパートの家賃と仕送りだけだな」
「それのどこに選択の余地があんだよ! そもそもアパートが無いってゆってんだろ!」
その後も色々文句は言ったが、まあ100万円出すって言うんなら断る理由はない。ただし、直せるところは自分で直して住むというのが、親父が金を出す条件だ。
「分かったよ。そんで住所何処なんだよ、その家」
「そう遠くない。隣町の茅ノ原団地だ」
「おい、嘘だろ……『迷い家』とかマジで最悪!」