お飾りの妻ですが、夫が探す初恋の人とやらは多分私です。
結婚して初めての夜。
夫のハロルドは私と褥を共にすることを拒んで、こう言いました。
「エルナ、君を心から愛することはない。忘れられない人がいるんだ」
ああ、やはり──と私は思いました。私は世間で言うところの行き遅れである26歳。代々厳格な軍人公爵として知られるフォルクマン家の当主ともあろうお方がなぜこんな木っ端貴族の私を娶ったのか不思議に思っていましたが、ついに答えを突きつけられてしまったようでした。
「公爵家を維持するために──君には悪いと思っている。けれど親族一同から突き上げを喰らい、これしかことを収める方法がなかったのだ。とはいえ、心はどうにもならない」
なるほど。けれど、私だって問うてみないわけには行きません。
「その忘れられない女性って、どなた?」
あなたは言葉に詰まりながらもこう答えました。
「フェルザー修道院の修道女、イルミナだ。初恋にして命の恩人。私にとっては唯一無二の存在なんだ」
「!?」
私には、寝耳に水でした。
ねえ、待って。ハロルドって、まさかあの時のハロルド……!?
私は記憶の底を探ります。確か、修道院で看ていた患者のひとりだったはず……
「私はずっと彼女を探し続けている。生きている間に、絶対に見つけてやるんだ。もう修道院からは去ったと風の噂で聞いたが──いつか、必ず。イルミナを見つけ出した暁には、君とはこの婚姻を解消させて欲しい!」
「……は、はぁ」
聞き覚えのある洗礼名に突き動かされ、私の口からグッとある言葉が出かかります。けれど、今急にその言葉を口にしたところで、彼はきっと私を嘘つき呼ばわりして突き放すに違いありません。機嫌を損ねると後が面倒なので、今は辛抱強く黙っていることにしましょう。
だって、あなたの初恋の修道女とやら、多分──
私です。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そう、あれは十年前の夏の終わり──
十六歳の私はフェルザー修道院で暮らしておりました。
なぜかって?
家が取り決めた相手のキュベレー男爵に、婚約破棄されたからです。
理由は当時の私の「太っている怠惰な姿」。
かの男爵もまた、恋に盲目過ぎる男でした。
戦乱が終って女余りになったので、その中から麗しの令嬢を見つけて来たと言われてしまいました。あちらのお義母さまもでっぷりした私を心底嫌っていらっしゃいましたので、悲しいほどすんなり話がついてしまったのです。
私の家族も私を持て余しました。
噂が広がり嘲りを受け家の恥とされた私は、例の修道院に放り込まれることになったのです。
修道院長はそんな私を快く受け入れて下さったので、私は傷つけられることなく新しい環境に溶け込みました。どうやらこのフェルザー修道院は古くから〝訳あり令嬢〟を匿う場所であったらしく、脛に傷のある修道女同士、楽しく暮らすことが叶ったのです。
そんなある日、嵐によって船が難破したとかで、騎士の皆様が流れ着きました。
その中に、彼がいたのです。
今、私を〝お飾りの妻〟にしようと、必死に過去の恋語りをしている同い年の未来の夫──ハロルドが。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
結婚初夜の、次の朝がやってまいりました。
「水難事故から修道院の岸に流れ着いた私は、修道女たちに助けられた。その中にいたのがイルミナだったんだ」
ハロルドは朝食の席でも、まだ初恋の話をしています。ああ、使用人たちの顔が無になっています。ハロルドは十年前と変わらず、なかなかに恋愛にとち狂っています。彼は十年前の少年だったあの日から、本当に何も変わっていません。
「イルミナはかいがいしく世話をしてくれた。嵐の中で激しく打撲を負い、手足が不自由になった私を、嫌がることなく介護してくれた。正直、修道女とはいえ、他人に体を任せるのは苦痛だったが──彼女は本当にこちらに気を遣わせまいと頑張ってくれたんだ」
(……そう、でしたね)
私は心の中で返事をしましたが、黙っておりました。ああ使用人の皆さん。私が今唇を震わせているのは、怒ってるからじゃありません、内心くすぐったくてしょうがないだけなんです。大笑いするわけには行かないじゃないですか。
あの日、あなたを介護をしたことはよく覚えています。とても饒舌な騎士様だと思った記憶があるからです。
ハロルド、あの日のあなたは私を散々あの手この手で口説いて来ましたね。けれど私は神に仕える身でしたので、それに応えるわけには行きませんでした。
まあ……内心「看護師の優しさを愛情と勘違いしているのだろう」「男に免疫のない修道女なら、口説けば簡単に落ちるとでも思っているのだろう」などと思って、彼を侮っていたわけですが。
まさかあれから十年も、あの太りまわっていた私を好いてくれていたなんて、思いも寄りませんでした。
「そうですか……そんなに愛され続けているなんて、イルミナさんはきっと素敵な方だったんですね」
今の私には、こう言うのが精一杯。
あら?
ハロルドったら、きょとんとしてる。
「エルナ。君は……私を最低な男だとは思わないのか?」
私は苦笑いで頷いて見せます。ええ、思いますとも、多少はね。
けれど彼はあの太ったイルミナが、こんなにやせ細って目の前にいるなんて思いもよらないのでしょう。十年も私への愛情を温め続けていただなんて、気味悪く思う反面、ちょっと嬉しいのです。
それに……
(あんなに太っていた私を誉めそやしてくれたのは、あなただけだった)
あなたの執念を恐ろしく思うと同時に、私はそんなあなたの存在に、今、癒されています。
あの当時の私は修道女でしたので、愛情表現を受け入れたり体を触れ合うことこそしなかったものの──彼に好意を向けられているのは実のところ、凍った心を溶かされるようでした。
「最低だとは、思いません」
私は用心深く、言葉を紡ぎます。
「十年もひとりを思い続けるのは並大抵のことではありません。その思いが私に向かえば、そっちの方がいいのでしょうが──その思いを否定するだけの資格が、私にあるとは思えませんので」
ハロルドは呆然と私の顔を覗き込んでいます。
ごめんなさい、ハロルド。
あの日、あなたの思いをないがしろにした私を許して下さい。
あの頃と変わらぬ鳶色の瞳、栗色の髪、頑丈そうな肢体。介護していた時より、あなたは大人の体になっています。
あなたのことは、もう過去に介護した患者ではなく、夫として見なければなりませんね。
でも、どうやって私があのイルミナだったことを証明致しましょう。一度修道院へ赴き、院長にでも会えば、協力していただけるかも……
私がじっと考え込んでいると──
「君は……こんな最低な私を否定しないでくれるのか」
ハロルドがふとそんなことを呟きました。私に対する態度が軟化したようです。今だ!と思い、私は思い切って提案しました。
「あなたが言う、その〝フェルザー修道院〟へ、一度一緒に行ってみたいものだわ」
ハロルドは、また呆けています。
それから、彼は急に顔を青くしました。
「……エルナは豪胆だな」
「そうですか?せっかく夫婦になったのですから、その初恋の模様、もっと教えて頂きたいです」
彼は前のめりになっている私に、少し怯えています。
「まあいい……あんなことをいきなり打ち明けた私が悪いんだ」
あ。ハロルドの顔に「余計なことを言ってしまった」って書いてある。確かに私が〝イルミナ〟を探し出して攻撃しようとすれば、出来てしまうかもしれないんだ。なんてうかつなハロルド。
「ふふっ、大丈夫ですよ。イルミナさんを探し出して脅かそうなんて、全く考えていませんから」
ハロルドはそれを聞くと、顔面蒼白になって頭を抱えました。
……ちょっと面白い。
あれから一ヶ月後。
私はハロルドと共に、新婚旅行という名目でフェルザー修道院へ向かっていました。宿で乗り継いだ慣れない馬車の中で、私はじっと考えます。
彼は、私が一番自分を嫌っていた時期に、私を好きでいてくれた。
その事実は私の冴えない人生の中で、かけがえのない宝物となりました。
そんな私の気持ちに気づいていないハロルドは、どこかハラハラと私の一挙手一投足を見つめています。いけない。私ったら、どうも怖い顔をしていたみたい。
「そんなに怯えないでハロルド」
そう私は声をかけました。ハロルドは悩まし気にかぶりを振ります。
「いや、おかしいだろ。新婚旅行先が夫の過去の恋の舞台だなんて」
「何をおっしゃってるの?あなたが初夜から余計なことを言ったからこうなっているのでしょう?」
「そうは言うが……黙っていたら、むしろ裏切りだと……」
「はい……?喋ったところで裏切りですが?」
「!」
うふふ、青くなってる。からかいがいのある人ですね。
「ハロルドって表情がころころ変わるのね。見ていて飽きないわ」
「……エルナ、君は意地が悪いな」
意地が悪い。そうですね、きっと、過去の自分──イルミナより、悪くなっている。
「なぜ、意地が悪くなってしまったのでしょうね」
しんみりと呟いた私を、ハロルドは所在なげに見つめます。
「私のせいか?」
私は彼の問いに、なぜか泣けてきました。
「昔の私──いえ、イルミナさんはそんなことしないはずですよね」
「……」
「ごめんなさい、私嫉妬しているんです、イルミナさんに」
「……エルナ」
「どんなに痩せて着飾っても、私はイルミナさんに勝てない気がするの」
馬車の中に奇妙な空気が流れた時、彼は言いました。
「……悪かった」
謝らないでください。私もあなたに秘密にしていることがあるんですから。
ああ、過去の私がまさか未来の私のライバルになるなんて……
でもきっと、修道院に行けば全て解決します。
私がイルミナだったと知れば一転、ハロルドは私を愛してくれるに違いないのですから。
ところが。
フェルザー修道院で私たちが見せられたものは、イルミナのお墓でした。
修道院長は悲しげに言います。
「あれからイルミナは病に倒れ、神の御許に……」
はい!?
「誠に残念ですが……」
ハロルドがくらっと立ちくらみ、私はかつての上司に掴みかかりました。
「しゅっ……修道院長!?」
「はい、何でしょうフォルクマン夫人」
「イルミナが死んだなんて、馬鹿なこと言わないで下さい!」
すると修道院長はハロルドを一瞥してから、私にこう囁きました。
「……前からハロルド氏に限らず、海難事故当時の騎士どもが特定の修道女に会わせろとうるさくて」
「!」
「うちは訳あり令嬢ばかりを住まわせる修道院です。色恋の面倒ごとを回避するため、うちの修道女の洗礼名は代々、これらの墓石から取らせて貰っています」
「!!」
「だからイルミナは死にました。そうでしょう?」
修道院長……微笑みが眩しくて逆に苛々させられます。
「……死んでないわ」
もうこうなったらヤケです。
「私……イルミナになる!太ればいいんでしょう!?」
そう叫んで振り返った私を見て、ハロルドは腰を抜かしました。
「君は何を言って……」
「ハロルド、この際だからはっきり言うわ。私がイルミナよ!あの日あなたを助けたのは、この私!」
ハロルドは怯えているみたい。もうっ、本当にこの人は鈍いのね。修道院長はすぐに私をあのイルミナだと気づいてくれたのに!
「何を言ってるんだ?エルナ、気を確かに!」
「私はずっと正気です」
「やばい。狂人の常套句だ……」
「あなたこそ、なぜ気づかないの?初恋の人が忘れられないとか言うくせに、完全に忘れちゃってるじゃないの!」
ああもう、苛々する!
ちょっと修道院長、吹き出してないで助けてください!
「修道院長!この愚かなハロルドに言ってやってください。私があのイルミナだと……!」
すると修道院長は居住まいを正して、急にこんなことを問うたのです。
「あなたは今の、ありのままの姿を愛されたくはないの?」
その時、私は気づきました。
ハロルドが愛しているのは、過去の私です。
今の私ではありません。
(そうだ。イルミナであった事実で釣らずに、私は彼と真正面から向き合うべきなんだわ)
私は不思議なことに、彼を少しずつ好きになっていました。
なのに、彼はずっと過去の私しか見えていません。
私は、過去の私に嫉妬しました。あの怠惰だったイルミナに。
あれから私は修道院で生涯を終えることに不安を覚えるようになり、親に頭を下げて修道院を出してくれるよう懇願しました。両親は私が痩せて見目麗しくなり、誰かに嫁ぐことを条件に、修道院から出ることを許可しました。私は過去の自分と決別するため、一般貴族の子女の立場に返るため、痩せようと頑張りました。修道院を出てからは色んな伝手を頼ってヘアメイクに評判のある侍女を引き抜き、絶えず自分を輝かせるため努力して参りました。そしてようやく、フォルクマン公爵のご親戚の目に留まり、こうして嫁ぐことが出来たのです。
私は変わりました。
もう、私はイルミナではない。
そうです。もう、イルミナは死んだのです。
「ハロルド」
私は彼に向き直りました。
ハロルドは固唾を呑んで私を見上げます。
「イルミナを忘れなくても結構です。ただ、私は今、あなたを愛したいと思っています」
私は彼に、正直な心を伝えました。
結局、彼を振り向かせるには真正面からぶつかるしかなかったのです。
私は、もう過去の私を利用しないことにしました。
しかし、ハロルドの方はと言えば──
「君は、なぜ急にこんな私を愛することにしたんだ……?」
そこを疑問に思うのですね?
私は正直に言いました。
「あの太り回った脛に傷のあるイルミナを、あなたはイルミナ自身よりも愛していたからです、十年も。そんな一途な人は、なかなかいないわ」
ハロルドは神妙にして聞いています。
「脛に傷?」
「イルミナは婚約破棄され、社交界から爪弾きにされ、親からも持て余されてこの修道院に入れられました。言わば〝傷もの〟だったんです」
ハロルドはムッとして言い返して来ました。
「そんな言い方をするな!どこで仕入れた情報かは知らないが、変えられない過去をあげつらって彼女を侮辱することは許さない」
……ハロルド。
私は今、とても嬉しい。あなたは女性を容姿や過去ではなく、その時の行動で評価する人なのですね。
泣き笑いした私を見て、ハロルドはぎょっとしています。
「ハロルド……あなたは本当にいい人ね」
彼はきっと、私に嫌われてもいいからあのように言ったのでしょう。でも私は、イルミナを好きだと主張するあなたを、嫌いにはなれないのです。
「私をずっとお飾りにしておいてもいいのよ、ハロルド。イルミナしか愛せないなら、それでいい。だから、私をずっとあなたのそばに飾っておいてくれる?」
ハロルドはそれを聞くと、少し汗をかきながらゆっくり修道院長に向き直りました。
「ここまでイルミナに詳しいとは……修道院長。まさか、エルナは──」
私は幸福の予感にときめく胸を抑えました。
「イルミナの知り合いなのか?」
「──!?」
修道院長は我々を交互に見やり、腹を抱えて笑っています。
ふふっ。
私も何だか、楽しくなって来ました。彼の鈍感っぷりは見事なものです。
束の間の旅を終え、屋敷に帰ると我々に手紙が届いていました。
王宮のパーティへの招待状です。
結婚間もなく王族と顔を合わせられる絶好の機会です。参加しないわけには行きません。
「お飾りの妻としては、絶対に出なければならない会ね!」
「……エルナは前向きだな」
ハロルドが呆れています。と同時に、彼は深いため息を吐きました。
当然です。最愛の女性が死んだと聞かされて間もないのですから。
「ハロルド」
私は夫に語りかけました。
「やはり出席はやめますか?傷心のさなかですものね」
「いや……出るよ」
「そう?心配だわ」
ハロルドは、少し真面目な顔でこう私に告げました。
「エルナは本当に、自分のことを考えないんだな」
私は意味が分からず、首を捻りました。
「そう……ですかね?」
「一番傷ついているのは、君だろ」
「そうかもしれませんね。でも、それを認めたところでどうしようもないので考えないようにしています」
「……」
ハロルドはそっと私の肩を抱きました。
「君には、一生をかけて謝らなければ……」
「あの、そんなに重く考えないで。私を捨てないでくれればそれでいいから」
全く……彼は考えが極端な方向に行きやすいようです。
「とにかく、これが我々が夫婦として出る初めての社交界よ……緊張するわ」
しかし、いざ王宮のパーティに夫婦で参加してみると、私はそこで衝撃的な光景に出くわしました。
招待客の中に、私を婚約破棄したあのキュベレー男爵がいました。少し太った男。隣には、赤い髪の美しい女性を連れています。きっと彼女が例の麗しの令嬢に違いありません。
ハロルドの腕にしがみつきながら、私はどうにか別の方向へ歩こうと画策しました。
しかし。
「お久しぶりですね、エルナ様」
なぜかキュベレー男爵夫人が真っ先にこちらへ挨拶をしに来たのです。
私はピンと来ました。
キュベレー男爵夫人は、私の現状を偵察しに来たのだと。
その苦々しい表情から察するに、私が公爵の妻の座に納まったのを内心面白く思っていないようです。
「先頃、フォルクマン公爵と結婚されたばかりだとか……」
夫人は私を上から下まで眺めます。キュベレー男爵の方も、まるで自分が先約だったとでも言いたげな卑しい目つきで私を見ています。本当に下品で気に食わない男。
するとキュベレー男爵夫人が急にこんなことを言い出したのです。
「エルナ様。随分お痩せになったのね」
私はぎくりとします。その美しい風貌とは裏腹に、彼女は言葉の端々に何か毒を内包していました。その目線にはこちらの過去を暴いて恥をかかせよう、新婚の幸福から引きずり下ろしてやろうとでも言うような棘があります。
ハロルドが、何か言いたげに私を見下ろしています。
私は負けじと笑顔で答えました。
「ええ、まあ……あの頃は太っておりましたものね。けれどあれから一念発起して、瘦身に励みましたの」
「それまでは、訳ありの令嬢を幽閉することで有名なフェルザー修道院にこもってらしたんでしょう?太り過ぎで婚約破棄されて」
あっ。
どうやらキュベレー男爵夫人は、随分と私に詳しいみたいです。きっと男爵と共に、陰で私を笑いものにしていたのでしょう。そして、今はハロルドの前で私に恥をかかせようとしている。私は冷え冷えとしながらも、真っすぐ彼らに対峙しました。
私は公爵の妻ですもの、こんな下卑た嫌がらせなんかではうろたえません。
「ええ、かなり太っておりましたね。けれど、ハロルドはその当時太っていた私を、大変に愛してくれたんです」
ん?とハロルドは首を捻りました。が、
「本当かしら。公爵が、当時あのような訳ありを囲うフェルザー修道院なんかに行くはずがないでしょう?」
とキュベレー夫人が言い出したのを聞き咎め、彼が割って入りました。
「キュベレー夫人。私はかつて騎士として船で移動中、海難事故に遭ったんだ。その時にフェルザー修道院に助けてもらったことがあって……」
ふと奇妙な沈黙が流れた後、私はここぞとばかりに言い募りました。
「ハロルドは右腕と右足、それに鎖骨を骨折していたわ。彼は利き腕を損傷していたから、ほとんどのお世話は私がやったんです。食事も、体を清めるのも、全部。高熱が続いたハロルドを夜通し看病し、みんなで彼を励ましたりして……修道院の皆と協力し合いながら、私たちは彼だけでなく、多くの騎士を助けました。ですから彼女たちが幽閉されていたなんて言い方は、語弊があります。我々は神の御名のもと、彼らを救い、奉仕活動をしたまでのこと。私を悪く言うのは一向に構いませんけれど、仲間を悪く言うことだけは許せません!訂正を求めます!」
そこまで一気に言ってから、私は我に返りました。
みんなの視線がこちらに集中しています。しまった、と青くなり、ハロルドを振り仰ぐと──
「……エルナ!」
いきなり彼に抱きつかれ、私は目を白黒させました。
キュベレー夫人も、ぽかんとしています。
「当時の記憶が完璧だ!まさか、まさか君が……!」
「だから、私があのイルミナだって散々言ってるじゃないですか……」
ハロルドがキスの雨を私の頭に降らせます。やめてくださいみんなが見ています。
「なぜ早く言ってくれなかったんだ!」
「だから言いましたって。でも修道院長が〝イルミナは死んだ〟などとおかしな嘘をついたものだから妙な事態に……」
「私は君に、取り返しのつかないことを……!」
「だから、それは許したと前もお伝えしました」
「イルミナ、いやエルナ。結婚してくれ!」
「既にしております」
ハロルド以外全員が置いて行かれた気分になり、我々を遠巻きに見守っています。
私はちょっと躊躇しましたが……
衆目の中、彼に唇を奪われることを厭いませんでした。
〝お飾りの妻〟だったんですもの。
皆に、この幸福で飾った姿を見てもらわなければなりません。そうでしょう?
「昔の君ばかりを見ていた……許してくれ」
王宮から帰宅後。
ようやく叶った二人だけの褥の中で、ハロルドは謝ってくれました。
「別にいいですよ。今の私を愛して頂ければ」
「君はあんな扱いを受けても嫌なことひとつ言わなかった。エルナ、やっぱり君とは出会うべくして出会ったんだ」
「まぁ……良くも悪くも、あなたに付き合える女性は少ないと思います」
「早速どこか出かけよう」
「いいですね。どこへ行きますか?」
「王都にバターのフライなんてものがあるらしい」
「へ、へーえ」
「ロンダリアの村祭りなんかもいいぞ。牛の丸焼きを配る風習があるとか」
「……」
「ジャバリーの問屋ではマッシュルームを樽で売ってるそうだから、一度見に行くか?」
まったく、ハロルドったら。
「さてはハロルド……私を太らせようとしてます?」
彼は困ったように笑いました。
「……駄目?」
「駄目です」
私はむくれながら彼の顔を両の手で挟んで、こちらに差し向けます。
「〝イルミナを見つけ出した暁には、君とはこの婚姻を解消させて欲しい〟……でしたっけ?」
「!」
「解消しますか?」
「……君は意地悪だな」
「もっとそう思わせたいわね。私はこれから長い年月をかけて、あなたの中の偶像を完膚なきまでに叩き潰して見せる」
ハロルドの手が、私の頬に触れます。
「……ごめん。私の勘違いのせいで、君に随分ひねくれたことを言わせてしまって」
ハロルドはそう言うと、私をぎゅうっと抱きしめてくれました。なぜだろう。私の目から、涙がぼろぼろと溢れます。
彼は私を凝視してから、はっきりとこう告げました。
「昔も今も君は君だ、別に壊さなくていいよ。太っても痩せても可愛いし、昔の君も今の君もいい子だったから……思い出に縋り過ぎてエルナを不安にさせて、本当にごめん」
私は泣き笑いしました。
「……ありがとう、ハロルド」
嘲られ苦しんでいたあの日の私を、愛してくれてありがとう。
彼の言葉で、私の中の哀れなイルミナは霧散して行きました。彼は過去の私を「醜い」とか「不幸」などとは微塵も思っていなかった。その事実は今、過去を葬り去ろうとしていた私を温かく包んでくれます。
〝お飾りの妻〟の契約は、これにて満了です。
あなたの隣でなら、私は飾らずに生きて行けそうですから。