第二十六話
「だ、ダメです!」
カヌディがユーヤの背後から腰にしがみつき、声を枯らさんばかりに叫ぶ。
「いけませんユーヤさま! その御身はもはやお一人のものではないのです! セレノウのエイルマイル様がいかばかり悲しまれるか!」
だがユーヤは果たしてそのメイドに気づいているのか、シジラを真正面から見据えて言いつのる。
「さあ決断しろ! 君にとって姉を生き返らせる可能性は少しでも増やしたいはずだ! もはや双王の儀式は残り一問だぞ!」
「馬鹿な……」
ユーヤの言葉に、あっけにとられるのは麻袋をかぶった男たちも同様であったが、シジラはさらに混乱を示す。
「……それは、む、無茶というもの。確かに何枚か、我々が魔女の騙し絵と本物の両方を押さえている絵はある。しかしそれはパルパシアだけにあるわけでもないし、そのような勝負の場を、用意できるはずもない……」
それなのに。と、シジラは思う。
異世界人であるこの男は、そんな勝負を本気で提案しているのか。
そしてなぜ、彼にしがみつくメイドは本気で止めようとしているのか。喉の奥から叫び声を張り上げるのか。
「ダメです! そのような恐ろしいこと! おわかりなのですか、妖精の世界に連れ去られるということの意味を!」
「決断するんだシジラ! 勝負を受けるか!」
その場面。
おそらく、ユーヤはただ前後不覚なままにわめいていた、という表現のほうが適当であろう。
より深く、感覚の上ででも理解していたのはカヌディの方。そのような恐ろしい勝負を提案して、もし実現したらどうするのか、という形のない恐怖に怯えている。
シジラは、わけが分からぬままにごくりと喉を鳴らす。
「……勝負は受けてもいい。しかし、そんな勝負の場など用意できるはず、が」
影が。
ふいに、その場の全員に落ちる影が。
「!!」
シジラが素早くテラスの外を振り向く。そこに浮いていたのは十字架。
そう見えたのは陽光を背負っていたからだ。それは人の身の丈の倍ほどもある大きな影。両手を広げて、白いうすものを羽織るようなシルエットを見せる女性の姿。その背にそれぞれ色の違う、七枚の羽を背負って。
それは籠いっぱいの宝石で呼び出すという、世界で最も希少な妖精の一つ。
「――七彩謡精」
そして風景が消し飛ぶ。
回廊もテラスも、双子都市も遠景の山々も、瞬時に無限遠の彼方まで遠ざかるような感覚。
太陽の光も、闇すらも遠ざかり。
茫漠たる白の大地が。
「なっ……」
シジラは一瞬、大地が消えたような感覚にたたらを踏む。
この感覚は藍映精の映像にも似ている。しかし明らかに格が違うことが起きている。
それは白一色の世界。
大地と空に区別がなく、足元には影もない。光があらゆる場所に均等に存在し、そして大地の果てに地平線すら見えない。
「こ、ここは……」
「妖精が用意した場所……ということだろう」
ユーヤは眼球だけで左右を見て、歯噛みするような気配を見せる。
「ゆ、ユーヤ様……」
カヌディはユーヤから離れはしたものの、怯えを見せている。
シジラについていた黒スーツの男たちは消えていた。ユーヤは爪を噛んで思う。おそらく本来はユーヤとシジラだけがこの空間に引き込まれるはずが、彼にしがみついていたカヌディが巻き込まれた格好か。
「――何を」
シジラが虚空を見ている。
すでに七彩謡精の姿もない。何もない世界で、しかしシジラだけは何かを聴いているようだ、耳を澄ます気配がある。
「ゆ、ユーヤ様、何が起きて」
「……大丈夫、妖精に介入されただけだ。僕たちから離れないように」
介入、という言葉が、数秒をかけてカヌディに認知される。
カヌディも話には聞いている。かのクイズ大会において賭けの履行を拒んだ王子は、力ずくで妖精の世界に引きずり込まれた、と。
「し、しかし本当に、そんなことが……」
「――分かりました」
シジラが誰かに向けて応答する。
「ロブモデス・ジャコフ『アーギハイバムの鐘楼』」
ざざざ、と金属の擦れ合う音がする。
それは鎖の音だ。はるか上空、あるいは星ほどの高みから二本の鎖が降りてくる。それは先端に絵画が吊られていた。どこかの高原、夕映えの残照の中に佇む鐘楼の絵。一見すればまったく同じものが二つ。
「シェッツエルズ、作品目録ナンバー117『占星術師』、コウ=ミィエン『水底のタウラル』、クノルベ『カンツブの実を割る娘』、エンスウォラ『銀の首飾りの花嫁』」
ざざざ、と降り注ぐそれは鎖の雨。
三人から見れば二列縦隊で並んだ十枚の絵画、それが白無垢の空間に吊り下げられる。
「そ、そんな……!」
声を上げるのはカヌディである。
「な、なぜこの絵がここに! 『カンツブの実を割る娘』は銀弓都セレノウリフの王立美術館にあって門外不出のはずです! それだけではありません、『アーギハイバムの鐘楼』はシュネスの国宝、それに……」
「妖精の声が聞こえたのです。望むままをここに用意すると」
シジラの眼光には深い落ち着きがある。岩のような固い覚悟を決めた者か、あるいは多くの波と風を理解する船乗りのような眼であろうか。
「正確にはそれは言葉でもなかった。無数の言葉を一枚の絵として感じるように、さまざまなことが同時に分かった。ここは時間と空間から切り離された場所。セレノウのユーヤ、異世界人であるあなたとの勝負を行うために、妖精の用意した場所とのことです」
きき、と笑うような声がする。
カヌディがはっと背後を見れば、そこには何体かの妖精がいた。光や音を放つありふれた妖精、白い世界ののっぺりとした眺めに紛れて、遠巻きに人間たちを眺めるように見える。
「……ゆ、ユーヤ様、妖精たちが」
「カヌディ、本当にすまない」
唐突に自分に向けられた言葉に、この気弱そうなメイドは一瞬、虚を突かれた顔になる。
「ユーヤ様……?」
「妖精がこんな形で介入してくるとは思わなかった。いや、それは違うのかも知れない。僕は心のどこかでこれを予感していた。強く勝負を願えば、どんなことでも実現すると。ここは妖精の支配する世界であり、妖精は人間の限界を遥かに超えた事象を実現すると。それが心の片隅にあったから、あんな勝負を願い出たのかも知れない。本当にすまないと思っている。世界を見て回って、必ずセレノウに帰ると約束したのに。エイルマイルが僕を待っていてくれるのに」
だが、と、ユーヤは唇を噛むように言う。
「どうしても捨てられない。僕自身の中にある過去という泥を。僕の歪んだ価値観が積み上げてきた恥ずべき人生を捨てられない。こんなどうしようもない僕でも、受け入れてくれる人が過去にはいたんだ。その数少ない思い出を裏切りたくない。僕は僕自身であることから逃げられないんだ。人生の終わりまで狂熱のままに生きて、狂乱の中に倒れる定めかも知れない。セレノウを裏切る結果になってしまったら、どれほど侘びても足りない……」
「……いいえ、ユーヤ様」
カヌディはユーヤの背に額を当てる。
その一瞬、自分が自分以外の誰かになるような気がした。
それはうら若きセレノウの姫君のようでもあったし、尊敬すべき衛士長でもあるように思えた。俯瞰した視点でユーヤを眺められるような気がした。
「……それは仕方のないことかも知れません。ユーヤ様のその信念が、情熱こそが未来を変え、世界を一新させる力ともなるのです。我らセレノウは一度はユーヤ様に救われた身です。そのお心に何を強制できましょうか。こうなっては是非もなし、せめて妖精王の加護を……いえ、ユーヤ様ご自身が己の心と向き合い、最大の力を示されることを祈っております」
ユーヤは、何かを驚くような様子で背後を振り向く。そこにいたのは間違いなくメイドの少女。その姿に誰か違う人間の気配を見たのか。
「……見守っていてくれ。必ず、勝って帰ってくるよ」
ユーヤは数歩前に出て、そしてシジラに対峙する。
シジラは何かしら憑き物の落ちたようなすっきりした顔をして、腕を組んで異世界人と向き合っていた。
「ルールを確認しよう。課題はどちらが本物の名画であり、どちらが君の姉が作り上げた魔女の騙し絵かを当てること。五枚連続で当てれば僕の勝ちだ。だが、正誤の判定はどうやって行う」
「あなたがどちらかを選んだ直後、本物の名画のほうが赤く染まります。私にのみ、すでに片方の絵が赤く見えております。しかし、私の反応を見て本物を当てようなどと思わぬほうが賢明です。この場所でそのような小細工は墓穴を掘る結果となる」
「わかった。君が負けたら、君の知りうる限りの魔女の騙し絵の所在を。僕が負けたら、パルパシアの妖精の鏡を僕が使おう」
「……双王が使用を認めない場合は?」
「約束は必ず守る。それに、おそらくは……」
ユーヤはぐるりと首を巡らせる。
いつのまにか、綿毛の散るように妖精が集まりつつある。
妖精にも階級というものがあるのか分からないが、低級なものが多いように思える。性別のない小人の姿をした妖精たち。淡い光を放ちつつ、白一色の世界に七色の花を咲かせて集まってくる。
(……妖精たち、なぜこの勝負を提供した。シジラから魔女の騙し絵を吐き出させ、力を奪うためか)
そうではあるまい、とユーヤは思う。シジラが鏡を使うことを、妖精が咎める理由はないのだ。
もし、妖精たちの行動に目的があるとすれば。
ユーヤは妖精の一体をじっと睨む。笑うでも黙るでもない曖昧な表情。その中に潜むのは善意か悪意か。
純粋無垢にも見えるその姿は、人間をどのように支配したいと思っているのか。
(あるいは、僕を排除したいのか、妖精の王よ……)
今年最後の更新となります。
本年中はたくさんの評価と感想をいただきありがとうございました。
一月にはまた新連載も予定していますので、クイズ王と合わせて来年もよろしくお願いいたします。




