第二十五話
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背中を鷲掴みにされて、真上に引き上げられるような覚醒。
薄く目を開けば、真っ先に見えるのはエプロンドレスと薄紫色のリボン、カヌディの姿だ。
「収録は」
そう言いかけて口を押さえる。昔の癖が出てしまっている。
だが、双王の挑む儀式はラジオでも中継されているのだから間違いでもないのか、と自分へのごまかしのように思う。
「今は四問目です、舞踏が披露されております」
だだだ、と何十人もが床を踏み鳴らすような音が聞こえる。振動が互いに関連しあい、大きな波となって形を持つように思える。
「あの音がそうなの?」
「はい、パッフィングダンスです。ジルアーザ……「雷のように」と表現されますが、大きな音で石舞台を踏み鳴らす踊りなのです」
「なるほど。ラジオ中継だから、音で違いの分かるものが選ばれたのかな」
「おそらくは……」
そこでカヌディは慌ててユーヤを押さえる、彼が寝台を降りようとしたからだ。
「だ、だめです。ほとんど気絶するように倒れたと聞いています。お休みになられて下さい」
「大丈夫……」
とは、とても言えない体調だという自覚はある。頭痛と関節の痛み、内臓の違和感もある。
そしてそのような不調に奇妙な懐かしさも感じていた。何日も徹夜が続き、栄養状態も最悪、肩凝りは皮膚に針金を埋められるようで、それでいて気が張りつめて意識だけが数歩先を歩くような。あの感覚。
「僕にとっては、少しぐらい体調の悪いのが日常だからね」
「ユーヤ様……」
「本当に平気だよ……こちらの世界に呼ばれたときに、体が少し若返ってるようだし」
「……本当に、お気をつけて」
カヌディとともに部屋を出ると、途端に歓声が大きくなる。踊り手が集団でタップを踏み、それは送られる声援よりも烈しい。
声は斜め下方より聞こえる。ここは三階程度の高さがある場所らしい。あるいはドーム状の双子都市全体が、煮える鍋のように沸き立つかに思える。
パルパシア側のメイドがスカートの裾をつまんで会釈する、それにカヌディが話しかける。
「あ、あの、テラスで観覧しても宜しいでしょうか。ユーヤ様をご案内したくて」
「はい、構いません。ユーヤ様はどちらへ行かれても良いと仰せつかっております」
そのメイドは案内する素振りを見せたが、体の向きを変えただけでその場に留まる。
「申しわけありません。只今、我々使用人は無闇に動かぬようにと指示を受けております」
「わ、わかりました。ユーヤ様、こちらへ」
宮殿の中には使用人はまばらである。黒スーツのマフィアらしき姿もある。彼らは麻の袋をかぶって顔を隠している。
「人が少ないね」
「あ、あの方の……シジラの指示だそうです。使用人は最低限の配置にだけついて、あとは部屋で待機するようにと。衛兵も数人のみ残っているそうです」
現実的なことを言えば、シジラが莫大な金銭でマフィアを動かしたとしても、王宮配下の騎士団と武力でやりあうなど不可能なことは明白である。
儀式が終わるまで双方が動くことはないが、終わればシジラとマフィアたちは即座に撤収という段取りになっているそうだ。
絵本のような光景、そんな比喩が浮かぶ。
ユーヤの感覚から言えば現実感が乏しい、奇妙なほどのんびりとした眺めである。かつては王位継承権者だったとはいえ、魔女の騙し絵の黒幕だった人物の要求を受け入れ、あれほどの大がかりな儀式に臨むとは。
(……しかも、王宮に裏社会の人間を入れている)
ユーヤの感覚では、これだけで首を飛ばされるほどの大罪に思える。
確かに睨みあってはいるが、誰も本気で互いに斬り結ぶとか、捕り物の流れになるとは思っていない。もっと言うなら双王の行ってるクイズの方に気が向いている。
あるいは、それこそが世界の隔絶。
倫理観や社会規範、国家の成り立ち、法律の運用、そんなものが根本的に異なるのだろうか、そのように思う。
(それは、世界が平和な証だろうか)
(それとも)
その言語化を、わずかに躊躇する。
獣の背中を撫でるような、危うげな言葉。
(この世界の支配者が、人間の王ではないから、だろうか……)
そこから、歩くことしばし。
「ん……」
足を止める。
式典において王が手でも振るのか、長い廊下にいくつかのテラス席が設けられた場所である。
その一つに黒衣の女性がいた。前を行くカヌディは一瞥して通り過ぎようとしたが、ユーヤが呼び止める。
「カヌディ、ここでいい」
「で、ですが」
「心配いらない、彼女もこの場所で無茶はしないだろう、そこに控えててくれ」
「……か、かしこまりました」
シジラは黒スーツの男を何人か連れていたが、ユーヤが隣に並ぶと、男たちを壁際に下げる。
「体調はいかがですか、あの薬はよく眠れたでしょう」
「淫猥の極みのような夢が見れると思ったが、あいにく夢を見ないタチでね」
ふ、とシジラは薄く笑う。
「もはや儀式を止めることなどできませんよ。双王の署名した文書がある。儀式を止めても失敗となります」
「……なぜ、ここまでする」
ユーヤは、それは役割とか義務感とかから離れた、純粋な疑問として訊ねる。
「そこまでして、姉を生き返らせたいのか」
シジラの目元に緊張が走る。さすがにその発言には少し驚いたものの、この異世界人ならそのぐらいはやるのか、と奇妙な納得の気配もあった。
「タイミング、というものです」
「タイミング……?」
眼下では二組目の踊りが行われている。ここからでは細かな動きは見えないが、大勢が飛び上がって両足で地面を踏んだり、足を頭の上まで上げてから四股のように大地を踏む、そのような豪快な振り付けである。
十数人が位置を入れ換えながらの踊りは大変に勇壮なものに見える。動きだけでなく、音も立体的に重なり合うかのようだ。
「姉は大乱期に失われた名画たちを甦らせたいと言っていました。古い絵ばかりでなく、天賦の才を持ちながら寡作だった画家、若くして世を去った画家たちの新作。そんな「生まれるはずだった」名画を生み出したいと。それを気高き理想だと思いますか」
「……とてもそうは思えない。優れた才能があるなら、その姉自身が自分のオリジナルを生み出すべきだ」
「私もそう思います」
その答えは何だか肩透かしを食らったような気分だった。シジラはあっさりと認め、世間話のように語り出す。
「魔女の騙し絵は限りなく完璧ですが、私は姉自身の絵を見たことがなかったのです。姉はいつもアトリエにこもっていて、あまり一緒に遊んだこともない、パルパシアでは珍しいタイプの姉妹でした」
「……そうだな、パルパシアでは双子は仲が良いと聞いている」
「私は姉のことが理解できなかった。より端的に言うなら気持ち悪いと思っていた。姉はあくまで模写と言っていましたが、署名もないその絵は贋作と言われても仕方がない。そんな趣味はやめてほしかったのです。私と姉は何度も喧嘩しました。姉はあまり言い返さず、じっとうなだれていることが多かった。そんな態度にもまた苛々とさせられた」
「……」
シジラは、壁際まで下がっている男たちに聞かれていないことをちらりと確認しつつ、言葉を続ける。
「ある時、私は決定的なまでに激昂した。理由はよく覚えていません。誰かに姉の趣味を揶揄されたからか、油絵の具の匂いが鼻についたのか、ともかく私はカップや皿を投げて姉を怒鳴り散らし、あの趣味を止めないなら私はパルパシアを出るとまで言いました。姉は悲しそうな顔をしたけれど何も言い返さず、それからの数日、アトリエに泊まっていたようです」
「……」
「姉は盗っ人によって命を断たれました。しかし、それは絵と無関係な、金銭だけを狙った物取りだったようです。数日が経ち、私が少し冷静になってアトリエに行ってみると、姉はそこに倒れていました。胸をナイフで刺されて」
「……確か、絵は無くなっていて、姉の死体と画材だけが残されていた、と聞いているが」
ユーヤのその呟きは聞こえなかったのか、あるいは自分の話の中に没入しているのか、シジラは何もない虚空を見ながら話を続ける。
「盗っ人が入ったとき、姉は絵を描いていたようです」
「絵を……」
「キャンパスの中には二人の少女がいました。しかし顔がまだ描かれていなかった。姉にとっては大変な作業だったのか、構図を取るためのラフ画が何十枚も散乱していました。そして、絵の中の少女が着ているドレスには、よく見覚えがあった」
「それは、まさか……」
「そうですね、私たちの絵でした」
シジラは肌に熱を持つかに見えた。その紫がかった口唇から、ほうと熱い息が漏れる。
「特に技巧的と言うわけではありません。流水派のドルミーバック、新ミラー派のソレノ、あるいは議場主義、新戒律、無求主義、どれとも違う。言ってみれば普通の絵でした。奇妙なものです。どんなタッチでも再現できた姉が、なんのてらいもない普通の絵に数日かかったのですから」
シジラはそこで息をつき、少し走った後のように、熱っぽい視線を真下の会場に注ぐ。
「あるいはその絵がなければ、姉にあんなにひどいことを言わなければ、妖精の鏡など求めなかったかも知れない」
特設会場では双王が解答を示したようだ。ダンスは全身の運動性能がものを言う。双王が間違えることもないだろう。とシジラは期待もしていない眼である。
「今にして思えば、姉は実に純粋な人でした。姉はさまざまな天才を模倣していましたが、それは手段や目的ではなく、ただの信仰の表現だったのかも知れません。署名を残さなかったのは、ただ巨匠の絵が恐れ多かったのかも。ですがその思想はもはや余人に理解できない域です。それはやはり、異常者なのでしょうね」
「……」
「姉が本当に欲しかったのは、家族の理解と愛情だったのかも」
シジラは、己が話しすぎていることを感じてはいたが、どうせ儀式が終われば己がどうなるかは神のみぞ知る。何を言っても構うものか、という気分で言う。
「私はもう少しだけ、姉のことが知りたい。だから姉の残した絵を裏社会に渡したのです。パルパシアの鏡の力については推測できていました。財力を得れば鏡に近づけると思ったのですよ。それらを売りさばくうちに、あの王子が現れて……」
シジラがはっと振り向き。
そこで彼女は一瞬、全身を硬直させる。
ユーヤの、眼が。
その印象はおよそ人間のそれとは異なっていた。怒り狂うような、泣き叫ぶような、無数の感情の場面を圧縮したような眼。その奥に宿るは漆黒の炎、己に突きつけられる気配は餓えた狼のそれか、あるいは理解を超えた怪物か。
「シジラ」
「……な、何でしょうか」
「生まれ変わりを、信じるか」
言葉が、周りの音を消していくような感覚。
果てしなく広大な空間の中に、二人だけが取り残されるような。
「え……」
「妖精は異なる世界を結ぶ。だがそれを成すのは妖精だけだろうか。人の魂は世界の摂理に捕らわれず、あらゆる世界に渡って再び象を得ると信じられるか。無限の距離を隔てて、時間の壁すらも越えて! あるいは過去の世界にすら転生しうると思うか!」
「ど、どうしたのですか、何を言って……」
「人生の経験とは魂の象となり! 輪廻転生を繰り返してもあらゆる場所にその指紋を残すと思うか! だから僕はここにいるのか、確かめるべきなのか、そうだ、確かめなければ、どうしても……!」
「は、離してください、手を……」
「シジラ、僕と勝負しろ」
「え……」
黒スーツの男たちと、メイドが駆け寄ろうとする寸前、ユーヤが手のひらを突き出して押し止める。
「魔女の騙し絵だ! それと対応する本物の絵を用意しろ! あれは完全無欠なんだろう! 僕が五枚、贋作を見破れたら僕の勝ち、一枚でも外したら君の勝ちだ! この条件で受けるか!」
「しょ……正気で言っているのですか、あれは専門家ですら」
「僕が勝ったら、君が把握している限りの魔女の騙し絵の所在を教えろ! だがもし、僕が」
危険だ。
そう感じたのは薄紫リボンのメイド、カヌディ。
話の子細は分からない。前半はまったく聞こえなかった。
だが、またユーヤは暴走しようとしている。この世で彼にしか分からぬ理由で。誰も理解してあげられない、彼だけの狂気のゆえに。
「僕が負けたら、鏡は僕が使ってやる! 叶えてやるとも! 君の願いを!」




