第二十三話
※
「いいっスか! こんなこと知る限りで誰もやったことないっス! せめて体を丸めて、頭を打たないようにしてくださいっス!」
ユーヤの用意していたロープとは馬をつなぐためのもので、十分な強度がある。タキシードのジャケットを腰に巻き、その上にロープを三重に結わえて、カル・フォウが構えるのは断崖の手前。
「おい、あんたら正気か?」
「ねえ誰か止めないの」
「いや、妖精で体重を軽くしてるらしいし、たぶん死ぬほどには……」
ものが落下したときの衝撃とは、落下時の速度と、落下物の質量によって変化する。体重が八割がた減っているならば衝撃もかなり減るだろう、という認識はこの世界にもある。
しかし、100メーキの高さから落ちれば猫でも無事では済まない。対岸に放り投げると言っても、この距離では角度はかなり浅くなり、石塊にぶつけるのと大差なくなる。
止められる雰囲気ではないが、群衆の誰もそれを現実味のある光景として理解できていない。あと数分もあれば冷静になって止めに入るものもいるだろうが、今は祭りの熱狂の中、あらゆることが非現実の領域に踏み込んでいた時間の中で、カル・フォウはぐいとロープを回す。背筋を突っ張り、カカトを踏み変えつつ、天性のセンスで加速を得る。
「ぐっ……」
ユーヤの声はすぐに聞こえなくなる。
カル・フォウが立っているのは30リズルミーキほど高くなった台の上。頑丈な木で組まれた書棚を伏せたものだ。
そこで回る。初速からかなりの速度で、そして急激に勢いを増す。
「――おい、まさか本気で!」
もう静止させることもできぬ、その小さな体に詰め込まれたバネを全力で駆動させて回る。このような遠心力で回して人体に影響はないのか、背骨が砕けはしないか、あらゆることが未知の世界の中で、せめて全力で彼を投げんと回る。
そしておよそ五回転目、加速が頂点に達する一瞬、その手を離す。
ごう、と空を切る音。体重の大半を失ったその体は冗談のように射角30度で飛んでいく。回転しながら、数人が一斉に上げる悲鳴を浴びながら。
「飛距離は足りてるっス、あとは」
さすがに真っ直ぐにとはいかない、大きく右にそれた軌道である。対岸で待ち構えていたコゥナが走る。
「いかん、速度が出すぎている!」
反転してその体に追いすがる。
相当な速度が出ている。
真正面で受け止めなければ、ということを今更ながらに思う。
果たして石に激突したならあの異世界人はどうなるのか、あるいはガラス細工のように砕けるのか、そのような連想に一瞬脊髄までが冷える。
そして前方に。人影が。
「ユーヤ様!!」
それは薄紫色のリボン、今はパルパシア側のメイド服を借りていたカヌディが。
そして、同様に数十人が散らばっていたメイドと執事たちが、数人がかりで幅広の布を構える。その横断幕に水平に近い角度で人体が突っ込む。衝撃に数人が吹き飛ばされる。大勢が将棋倒しになり、石の大地でわずかに砂埃が上がる。コゥナは足を止めぬままに叫ぶ。
「どうだ、受け止めたか!」
「メイドが一人巻き込まれました! 正面にいたようです!」
侍従たちが叫ぶ。限られた人間しか居住しない最上層では野次馬などはないが、対岸の方ではどうやら受け止めたようだと、気の早い歓声も上がっている。
「ゆ、ユーヤ様……」
巻き込まれたのはカヌディであった。彼女は全身でユーヤを抱えこみ、後方に飛びつつその衝撃を受け止めていた。したたかに腰を打ったが、なんとかケガもないようだ。
だが、その体はぐったりと弛緩しており、カヌディに全体重を預けている。
「! ゆ、ユーヤ様、意識が!」
「動かすな!」
叫ぶのはコゥナである。メイドたちの中で医術に明るいものが駆け寄り、手早く各部を観察する。貧血だと見て取ったものが、足の方を持ち上げて脳に血流を送っている。メイドたちがコゥナへと振り返る。
「頭は打っておりません。おそらく脳虚血か、ショックによる失神です」
「過呼吸は起こしておりません。脈も正常です」
「腰骨や頚椎にも異常ありません。腹部にアザが出来ていますので、軟膏で処置いたします」
「よし! ユーヤを王宮に運べ、双王の儀式はどうなっている!」
「現在、二問目です。三問目は音楽のため、準備の間、少しだけ控えに戻られるはずです」
「……ユーヤは、すぐに目覚めるか」
メイドたちは顔を見合わせる。
「……神経を刺激する薬品を嗅がせる、という気付け法がございます。それと指圧を行いましょう。温湿布も」
「よし、コゥナ様も手伝おう。そこのメイド! 歩けるか」
と、カヌディを呼ばわる。彼女はまだ腰が抜けたような状態だったが、何とか足を震わせながらも立ち上がった。
「ゆ、ユーヤ様は……」
「心配いらん、なんとか間に合わ、せ……」
コゥナはぎょっとしてそのメイドを見る。
彼女が泣いていたからだ。だくだくと涙を流し、両肘で交互にその涙を拭おうとするが、溢れ出て止まらないように見える。
「ど、どうしたのだ、お前」
「い、いま、ユーヤ様、頭から落ちてきたのです。もし、受け止めなければ、お命が」
あの一瞬。
カヌディは生まれて初めて人の命というものに肉薄した。
わずかでも不幸な偶然があれば、自分がユーヤを受け止め損ねれば、飛距離が足りずに断崖に落ちれば、それで彼の命が終わっていた可能性が十分にあった。今の異常な一幕の中で、カヌディはそれをはっきりと意識してしまった。意識した瞬間、恐ろしくてたまらなくなった。
「こ、こんなこと、マトモじゃありません……。な、なぜ、ユーヤ様はこんなことを。みんなもおかしいです。し、死んでしまうかも、しれなかった……」
「……そうだな、その通りだ」
コゥナもまた、ふいにそれを実感する。
ユーヤという人間の世界観に巻き込まれていたと感じる。冷静にならねばと自戒し、一度頭を振る。
「ユーヤだけではない。我ら全員、あれの強烈な意志に当てられて自分を見失っていたかも知れぬ。あの男は良くも悪くも強烈すぎるのだ。あの狂気に踏み込んだような目を見ていると、その言葉に逆らえなくなる。本来ならコゥナ様が手綱を引いてやらねばならぬ立場だった。すまない、許してくれ」
己の国では部族を背負って立つという自負ゆえか、尊大な態度を取ることが多いコゥナであったが、そのときは誠実に詫びるべきだと感じた。
あるいはそれは、己自身を常識的な価値観の中へ留め置くための行為。ユーヤを、彼のいる場所からなるべく自分の理解できる場所へと引き戻そうとするかのように、頭を下げる。
「い、いえ、コゥナ様のせいでは……」
「いや、私のせいだ。本来はお前たちセレノウのメイドはユーヤの身を守らねばならぬが、ユーヤが本当に暴走したなら逆らえる立場ではないからな。致し方ない状況だったとは言え、私が止めるべきだった。せめて、他の手段がないか探すべきだった」
長く話している余裕もなかった。数百メーキの彼方、特設ステージからまたも光の柱と花火が打ち上がったからだ。二問目でも双王が勝利したものと見える。
「さあ、だが今はともかくもユーヤを目覚めさせねば。すべてが終わったらお前からたっぷり説教してやるがよい。あやうくセレノウの姫君を未亡人にするところだったとな」
「は、はい」
そして、カヌディの肩を支えながらコゥナも歩く、ユービレイス宮の方向へ。
そこに、黒衣が。
全方向から陽に晒される最上層にあって、それはなお黒を濃くするかに見える。
闇色の魔女が。
その人物、シジラの脇をコゥナが横切ろうとする時、そっと言葉が囁かれる。
「……余計なことをされたものです。あの殿方は、クイズになど関わらぬほうが幸せなのですよ」
「コゥナ様は、お前の事情はよく知らんが」
コゥナはわずかに足を止め、その場限りの一瞥のような言葉を返した。
「あいつが戦っているのは、お前ではないかも知れぬ」
「……では、誰だと。人間にクイズを与えた妖精王でしょうか。それとも忘れ去られし太古の神、樹霊王でしょうか」
「あいつが戦っているのは」
そしてまた歩き出す。
「きっと、あいつ自身の中にある、闇だ」
「……ふ」
遠く響くのはクイズの熱狂。
特設ステージから、あるいは大陸のあまねく全土から。
※
「……一流クイズは、僕の世界でも知られていたクイズなんだ」
寝台にて身を起こし、ユーヤは血の気の失せた顔をしていた。それはこの人物にとっては常のことだが、周りの使用人たちはまたいつ斃れはしないかと、わずかな緊張を持って居並ぶ。
人の輪の中で、前に出ているのは双王。無茶をしてユービレイス宮まで来たとは聞いたものの、そこまでして自分たちに伝えたいことは何かと訝しむ様子である。
「うむ、我らの国でも、サロンから場末の飲み屋まで親しまれておるクイズでもあるぞ。儀式的意味は持たぬがな」
「……僕のいた世界で、一流クイズはとても人気があった。主に挑戦したのは芸能人だったが、20年以上の歴史の中で、何百人もの挑戦者が挑んだ」
「ふむ」
「その中でほんの数人、異様なまでの強さを示す王たちがいたんだ」
思い出す。彼が直接、その番組に関わっていたわけではなかったけれど、収録の様子は遠く耳にしていた。何度でも確実に、必ず全問正解を成し遂げる王たちのことも。
「それはつまり、料理や音楽の専門家じゃったのか?」
「いや……あまり共通点は感じなかった。ミュージシャンもいたけれど、スポーツの監督とか、女優もいた。そう……君たちみたいな双子の姉妹もいたな。僕の知る中で一番ゴージャスな二人だった」
「我らよりゴージャスな女などいるはずなかろう」
と、そこでユーヤは少し時間が止まる。
双王を見て。
記憶を探るように虚空を見て。
また双王を見て。
「いや、向こうのほうがゴージャスだった、ような」
「なんじゃと! 絶対そんなはずないぞ! この服とティアラいくらすると思っとるんじゃ!」
「ま、まあ、世界をまたげば、上には上がいる、ということも」
「そこのメイド! 我らの指輪コレクションを持ってくるのじゃ!」
「よその世界の女などに負けてられんわ! 宝物庫からダイヤを持ってくるのじゃ! 国宝のあれじゃ! ヒヨコぐらいあるやつ!」
「ごめんそれはどうでもいいんだ、話をさせてくれ……」
双王は同時にぱちりと扇子を閉じ、それをユーヤに向ける。
「ええい、まあそれはよい。それでユーヤよ、我らに伝えたいこととは」
「……僕はその一流クイズが、選ばれし人々のためのクイズだと思っていた。知識や経験だけでは勝ち抜けない、物の本質を見抜くような、あらゆる価値を裁定する人のような、真に優れた人間を見出せるクイズである、と」
「ふむ?」
「だが、違っていた」
――私にも、できますよ。
幻聴が聞こえる。
記憶の底に沈む石のような声。それはあるいは、ユーヤの中にずっと潜み続けている声か。休むこと無く胃の腑をさいなむ過去からの痛みか。
「……その一流クイズにも、やはり技術が存在した。直感や天性のセンスによらない、技術が」
双王は首をひねる。
「それなら我らも知っておる。ワインの鑑定、肉の味わい方、音楽や舞踏についても押さえるべきポイントというものがあるぞ」
「我らがまだ若いことは認めぬでもないが、そこらへんの専門家には負けぬぞ。技術とはそういうことじゃろ?」
「いや……」
ユーヤは誰の眼にも分かるほど疲労していたけれど、それとは別の精神からの消耗があるように見受けられた。何かしら苦い薬を舌先に乗せるように言う。
「それはある意味では、このクイズを否定するような技術だった。享楽というものの文化的側面の否定。知識でものの価値を読み解くことの否定。あるいは芸術や美食における優劣の否定……」
「よくわからぬのう。つまりどういう技なのじゃ?」
「それについて話す前に……」
ユーヤは寝台にて上体を起こしたまま、全員をゆっくりと見て言う。
「双王……この技術を使う気はあるかい」
「む……」
ユーヤは、薄氷の上を歩くように一言一言を切りながら話す。己の言葉が常識的な背景から放たれているか、倫理とかけ離れた世界に踏み込んではいないか確かめるように。
「シジラに鏡を使われ、文書の上だけとは言え王位継承が一年間遅れる。僕の姑息な技術に手を出してまで、それを回避したいと思うかい、双王……」




