第二十二話
ファニフル側の最上層、そこはやはり石板が大地となっている世界である。
最上層だけを見れば真っ二つに割れた皿のような、中央に巨大な亀裂のある大地と言える。亀裂は高さ100メーキ近くの吹き抜けであり、誰かが落ちてしまわぬよう、腰の高さほどの石柱と鎖が敷かれている。
その鎖には多くの人々が集まっていた。彼らはこの最上層に邸宅を持つ富豪や政治家など、あるいはホテル滞在していた外国人。または最上層に職を持つ使用人などである。
鎖にしがみつき、対岸に声援を送る姿には若さが見られる。100メーキ以上の空白を隔て、スタンドで囲まれた会場の様子などまったく見えないが、そんなことは物の数ではないといいたげな熱狂ぶりである。
何箇所かには木箱や家具を積み上げた階段が組まれている。その上では正装した紳士がオペラグラスを構え、対岸で行われている戦いの様子をなんとか見ようと必死になっている。そして大型のラジオが何台も置かれ、会場のクリアな音声が流れていた。
「けっこう人がいるな……」
「ユーヤ様、こっからどうするっスか?」
ユーヤは人力車を降り、尻の下に敷いていたロープを取り出す。長さは7メーキほどだ。
「ここに来るまでにロープを調達しといた。丈夫そうなやつをね」
「いつの間に……でもロープっスか? 橋を作ってるヒマなんかないし、そのロープじゃ短すぎっス」
「いや……」
対岸を見る。断崖はわずかに湾曲しており、その幅はおよそ80から120メーキ。
「僕を放り投げてくれ、向こう側に」
「はっ!?」
「僕の胴にローブを結びつけて、カカトを軸に回転しながら振り回し、丁度いいところで手を離すんだ。そういう競技はこの世界にないのか」
「ご、攻城球のことっスか? 似たような競技はあるっス。でもやったこともないし、それに人間一人を100メーキ以上放り投げるなんてムチャっス!」
「大丈夫、そろそろ届くはずなんだ……」
その二人の場所から、まっすぐユービレイス宮へと視点を動かす。
高台で腕を振る男、鎖と石柱に集まった群集、妖精の飛び交う断崖を跨ぎ越えてティアフル側へ。
今まさに樹霊王の儀が始まらんとするスタンド席を横に見て、さらに黄金の小宮へと近づけば。
「ユーヤ! そこにいるな!!」
そこを走る影。
メイド服をかなぐり捨て、革の上下のみとなったコゥナが石の上を走り、手にした巨大な四角形の物を振りかぶり。
「受け取れええ!」
風を切り裂いて飛ぶ巨鳥。妖精たちが驚くように身を引き、降りあおぐ群衆の上空を飛んで石にぶち当たる。狙いあやまたず、カル・フォウの1メーキ右に。
「うひゃっ! な、何っスか!?」
それはよく見れば屋根のようだった。御輿の屋根か犬小屋の屋根のような、ささやかな角錐型。頂点部分に黒い球体が固定されている。
「こ、これ何っスか? コゥナ様に何を頼んだっス?」
「馬車の屋根だ。ひっぺがしてこっちに投げてくれるように頼んでおいた。これだけは君には頼めなかったんだ。双王が動けない可能性があったし、僕からの頼みだと伝えても、他国のメイドがあれに触ることは無理だと思った」
「あっ、まさかこれ!」
「そう、パルパシア王家の御用馬車の一部だ。この国に来るときに乗ってきたものだ。これには翅嶽黒精が使われてると聞いていた。重量を低減する妖精だと」
カル・フォウもさすがにあっけに取られる。御用馬車に使われてる妖精ともなれば、それを呼ぶブラックオパールは一財産ほどの価値がある。もちろん馬車それ自体も一流の仕事である。
コゥナは本当に、何の混乱もなくこれを持ってこれたのだろうか。
ユーヤが屋根に固定された球体に触れる。それはカプセルトイのようにネジが切ってあり、回すと上下に分かれた。
中にいたのは黒い妖精。四本の腕を持ち、その四本それぞれに銅貨ほどの盾を構えた妖精である。
知性がないはずの妖精はユーヤを見て、にやりと微笑むかに見えた。ユーヤはそれをタキシードのポケットに入れる。
「さあ、早く」
「わ、分かってるっスか? 体重が軽くなると言っても、浮き上がるほどじゃないっス。飛距離が足らないとゴーフシーニーの川面までまっ逆さま、に……」
カル・フォウは、そこで観念したように力を抜き、一瞬だけ泣き顔のような顔になる。
所詮、自分ではこの人物は止められないのだと理解する。
この人物の命はこの人物自身にすら自由にならない。信念なのか使命なのか、もっとずっと大きなものに、すでに捧げられているようだ。
「分かったっス! 侍従の職責に否やはなく! 侍従の御業に不可能はない! このカル・フォウ、力の限り役目を勤めさせていただくっス!」
※
そのような喧騒に果たして何人が気付いたのか。
儀式の会場は、もはやここ以外には何一つ生けるものもなく、この時以外の人生に何の興味もないかのような盛り上がりである。
この日の双王の出で立ちは蒼と翠のタイトワンピースに、ボリュームのある髪を金とプラチナで編まれた花冠で飾っていた。花冠に彩られるのは大粒の翡翠を大胆に加工した葉と、同じく希少な赤翡翠を削って造った花である。
それは紛れもなく王家の至宝であり、一般の目にさらされるのも数年ぶりというティアラであった。双王がこの儀式になみなみならぬ決意をもっていることが読み取れる。
セレモニー、ルール説明、その間も楽団の演奏により場が盛り上げられ、群衆の興奮はいや増していく。
二人は白の毛皮で覆われたソファに座り、その前にあるのはワイングラスが二つずつ。血のように赤いフルボディのワインが並ぶ。
客席にいる、どこかの富豪の令嬢が言う。
「双王様、ワインはどのぐらい飲んでおられるのかしら? さすがに第一問から間違えないとは思うけれど」
その横にいた老紳士が答える。
「樹霊王の儀を模した遊びはサロンでも何度か遊んだものだよ。ワインは上級者には比較的簡単だが、経験の浅い者はよく間違える」
「そうなのですか?」
「問題を用意する側の腕の見せどころなのだよ。安いテーブルワインとはいっても飲みごたえがあるもの、香りの華々しいものなどが選ばれるからね。単純に美味しい方、飲みやすい方を、と思って選ぶと罠にかかる」
「でも、はずれの方は3000ディスケット程度のテーブルワインと聞きましたわ。そんな価格帯に良いワインがございますの?」
「あるとも。むしろそちらを紹介したいがための遊戯だったりもする。よければお嬢さんにも何本か教えてあげたいものだ」
「ええ、機会があれば、それと今度また太股さわったら前歯ぶち折りますわよ」
「…………す、すいません」
双王はそれぞれが二つのグラスに向き合い、底面をつまんで回し、グラスに鼻を差し入れ、そして一口飲んで舌の上で転がす。
司会のミノタ氏がステージを歩き回り、頃合いを見て双王に呼びかける。
「さあ、双王様、先にお出しした方が「太陽」、次にお出ししたものが「雨」となります。樹霊王の儀は収穫祭でもあるのでこのような呼び方なんですねえ。テイスティングが終わりましたら、これはと思うものをお選びください。なお相談は自由となっております」
「ふむ」
「なるほどのう」
グラスが置かれ、双王はソファの上で大きく足を組む。ちなみに言うなれば、会場へは銀写精と藍映精は持ち込み禁止となっていた。
「まず「太陽」のワイン」
「それは入り組んだ田舎の町並み、夏の日差しを受けて輝く、まだ若く活気のある町」
「響き渡るは鍛冶仕事の槌の音、家畜の鳴き声、煉瓦の塀を脇に見て進めば、やがて井戸に至る」
「井戸端には花が植えられ、清貧なる町娘が清水を汲んでいた。彼女はそっとこちらへ微笑みかける」
「舌先に残る酸味は鮮烈なる少女像、そして心に残る印象はひたすらに劇的」
「これは美しき風景と、忘れがたき美の記憶のようなワイン、まぎれもなく一級の味わい」
ワインの形容にはさまざまな表現が用いられる。風景に例えるのはパルパシア風の典雅なやり方であり、群衆は目を閉じて双王の言葉に聞き入る。
「そして「雨」のワイン」
「これは滅び去った城。千年もの風雨に朽ち果て、かつては貴人であった者たちが屍を晒す」
「玉座にいましは骨だけの王。かつては女帝であったのか衣の裾は長く、靴のかかとは高く。滅びてなお高みから世界を見下ろす」
観客がざわざわと囁き交わす。その表現であれば、見るも無惨な味なのか、それとも古すぎて壊れているワインなのか。
「だが」
シンクロする双王の声、ラジオを通じ、パルパシアの全国民がその声に金縛りにあうかに思える。
「その王は屍となっても生きている」
「それはさしずめ不死の王。月の光にて肉体を得て、無限の夜を闊歩する闇の女帝」
「圧倒的なまでの力を秘めた魔王のごときワイン。明らかにワインの限界を超える永さを生きておるのに、その魔性の輝きは増すばかり」
「このようなワインが実在するとすれば一つ、「アポグレウス・メルトラ」しかありえぬ!」
観客にどよめきが走る。
「よって正解は「雨」のワインじゃ!」
しばしの沈黙。
司会のミモタ氏は己に与えられた役目の大きさと、その光栄をたっぷりと表現するかのように間を取り、そして高らかに宣言する。
「――正解です!!」
組まれたスタンド席の外側から、そして王宮の裏から光が射ち上がる。七色の妖精たちが織り成す光の柱が、そして日中であることを物ともしない大輪の花火が。
爆発的な喚声。それは七層の都市の間で響きあい、この双子都市の裂け目から笛の音のように吹き上がるかに思えた。それほど全国民が沸き立ち、惜しみない賛辞の言葉を降らせる。
しかし観客の中には「まさか」という顔も少なくなかった。
それは司会者も同じだったのか、アシスタントのニズモリがおずおずと問いかける。
「あ、あの、双王様、「アポグレウス・メルトラ」といえば……」
「そうじゃ。25年ほど前、沈没船の中から見つかった12本のワイン、その時点で170年が経過していたと見られるワインじゃ」
「100年以上の熟成に耐える深熟ワインといえど、大乱期より以前から残っているものはほとんどない。記録の上で、開栓されて飲まれたのはわずかに二本、これが記録に残る三本目となる」
波のようなざわめき。もはや高級品かどうか、という次元ではない。到底、値段などつけられないワインである。
「あと20年もすれば、さすがの深熟ワインも味が壊れてしまうじゃろう」
「ここで飲めたのはよい機会というものかの。博物館に飾るなら瓶だけで十分。我らが王位についた暁には、残った九本も皆で飲む機会を儲けるべきじゃろうな」
ミモタ氏は何度も深くうなずきながら、感心しきりの様子で口を開く。
「なるほど! いやあさすがは双王の挑まれる儀式ですなあ、歴史的な事がポンポン起きてます。この儀式は映画化するそうですが、すごい入りになりそうですねえ」
「……しかし、真に恐るべきは不正解の方のワインじゃ」
「確かにのう」
双王が、二人だけに聞こえる声でささやく。
「まったく経験にない味。まだ若いが、我らも知らぬ独自の技術で醸造されておる。奇跡のような出来映えじゃ」
「絶世の美女じゃが、異国の娘という印象じゃ。これはまさか、噂に聞くヤオガミのワインではないのか」
「恐ろしいものを仕入れてくるのう。この一本を探し当てるのに、どれほど試飲を重ねたことか」
「シジラの本気のほどがうかがえる、というわけじゃな……」
そして様々な思惑を飲み込んで、クイズは続く。
「では、第二問です!」




