第二十話
天井が見える。
木目の見える板張りの天井。眼を開けて眠ってでもいたのか、ある一瞬からそれは木目なのだと理解できるような感覚。
「水の音がするな……、ここは第一層か」
身を起こす。ユーヤにまどろみなど無いのはいつものことだが、慢性化している頭痛や首筋の痛みがことさらひどく感じる。薬で眠らされたせいだろうか。
周囲は地下室ではない、木造りの部屋である。
――だから、ブックメーカーが騒いでるんだよ
部屋にはドアが一つ、抜き足で歩いてそこに張り付く。複数の男たちが話をしているようだ。
――本格的にやんのは130年ぶりの儀式だろ、でけぇ賭けになるな
――クイズ大会が中止になった埋め合わせだろうさ、イントロクイズ大会って噂もあったが、まさか樹霊王の儀とはなあ
――でもこのラジオじゃなあ、安いやつだし
二人の男がドアの前で話している。がたがたと鳴るのは椅子の脚の音だろう。ドアの前に二人が陣取り、椅子に座って話をしているようだ。
(……見張りがいるな。粗暴な口ぶりだしマフィアだろう)
(樹霊王の儀式をシジラが仕掛けたと知らないようだが、見張りにまでは伝わってないのか)
――くそっ、酒場でラジオ聴きてえなあ、ウルクスの店のはいいラジオなんだよ
――我慢しろ、それに今から行っても満席だろう、あと一時間もないからな
(あと一時間……?)
自分がどのぐらい寝ていたのか判然としない、シジラは確か「準備には一両日はかかる」と言っていた。もしや自分は24時間近く寝ていたのだろうか。
その時。
どがあん、と大きな塊が転がるような音。数人の男たちの悲鳴が聞こえる。
――な、何だ!?
――お前はここにいろ、見てくる
ユーヤはいっそう耳をそばだてるが、ドアを隔てているためよく聞こえない。どうやら乱闘が起きているようだ。陶器が割れて散乱する音、薄い木の壁をぶち破る音。ドアが蝶番から引き剥がされる音。そして男たちの悲鳴。
階段を駆け上がってくる音が響き、反射的にドアから離れる。
そしてがあんと耳を聾するほどの音。分厚い木のドアが縦回転しながら飛び、反対側の窓を粉砕しながらぶち当たる。
そして出入り口に立つのは、蹴りの体勢のまま周囲を見回す少女だ。やや背が低く、エプロンドレスを着込んだメイド。顔の下半分に布を巻いている。
「うおっ……か、カル・フォウ、か?」
「くそっ! このガキ!」
しゅいん、とナイフを鞘から抜き放つ音がして、背後から襲い来る男が見える。ユーヤは叫びかけるが、メイドの反応のほうが早かった。後ろ蹴りを放つと同時に体を反転させ、蹴り足を真上に振り上げる。靴の裏がアゴを捉える槍のような蹴り。突き上げる一瞬で男は白目をむき、真後ろに倒れ、そのまま階段を転げ落ちていく。ここは二階以上にある部屋のようだ。
「た、助かったよカル・フォウ、でも一人でこんなところに押し込むなんて、危険な」
「寝ぼけるな」
つかつかと歩いてきて、ばしんと頭をはたかれる。
「えっ?」
よく見ればカル・フォウのスカートはすぼまっていたのに、その少女のスカートはゆるやかに広がっている。そして頭には薄桃色のリボン。
「えっまさかカヌディ!?」
「違う! よく見ろ!!」
そして眼の前のメイドの背後から、どたどたと階段を上がってくるのはまさしくカル・フォウ。
「ユーヤ様、ご無事だったっスかー?」
「え……」
どうもまだ視界が霞んでいて、しかもメイドが顔半分を隠しているため分かりにくい。口元に布を巻いているのだ。
ユーヤは数度、眼を瞬き、その顔をゆっくりと見つめた。よく見ればそのメイド、露出している目元の肌は浅黒く、全体的に細身であり、腰に手を当てて悠然と構えるポーズはどこか見覚えが。
「あっ」
「ふん、ようやく気づいたか、寝ぼすけめ」
口元の布を外し、鼻を鳴らすのは年若い少女。
それはフォゾス白猿国に住まう森の民、大族長の娘、コゥナ・ユペルガルであった。
※
「うーむこれがスカートというやつか、意外とコゥナ様に似合うな、なんでも経験してみるものだ」
「コゥナ様、両サイド切っちゃってるっスけど、パンツ見えてるっス」
「これは下着ではないぞ、由緒ある正装だ」
マディラの路地をゆく。先頭をコゥナ、それに続いてユーヤとカル・フォウが並走するという並びである。
わずかに陽光を感じる。双子都市ティアフル&ファニフルを分かつ大河ゴーフシーニーに光が降りているのだ。
だが昼の時間帯の割に、出歩いている人間が少ない。街には酒場に客が詰めかけており、ちょっとした広場には黒板を掲げてセリのように声を上げる男がいる。賭け事を仕切っているようだ。
伝統的に看板や広告が多いパルパシアの町並みは、走ると左右に広告が流れ去っていくような感覚がある。
「コゥナ、どうしてここに」
「フォゾスはパルパシアより南にある。早馬で帰ったお前たちの後から南下していたら、双子都市で祭りがあると聞いたのでな、寄ったまでだ。別にお前に会いに来たわけではないぞ、拉致されたと聞いたからな、なりゆきというやつだ」
「ありがとう、まさか君が助けに来てくれるなんて」
「ふん、コゥナ様なら匂いでお前を探せるからな。一日かかってしまったが」
ユーヤと並走するカル・フォウが、走りながら腕を組み、少し考えてから言う。
「ユーヤさま、また不倫っスか」
「君ちょっと黙ろうか」
ところで、と前のコゥナに呼びかける。
「それはカヌディの服みたいだけど」
「コゥナ様の格好は目立つからな、あのモヤシのような娘から借りたのだ。あいつもお前を助けに行くと言っていたが、男どもとの乱闘など無理だから置いてきた」
「あっ」
それで何かを思い出したかのように、カル・フォウは走りながらも深くうなだれた。
大きな石を裏返すような、短くも重い沈黙のあとに言葉をこぼす。
「申し訳ないっス……我々がついていながら、こんな大きな失敗をしてしまったっス……。ユーヤ様をさんざんな目に逢わせて、双王様まで」
「気にしないでくれ、向こうの計画のほうがずっと巧みだった。遅かれ早かれこの計画は発動して、この国の鏡は狙われていたんだ」
それに、とユーヤはなるべく穏やかに、しかし喉の奥に小骨の刺さるような苦々しさを潜ませて言う。
「失敗というなら、僕の人生なんか失敗ばかりだ、恥ずかしいことの連続だよ」
「ほえ、ユーヤ様でもっスか?」
「そうだよ、だから気にしないでくれ」
川に沿って走る。流れに浮かぶ無数のゴンドラも、今は何だか店の品定めという雰囲気ではない。屋形船のような大きめの船では宴会が行われ、店の前に出ていた女達も、客引きをしていたピエロも、店の中に引っ込むか、あるいは広場でラジオを囲んでいる。
「……今は何時? あそこで僕が寝かされてから何時間経った?」
「24時間ぐらいっス、すでに街にお触れが出されて大変な騒ぎっス。他の国からお大尽も来てるらしいっス」
「24時間……そんなにか」
手洗いを済ませて水を飲み、ただそれだけでこうして街を走るのはかなり厳しいものがあった。薬がまだ残っている気配もあったし、筋肉があちこち強張っている。
コゥナが背後をちらりと見て、エプロンのポケットに手を入れる。
「これでも食べろ、フォゾスのキビリジ・パズだ」
何個か放られる、それは黒い立方体であり、手に持つとまさに「黒砂糖の角砂糖」のような質感だった。
しかし食べるとパンの風味がする。口の中でサクサクとほぐれて、コーヒーのような濃い風味が薫る。そして中にはとろりと蜂蜜が封入されていた。
「おいしい。燻製した乾パンのような、焦がしたバゲットのような、すごく複雑で重層的な香りだ」
「生地に秘密がある。小麦粉を練った生地を腐葉土の中で発酵させるのだ。その腐葉土を塊で掘り起こし、天火でじっくり乾燥させてから生地を取り出す。それで複雑な香りになるのだ。中に注射器で蜂蜜を封じ込めてあるのが高級品だ」
「腐葉土で発酵……そんな技術は聞いたことがないな。雑菌で腐ったりしないの?」
「ブラゾンの樹だけが広範囲に生えている場所の腐葉土で作る。ブラゾンの葉が積もった土には黴菌がいない。獣などは土をそのまま食べることもある」
「なるほど……笹の葉のように抗菌作用があるのかな、それとも稲ワラに納豆菌がつくように、特定の菌だけが繁殖する土なのか、いや、それともススキやヒガンバナのような他感作用が……」
「ユーヤ様、ちなみにキビリジ・パズってのはフォゾス語で猫のうんこって意味っス」
「うん聞いてないよ」
はた、と先頭をゆくコゥナの足が止まる。
「ところでユーヤ、このままお前を最上層まで連れて行くのは難しいぞ」
「え?」
「この第一層に降りてくるまで、マフィアらしき連中を何度も見かけた。お前を逃したことも鳩などで上に伝達されていると見るべきだ。各層を結ぶ坂を見張られるだろう」
「強行突破できない?」
「難しいな、誰がマフィアなのか外見で分かるとは限らない。広い場所でお前を守りながら進むのは危険だ」
「いま最上層に会場が設営されてるっス。双王が樹霊王の儀を行うためのもので、ラジオ中継と、藍映精で映画の撮影もされてるっス」
「そうなのか……」
そのためか、街全体からざわざわと騒々しい気配がする。祭りを前に浮き足立つような、ぐっとエネルギーを溜め込むような気配だ。
「何しろ公式に行われるのは50年ぶり、本気でやるのは130年ぶりらしいっス。王位継承をかけた儀式ともなればブックメーカーもアツアツっス」
「……その儀式はいったい何なんだ? ゲームみたいなものなのか?」
「自分もユービレイス宮の人に聞いただけっスけど、パルパシアは昔から農業国で、特に果樹が神聖なものだったらしいっス」
「うん」
「なので、毎年の果樹の出来を見極めるのが王様の役目だったっス。ワインとか牛肉とか、神様に捧げる音楽の出来とかも見極めるっス。樹霊王の儀というのは、その役割をこなすことができると証立てるための儀式っス」
「……具体的には、どんなことを?」
そこでコゥナも割って入る。
「コゥナ様が聞いたのはこうだ。ワイン、牛肉、楽器、舞踏、果物の五つについて一級品と、そうでないものを出される。儀式を行うものは神託の巫女となり、二つのうちどちらが優れたものなのか見極めるのだ。五つすべて一級品を当てて、初めて王を継ぐ資格を得られる」
「……。それ、は」
一瞬、時間が止まるような気がした。
自己の感覚だけが無限に加速し、あらゆる音と色彩が遠ざかり、路地が無限に広くなるような感覚。
膝から力が抜ける。
小屋のように大きな岩がのしかかる。あらゆる過去の記憶が己の背にかぶさり、その身を地の底へ引き込もうとするかに思える。
「一流クイズ、か……」
「ほえ? ユーヤさまも知ってるクイズっスか?」
(なぜだ)
思い出すのは黒。
煙のように油のように、体にまとわりついて消えない闇色の記憶。
(なぜこの街で、彼女のことばかりを)
黒い眼、黒い髪、黒い夜空、黒いセーラー服、黒いブラウン管テレビ。
己の全てを否定されるような、身を刻まれるような苦痛にまみれた記憶。
「ユーヤよ、お前がそのクイズを知っているなら、双王に力を貸してやれるのではないか」
「ほええ、一流クイズっスか、裏技があるなんて思わなかったっス」
「……そう、存在する」
――特別な人なんか、いませんよ
――できのいい偽物は、誰もそれを、本物と見分けられない
――私は、あなたの見上げる本物を、否定してしまいたい
(やめてくれ)
――私は、あの女と同じことができる
――技術で、あの女の特別さを否定できるんですよ
――七沼さんの思う、特別な人間など
(なぜ、僕を追い詰める)
――この世界の
――どこにも、いなくなる……
(なぜクイズ王を否定するんだ)
(なぜ僕から奪おうとする。特別なクイズを。僕の憧れを……)
眼の奥の刺すような痛み、それは魂をナイフで引っかかれる痛みだ。
ユーヤは錆びついた目蓋を強引に押し開け、メイド姿の二人を見る。
「……存在するんだ。これは唯一無二の技術。一流クイズにおいても有効な、奇跡のような技術、が……」
「ユーヤ、どうした……様子がおかしいぞ」
「しかもその一流クイズ、双王が挑むならこれほど都合のいいことはない。双王ならば、おそらくはすぐにでも、あの技術、を……」
(立つんだ)
(休まずに立ち向かえ)
(この世界を守ると決めたじゃないか)
(あの鏡を使わせない、鏡を狙う意志から守らなければ……)
「連れて行ってくれ」
それだけを、血を吐くような意思を込めて言う。
「双王に、伝えなければ……」




