第二話
過日。
それは忘れ去られし時代の欠片、置き捨てて逃げた夏の残光。
その男。くたびれた無地のシャツの上から薄灰色のジャケットを羽織り、すり切れたジーンズ姿の男は腕時計を確認する。
時刻は早朝4:18
東京駅を出立した臨時列車は東海道・山陽本線を一路博多へと向かう。
七沼遊也と呼ばれた男はそこにいた。常に眼の下に隈ができ、痩せ細っていて動きに落ち着きがなく、いつも歩き回りながら、あるいは頭を掻きながら何かを考え続けるような男だった。何かに追われているのか、それとも追い立てているのか。
背後から声がかかる。
「七沼さん、新横浜で鉄道マニアがカメラ構えてましたよ」
「どうして?」
「珍しいんでしょう。こんな早朝に新幹線の臨時列車が出てるんですから」
いつもの始発より二時間も早く、臨時ダイヤを組んでの運行である。それはすべてクイズのため。この大規模なクイズ番組における予選イベントのための仕掛けだ。
七沼遊也は画板を持ち、紙にせわしなく何かを書き付けながら話に応じる。
「業務に支障が出るほどかな。かつて高校生を集めたクイズイベントで、博多駅が史上最大の大混雑になったことがあるんだ。JRがその経験から渋っていたのを、予選会を極秘にすることで説得したんだが」
「ネットを見る限り鉄道マニアにしかバレてないようです。博多駅では降りるだけですから大丈夫でしょう」
「わかった。それよりちゃんとデータを取ってくれ。他の車両にいるスタッフにも気を引き締めるように」
「もちろんですよ。でも左右の席に一人づつ座らせてるんでしょう? カンニングなんてできませんよ」
「それだけじゃない。チェックリストに書いてあるだろう。何枚目から解いているか、姿勢はどうか、利き腕はどちらか、それが重要なデータだ」
東京発、博多着までを制限時間とするこの予選会。用意されたのは七沼遊也が心血を注いで作り上げた300問の四択クイズである。
「はあ、選手ごとの得意分野のデータでしたっけ」
「そう、この四択クイズは予選であると同時に、番組作りのためのデータ収集でもあるんだ。歴史に強い選手とか、雑学に強い選手、それに合わせて本戦の問題を差し替えていく。テスト結果からも判断するけど、どの問題から取り掛かってるかも重要なヒントになる。有力選手には特に注意してくれ」
「利き腕ってのは何でしたっけ?」
「ボタンだよ。早押し問題のラウンドで、ボタンの設置場所とか、選手の並び順に関係する」
そのアドバイザーは常日頃、言っていた。クイズ王たちは必ずしもいつも全力を出せるわけではない。その環境作りこそが自分の仕事であると。
「大昔の話だけど、ある番組に名だたるクイズ王が集められて、早押しクイズが行われた。しかし誰も早押しの妙技を見せられず、答えられないことすらあった」
「なぜです?」
「問題を作ったのが大物司会者のO氏だったからだ。問われたのはさほどマニアックな知識ではなかったが、問題文がクイズの定石から外れていた。だから答えられなかったんだ。クイズはそれぐらい微妙なものなんだ」
「はあ、なるほど」
この大規模な一般参加型クイズ番組、国内のみとはいえ収録は一週間にも及ぶ。選手には何度かの面談を行うが、このようにクイズが進行している間もデータを集めねばならない。
ADの男としては少し病的と思わなくもないが、言われた通り客車に向かおうと。
そうした時。別のスタッフが入ってくる。
「七沼さん。三号車にいる参加者なんですが、ちょっと見てほしいんです」
「どうした、カンニングか?」
ぴり、と誰かが刀を抜いたような緊張が走る。不正に関するとき、このアドバイザーの気配は特に濃密になる。
「いえ、その、何と言いますか。女子高生のようなんですが」
そのADは眠りから覚めた人のように、己の曖昧な記憶を確認する時のように、一度天井を見てから話す。
「少し、妙な感じが……」
※
「ユーヤ様、お目覚めですか」
呼び掛けられてはっと目を覚ます。
ユーヤには半覚半睡であるとか、寝ぼけるという状態が少ない。いつも糸が切れたように眠り、ガラスの瓶を落とすように覚醒する。
「……もう朝かな」
「は、はい、あと数時間でパルパシアの首都、ティアフルとファニフルの都に到着いたします」
カヌディはそこはやはり国家資格もちの上級メイドと言うべきか、ぴしりとメイド服を着こなして、狭い車内でてきぱきと動いている。
「か、軽めの朝食にいたしましょう。パルパシア側からダゥデッツガルが差し入れられております」
「お、そういえばこの匂い、パンだな」
馬車とはいえ設備は充実している。後方の客車では簡単な料理もできるし、政務を行うための書斎などもある。双王が利用している気配はないが。
ユーヤも湯で顔を洗い、寝巻きからシャツへと着替える。カヌディによって襟元にナプキンが巻かれる頃にパルパシア側のメイドたちも来て、用意されるのは湯気を上げる三角の生地である。
こんがりとキツネ色に焼かれたパン生地、側面は層状になっている。食欲をそそる小麦の匂いだ。
「これは……見たところクロワッサンのように層状に焼き上げたパンか。何かつけて食べるのかな」
「こ、これは大地の麦と呼ばれますグラビノ麦で焼き上げたパンでございます。こちらをどうぞ」
取り出されるのは漆を塗られた木箱。開けるとひやりとした、というより反射的に身を引くような冷気が流れ出る。
「保冷庫があるのか」
「は、はい、氷晶精が住んでおります。マイナス25度まで冷やしています」
見れば、箱の中に妖精がいる。和服のような長裾の衣を着た純白の妖精。妖精に知性はないと聞いているが、その妖精は開けるや否や、ユーヤを冷たく睨み付けるかに見えた。
一つの箱には固体になった蜂蜜が。そしてもう一つには青野菜やトマトやパプリカに似た野菜が入っている。内部が乾燥しているのか、霜は降りていない。
「どういう料理なのかな?」
「は、はい、野菜などを極低温に冷やして密閉容器に詰め、大型のポンプで内部の空気を抜くと、低気圧下で食品内部の水分が昇華いたします。そ、それにより極限まで乾燥が進み、風味を保ったまま保存できるのですが、その技術を野菜料理に活かしたものです」
「フリーズドライ……そんな技術があるのか。この蜂蜜っぽいものは?」
「は、蜂蜜はラウ=カンの錦雲花蜜、甘さが抑えめで液体に近く、零下18度以下に冷やすとこのように凝結します。こ、これをこのような道具で……」
取り出すのはリリアン編みに使うような、三叉のアイスピックである。それで凍った蜂蜜をがしがしと砕いていく。パルパシア側のメイドは野菜を砕く。
そして小さめのスコップのような道具で適量をすくいとり、湯気を上げる生地の上に振り撒く。野菜は湯気に触れてしんなりと落ち着き、金色の砂のような蜂蜜がわずかに溶け、立ちのぼるのはふくよかな甘い香りである。
「おお……蜂蜜が溶けて液体になっていく。そうか、この蜂蜜は粘度が極端に低いんだったな」
たまらず、手づかみで口に運ぶ。唇に触れるきりりとした冷たさ、その奥にあるパンの熱気は下顎で感じられた。
ばり、と奥歯で噛み砕くのは野菜である。葉物野菜は常緑樹を連想する青み、みずみずしいトマトの酸味。厳密に言えばユーヤの知る野菜とは違うが、それは些細なことだった。
野菜を甘く煮ようとすれば、むせるような風味が立ち込めて鮮烈さから遠ざかるはずだが、この生地の上では野菜はどこまでも明確な輪郭を持っている。
今、黒土から引き抜いたような朝の熱気が。
眼の奥に大地が浮かぶ。素晴らしく実った黒土の畑、冷たさを残した春雨がさっと降り注ぎ、野菜のあらゆるえぐ味が洗い流される。それは土すらもごちそう。すべての味が互いを高めあい、口のなかで完成されていく。
ボウルに一杯の野菜を噛み砕いていくような満足感。水気と滋養が取り込まれていく感覚に脳が歓喜する。
「そうか、これはまさに温度差のマジック。このパンの熱気が味覚を活性化させ、冷たい蜂蜜によって野菜の印象が明瞭になって」
「ユーヤよ、そろそろ着くぞ」
「ちくしょう!!」
膝を打ち付け悔しがり、メイドたちもちょっと引く。
馬車の窓から覗き込むのは双王、しれっと扇子で口元を隠す。
「なんてタイミングだよ! まさか狙って差し入れたんじゃないだろうな!」
「失敬なことを言うでない。都市の門に大臣やら議員どもが出迎えに出ておるのじゃ」
「我らも挨拶ぐらいせねばならん。身支度を整えよ」
双王は目元がぱちりとして、薄く頬紅も引いている。まだ朝だというのに備えは万端である。
「……最初に言ったはずだけど、僕のことは」
「分かっておる。お主はただの客人、セレノウより招いた市井のクイズ戦士、じゃったな」
年に一度の祭典であり、権謀術数の渦巻く魔境と化していた妖精王祭儀。その中でどのような数奇な運命か、ユーヤはセレノウ第二王女、エイルマイルと結婚することとなる。
書類の上では確かにそうなったが、セレノウ本国が事態を受け入れられるかは別の話だ。そのためエイルマイルは先に本国に戻り、国内の整理をすることとなった。ユーヤにとっては降ってわいたような一ヶ月の猶予期間である。正式な婚姻が結ばれるまで、その事は秘すべきと合意がなされた。
もっともユーヤ自身、結婚とか王室に入るとかの話はまだまだ実感を伴っていないが。
「お主のことは厳に秘しておこうぞ。我らは口が固い、安心せよ」
「本当だな、信じるぞ」
「我ら双王は、嘘をついたことなど一度もないぞ」
「……」
ユーヤは素早く、パルパシア側のメイドへと振り向く。
案の定、目をそらされた。
※
都市の門にある休憩所にて、何人かの政治家や貴族と立ち話。王の招きであるため入国の手続きなどもなく、ユーヤの紹介はついでのように行われた。
それからしばし。
「ユーヤ様、これから何度か坂を登りますので、お気をつけください」
「分かった……」
ユーヤは窓に下ろされていたカーテンに指をかけ、そっと外を眺める。
そこに見えたのは、色彩感覚を揺さぶるような眺め。
大通りにどんとせり出す大看板。サイロのような円筒形の建物をべたべたと覆う広告。
民家には壁と言わず屋根と言わず広告が貼られている。中には妖精の働きなのか、動画が流れているものもある。
五階建て以上のアパルトメントがずらりと並ぶ、都市の谷間のような場所を馬車が進んでいる。すでに連結の馬具は外され、騎士に囲まれた双王の馬車と、ユーヤとメイドの乗る馬車だけが進んでいた。
大通りには他にも色とりどりの馬車や荷車が行き交う。中には二階建てや三階建てのものもあり、やはり広告で覆われている。
アパルトメントの上に石橋の渡されている場所もあり、そこも多くの人々が行き交っている。まだ早朝のはずだが、すでに地面が見えなくなるほどの人出である。
「えらく騒々しい街だな」
ユーヤの呟きを受け、カヌディが解説する。
「は、はい、双子都市ティアフル&ファニフルは大河ゴーフシーニーの両岸に作られた都市です。コーラムガルフ山系から切り出された石材は極めて頑健で、階層状に都市を建て増しすることができます。そのため世界一の人口密度を誇ります」
進むごとに建物の上にさらに建物が積み上がるような構造となる。そうするうちに馬車は緩やかなスロープを登って、一段上の階層へと出る。
「それだと日照権が問題にならないか? つまり、下層の市民は日が当たらなくなるとか」
「は、はい、光を放つ妖精を四種、都市全体で二万体放流しているそうです。これに使用される蜂蜜は毎日大樽5杯に達します」
「……都市一つのランニングコストとしては安いか。とはいえ豪気だなあ」
上層に来るとやや建物が上等になった印象がある。しかしやはり広告は多い。カヌディが何となく察して解説を続ける。
「こ、この双子都市では伝統的に広告に対する規制がありません。広告はいくつかの企業体やマフィアにより管理され、巨大な利権となっております。また貼り出される家は、基本的には断ることができません。個人より企業のほうが強いのです」
「そりゃ凄いな……いや、時代や場所が変われば、そういう世界も当然ある、か……」
家々の屋根を知恵の板のように埋める広告。煉瓦の塀を埋めては朽ち、朽ちてはまた貼られていく料理屋の案内。古びた学校らしき建物の壁を映画のポスターが埋め尽くす。
それは混沌とした光景ではあったけれど、生命が新陳代謝を繰り返すような、植物が繁茂していく様にも似た活力も感じられる。
パイプをくわえた老人が映画のポスターを眺めつつ散歩する、そんな光景は確かに絵になるものがあった。
「それで……僕たちはどこへ向かうのかな、このパルパシアにもセレノウの大使館があるの?」
「ご、ございますが、ハイアードにあるような大きなものではないのです。逗留にはホテルを活用いたしましょう」
進むごとに分かってくる。この都市は緩やかな階段状ではなく、でんと置かれたホールケーキのような形をしている。ごく一部だけがその外縁部からはみ出しているのだ。
馬車はいくつもの坂を、時には螺旋の坂をも登って、やがて最上層へ。
「ここは……」
その世界の眺めに、ユーヤは少し圧倒される。
それは空を背景とした、雪原のような白一色の世界だった。下層の建物の上に敷かれ、網目を描く白の石板。この最上層には建物が少なく、奥の方にはなだらかな曲線を描く谷が見える。差し渡しで80メーキはある谷。あれが大河ゴーフシーニーと、その向こうにある双子都市の片割れだろうか。
奥の方には尖塔を持つ城。城だけが雲の上にあるような姿は芸術的とも言えるのだろうが、ひどく非現実的な眺めだ。
見渡せば赤煉瓦の商館やホテルがいくつか散らばり、そこだけを囲むように樹も植えられている。このような非常識な立地でありながら、雲上人の誉れを持つかのように堂々たるたたずまいである。
「凄いな……まるで都市全体がドームで包まれてるみたいだ。王宮や高級ホテルだけがドームの上にあるみたいな……」
「あ、あちらに見えますサフォン・ホテルを逗留先に予定しております。セレノウから応援も来ているはずです」
「応援?」
カヌディはぐっと息を落ち着け、何かを確かめるように言う。
「はい、セレノウ本国から呼び寄せました、上級メイドが……」