第十九話
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何かに追い立てられるように眼を覚ます。
元来、ユーヤにはまどろみの時間は少ないが、あまりにも明晰なる目覚めだった、何かの気付け薬を使われたのかと考える。
見れば鉄枠で組まれた土台に、薄いマットだけという簡易寝台に寝かされている。両手両足に革のベルトが巻かれており、それは丈夫そうな組紐でどこかに固定されていた。おそらくベッドの脚だろうと推測する。
つまりバツの字に拘束されているのか、と認識する。
「お目覚めですか」
そう言うのは黒衣の美術商、シジラである。
ここはどこかの地下室ででもあるのか、石組みの壁で囲まれた埃っぽい空間。いくつか柱もあり、かなりの広さがある。
そこにあるのは山と積まれた木箱、そして、布でくるまれた四角い板状のもの。
「魔女の騙し絵か」
「その通りです」
シジラは一つの絵を取り上げ、布を取り払う。果たしてそこに現れたのは美しき青年の絵。
「ドナモデスの「若き銀行家の肖像」、製作されたことは記録に残っているものの、まだ発見されていなかった作品です。市場なら100億の値がついてもおかしくはない」
「偽物だろう」
「いいえ、世界の誰もこれを偽物と看破できない。であればこれを本物として何の障りがありましょう」
まだ短剣で一撃された後頭部が痛む。だがユーヤはそんなことはどうでもいいことと、痛みを意識の奥に追いやりつつ言う。
「裏社会に顔が利くようだが、その理由がこれか」
「そう……私は魔女の騙し絵を扱う闇のマーケットを仕切っております。それは深淵であり広大。遠くラウ=カンや、ヤオガミの商人すらも顧客なのです。ユーヤ様、私の姉、もはや名前を奪われて魔女とのみ呼ばれる私の姉は、聡明だったと思いませんか」
「……」
「平和が長すぎたのです。だから蓄えは増える一方であり、通貨流通量は増すばかり、ディンダミア全体が途方もない金あまり状態だったのですよ。美術品は投機の対象として魅力的すぎた。だから姉はパルパシア王家の力を使い、贋作を極めんとしたのです。姉は名もなき盗っ人の凶刃に斃れてしまいましたが、その成果は全て残っている」
「金儲けのために描いた……? それは君の想像だろう。現に、魔女の騙し絵のせいで市場がストップしていると聞いている」
「些細なことです。巨匠の「新発見」は世界に一つしかない。いずれは価値が認められましょう」
「……なぜ僕を残した、僕に人質の価値なんか無いぞ」
「少しお聞きしたいことが、それと、貴方はいかさま師だと聞いているので」
シジラは薄く笑う。
「樹霊王の儀でも何かをやらかさないとも限らない、留め置いておくのが無難でしょう」
「その樹霊王の儀というのは、一体……」
シジラはそれには答えなかった。地下室の隅へ行き、薄桃色の液体が入った水差しを取ってくる。
「ひとつ、お聞きしたいのですが」
その水差しを傾け、液体が表面張力によって注ぎ口に水滴を作る。その真下にはユーヤの口がある。
「……」
「妖精との契約の証、妖精の鏡、他の国に伝わってる鏡の効果を、ご存知ですか」
ユーヤは表情を示さない。
今、眼前で揺らめく液体が何なのかも気にしていないかのように、感情を眼の奥に潜めている。
「あの王子から聞いていないのか、あの王子が知っている以上のことは知らない」
「そこまで近しかったわけではありませんよ。いくらかの計画にご協力差し上げただけです。パルパシアでの鏡の奪取計画も、本来なら王子が指揮されるはずだった」
「そうか、だが僕が何か知ってるわけもないだろう、そもそも伝承自体が失われて」
瞬間、頸骨が折れるほどの勢いで首を曲げる。薄桃色の液体がシーツに落ち、耳をわずかに濡らす。
「可愛らしいことです、ですが正しい判断ですよ。これを飲めばもう情報は吐露したも同じことです」
(……酸や熱湯ではない、自白剤のたぐいだろうか? 一口で死ぬような毒では交渉にならない。麻薬か、あるいはひどい苦痛を与えるような薬の可能性も)
「……なぜ鏡の効果など知りたがる」
「あの劇場で述べましたでしょう? もはや大陸は時代の流れという傾斜を下りつつある。妖精の鏡はやがて戦略兵器としての意味を持つようになる。その情報は千金の宝です」
「馬鹿な、いくらなんでも君がパルパシアの玉座に座れるはずがない。大陸の情勢なんか君が気にすることでは」
がし、と頬を掴まれ、口腔を開かれんとする。
「この薬が何か分かりますか? マディラの暗黒街の生んだ秘薬。一言で言えば強壮剤ですよ。一口で殿方は燃えるような夜を駆け抜ける。その臓腑は煮えたぎり、脳は桃色の血で満たされ、餓えた狼のように一切の理性が無くなる。私の指が肌に触れるだけで、反り返って泡を吹き、どんな命令にも逆らえなくなる」
「悪趣味、な、薬だ」
ユーヤは抵抗を示すが、己の非力さ恨めしく、シジラの腕を払いきれない。
「体に害はありません。むしろ幸福なこととは思いませんか。どのように乱れても、私にどれほど情報と情念を吐き出しても、すべて薬のせいにできる」
口腔に水差しの口が突っ込まれる。
全身で暴れようとするも、だくだくと喉の奥に液体が送り込まれる。
顔を濡らし髪も濡らして、そして瓶が除かれると、シートを桃色に染めて激しく咳き込む。
「すぐに効果が現れます。劇的ですよ。これまでの価値観や人生観などまったく意味を成さなくなる。人格など所詮。肉体の奴隷に過ぎないのですから」
シジラが背中に腕を回し。するり、と糸を抜くような音がする。
それは彼女の黒衣、胸部と鼠径部の二ヶ所で色が濃くなっている部分から布を抜く音のようだった。それは下着かあるいは当て布のようなものであり、袖口からするりと抜け落ちると、シジラはレースの布一枚を羽織ったような姿となる。
それは濃霧の奥に見える人魚の影か、あるいは夢うつつの闇の中で見る魔女か、奔放な体の線が闇の中に浮かび上がり、内側から透ける肌は真珠のように艶やかさまで見える。
そしてユーヤは、ひとしきり咳き込んだ後に言う。
「ずいぶん、必死なんだ、な」
「……」
首に力を入れて頭を起こし、急ぎ呼吸を整えながら言う。
「分かっているのか、鏡を使うことの代償を」
「代償など些末なことです。私ほど真にこの国を案じている者はいません」
「王子の猿真似のような喋り方だな、君自身の言葉でないことが露呈している」
「……」
シジラは黙りはしたものの、その表情に余裕がある。いずれこの男は自分の奴隷となる、せいぜい今のうちに言うがいい、と顔にはっきりと現れている。
ユーヤは焦燥の中で思考する。
ユーヤはあの劇場からずっと考え続けている。このシジラという女性は何を目的としているのか、なぜ鏡を欲するのか、パルパシア鏡の効果は何なのか。それをシジラは知っているのか。
(何が目的なんだ)
(妖精の世界に10年間連れ去られる。それほどの空白を置いては、自身の立場がどうなっているか分からない。10年後に戻ってきたら兵士に囲まれてる、という可能性の方が高い)
(なぜ鏡を使う、リスクを払ってまで)
(――いや)
(鏡を使うことのリスク)
(もし、そのリスクが無いとしたら?)
鮮烈なる連想。
無数の尖塔を渡ってゆく雷光のように、あらゆる点が一つの線に繋がる。
(そうか、妖精の鏡には様々な効果がある)
フォゾスには都市を作るための平坦な土地。
様々な問題を抱える小国のセレノウには、異世界からの人材。
そして豊かで力あるハイアードでは、人を守護霊に変える力。すなわち為政者に更なる力を与えるのだと思い出す。
(あの鏡は、それぞれの国で必要とされる力を与えるように設計されているんだ)
では、パルパシアの鏡の力とは。
あらゆるものに満ち足りているパルパシア王家、この国で鏡を使うべき理由が、あるとするならば。
全身が熱を持つのを感じる。血の量が倍に増えたのかと思われる血圧と体温の上昇。思考がまとまらなくなるのを感じる。
(――ある)
一つだけ頭に浮かぶ。王家に必ず双子が生まれ、きわめて仲睦まじく生きるパルパシアにおいて、耐えがたいほどの不幸があるとすれば。
(それは、片割れの死)
(この世で唯一無二の双子、それだけは代えが効かない、まさに半身をもがれる苦痛のはず)
(ではまさか、パルパシアに伝わる妖精の鏡、その効果とは)
死者を、蘇らせる
(そうか、分かった)
視界が赤黒く染まるかに思える。脳の血行が異常に促進し、頭の中を虫が這うような感覚が。
(なぜ他の国の鏡の効果を知りたがるのか)
(それは、万が一でも、パルパシアの鏡の効果が望むものと違っていては困るから)
(ぐ……、体が熱い、時間、が……)
「無駄なことだ!」
桃色の唾液を吐きつつ叫ぶ。その乱れぶりにシジラは少し身を引くが、薬が効き始めていると見て妖艶に笑い、そっと眼を細める。
「何が無駄と?」
「魔女の騙し絵だと! いかにも未開な異世界らしいあだ名だ! どれもこれもここ十数年で描かれたものだろう! こんな贋作でいつまで世の中を欺けると思っている! いずれ見分け方は確立し、市場から排除されていくだけだ!」
ユーヤの視界の端、シジラが唇を噛む様子を捉える。
「いや、別に見分けられても君は困らないんだろうな、さんざん荒稼ぎした金をどこかに隠し、妖精の世界へ逃げ出すわけか。なるほど読めたぞ、後のゴタゴタを残された人間に押し付け、妖精の世界へ雲隠れすることが目的か!」
「違う!」
それまで一切の感情を見せまいとしていたシジラが声を荒げる。
素手でシャツを剥がされ、胸を打たれる。そこに電流が走るような感覚がある。
「魔女の騙し絵は完全無欠! 絶対に見破られるはずがない! いや、これこそが「本物」!」
「はっ、どうだかな。君は科学鑑定だとか、放射性炭素同位体による年代測定なんて知らないだろう。いや、それ以前にこの世に完全無欠などありえない。専門家が偽物を看破できないのは単に経験が足りないからだ。市場に山ほど魔女の騙し絵が出回れば、やがて偽物同士の癖が見抜かれる!」
己が正しい順番で言葉を話しているのか自信がない。だがシジラの歯噛みする気配に、挑発は成功していると推測して舌を走らせる。
「思えば君は何もしていないな! 姉の残した絵で商売をして、そろそろ潮時と思ったら妖精の世界へ逃げ込み、残された人間に後の始末を押し付けるわけか! さぞ嘆くだろうな! 君は金以外の何も愛してなかった! 残された人間すべてを裏切って逃げるわけだ!」
どん。
一瞬、薬のためにうだる頭も、揺らめく視界も忘れ、己の胸を見る。
ちぎれたシャツが足元の方に見え、胸の上に、冗談のように大きな注射器が。
思考が曖昧で、痛みはよく分からない。
「情報を聞き出せるかと思いましたが、やめです、眠っていてもらいましょう」
「ぐ……」
シジラは簡易寝台から腰を下ろし、一度その黒のマーメイドドレスを脱ぎ捨てる。
緩やかなラインを見せる背中に、胸当てを巻き付ける光景、ジグソーパズルのピースが欠けるように部分的に暗闇になっていく。
「魔女の騙し絵が見破られることはありませんよ、絶対に」
強力な薬を連続で投与され、意識が七色に混濁する。
あるいはそれこそが自白剤による意識低迷に近い状態だったのか。ユーヤは思うままに、泡を吹くように言葉をこぼした。
「見破れる、さ。偽物が、どれほど足掻い、ても、本物になど、なれな、い、の、だから……」
その言葉はさすがに言い過ぎだったとうっすらと思うが、もはや遅かった。
シジラは身に付けようとしていた服を脱ぎ捨て振り返り、水差しの瓶を振りかぶったところまでは理解できた。
そして再び、意識が闇に落ちる。