第十八話
過日。
それは裁断された記憶。濁った水に紛れた鱗のように、古びた日々の中ではらはらと舞う記憶。
「そうですね、手帳には専門家の電話番号がたくさんあります。これはクイズを作る人間には必須のもので、テレビ局の伝手で紹介される番号や、他のクイズ作家からもらった番号もあります」
窓の外に粉雪の舞い、コートを着込んだ男女がはるか眼下を行き交う。
ホテルのラウンジバー、ガラスに向かって設置されたテーブルに並び、七沼は己の仕事について語っていた。
「何だったかな、問題の作成と、検証と、選択?」
「そうです。問題作成には主に三つのステップがあって、問題の作成、その検証、そして選択ですね。人によって意見は違うと思いますが、僕は検証が一番大変だと思います」
眼の前の人物は大陸的な、大らかさをたたえた女性である。大物芸能人であり複数の肩書きを持つ才女。彼女がクイズ作家の仕事などに興味があったのかは分からない。話題が他になかっただけであろう。
「検証って、答えが合ってるかどうか?」
「もう少し複雑で……たとえば「水は英語でウォーターですが、ウォーターが頭につく地名で、ナポレオン率いるフランス帝国軍が、同盟軍に大敗したことで知られる土地はどこ?」みたいな問題があるとします」
「ん……どこかしら? ウォーター……ウォーターゲート、じゃなくて、ウォーターランドとかそんな名前? そんな土地あったかしら」
「正解はワーテルロー(Waterloo)」
「あ、ずるいなあ」
その女性は氷の入ったタンブラーをからんと鳴らし、八重歯を見せて笑う。
「この間の会議でスタッフから出たやつなんですが、後半部分だけ聞けばすぐ分かるのに、なまじ前フリがあるから難しい、という問題で面白いと思ったんです。でもこれも調べることがたくさんあって大変で」
「ナポレオンが同盟軍に負けた土地が、ワーテルローだけとは限らないものね」
「いえ、「水は英語でウォーターでいいのか」というところから調べます」
「……そこから?」
さすがにあきれた様子で肩をすくめ、七沼は苦笑しながらも話を続ける。
「ええ、ブリタニカにも当たったし……複数の英英辞典も見て、疑わしい場合は大学教授に電話をかけたりも……。この問題だけでも調べることが10近くあって大変でした。どうやら問題としては成立しそうだったんですが、結局スタッフ側からボツが出ました。視聴者に分かりにくいと」
「すごい世界ねえ、ホントに」
女性は大物芸能人らしくと言うべきか、ベタベタしていない居心地のいい空間、そんなものを作り出すのが上手かった。
「いえ、裏方の仕事なんてどうでもいいんです。クイズ番組は、解答者あってのものなんですから」
七沼は、それは眼の前の女性の一ファンとして、そしてスタッフと芸能人という関係にきっちりと一線を引いておきたいという意志も込めて、尊敬の眼差しを向ける。
もちろん、七沼とその女性は男女の関係というものからは程遠かった。ただの飲み仲間であり、誘われたことも数えるほどしかない。
だから七沼の言葉には、過分に自分勝手な響きがあった。
「僕が本当に凄いと思うのは、あなたみたいな人ですよ」
心から、少年のような憧憬を向けてそう言う。
しかしそれは、言われる側としてはやはり反応に困る言葉であり、七沼遊也という人間と、それ以外の人間とをはっきりと分かつ瞬間でもあった。
異端の精神性、不気味な狂信者。
誰がそうと指摘せずとも、自分自身に見えてしまう一瞬。人生で何度もこのような瞬間を迎えているのに、何度も吐露してしまう。隠しておくことができない。
「私はクイズ王なんかじゃないよ」
そうとだけ答えはしたものの、その眼の端には困惑も見えた。珍しくも七沼を好ましく思っている女性ではあったが、ベテランであるがゆえに、自分を、自分の思うものと違う形に定義されることは拒みたかったのだろう。
「あれだってクイズですよ。クイズの形は無限であり、あるクイズに極めて優れた人物は、やはりクイズ王と呼ばれるべきではないか、そうも思うんです」
「……私は不思議なのよね。なぜ他の人は分からないのか。ちゃんと五感を働かせれば、分かることだと思うのに。だから私なんて特別な人間じゃないのよ、きっと誰にだってできることだよ」
「そんなことはありません。僕は、クイズの世界がやがて変わっていく、まったく僕の知らない、異なった世界になっていくことも予想してますが、そんな世界でも、敬うべき偉大なるクイズ王たちがいるのなら……」
「七沼さん」
はっと、声に驚いて上半身ごと振り向く。
そこにいたのは黒のお下げ髪を背中に垂らし、じっと彼を見据える少女。さすがにセーラー服は着ていなかったが、簡素な黒のパーカーに七沼のジーンズを履いただけという姿でそこにいた。
「棚黒くん……」
「探しましたよ。スタッフの人にこのホテルだって聞いたけど、どのお店か分からなくて」
棚黒葛は七沼の右隣に座り、七沼は挟まれる格好となる。
「どうしたんだ。今日は予備校に行ってるはずじゃないのか」
「気が乗らなくて、さぼっちゃいました」
背後の女性に気付き、棚黒を紹介する。
「ええと、彼女は棚黒といいまして。今はその、受験勉強のために上京してて、部屋を貸してて……」
「ああ、彼女がそうなのね。四択クイズのクイズ王とかいう」
「こんばんは、いつもテレビで拝見してます」
棚黒はなぜかいつもより明るめにはきはきと話し、七沼の背中越しに握手をする。その様子に奇妙な居心地の悪さを感じたが、それは長くは続かなかった。
「さてと、それじゃ今日はもう帰ろうかな、また飲もうね」
「あ、ええ、はい」
女性は薄く笑い、悠然とその場を去っていく。明らかに面倒ごとから逃げられた格好だった。皮肉げな笑みを残してくれたことはむしろ救いだろうか。
七沼は眼を吊り上げて振り向く。
「なぜここへ来たんだ」
「だって家は退屈なんですもん、クイズ番組は録画してるし」
「ホテルのラウンジバーなんて、高……未成年が来るとこじゃないよ」
彼女が高校を中退したことを思いだし、言い直す。その律儀な様子に棚黒は苦笑する。
「また思い付いたんです。ジェスチャークイズってあるでしょう。どうやれば相手のジェスチャーを読み取れるか、あれは表情が重要じゃないかなあと」
「待つんだ」
その手首を掴み、声の調子を下げて言う。
「質問に答えていない。なぜここへ来た。予備校に行かなかった理由は」
「……私、大検受けるのやめようと思って。しばらくアルバイトに専念しますよ」
七沼は一瞬前の感情を忘れ、動揺のような困惑のような眼で言う。
「どうして……一流大は無理でも、そこそこの大学に入れるだけの学力はあるじゃないか」
「これ以上、七沼さんのお世話になれませんし」
「そんなこと気にしなくていいんだ」
周囲の客の動きが数瞬止まり、二人にちらりと視線を送ってからまた動き出す。
「私、もっと自由に生きたいんです。海外にも行きたいし、浴びるほど映画も見たいし」
「そんなこと社会人になってからでもできる、大学に行くべきだ」
「七沼さん」
ぱたり、と棚黒は上半身をカウンターに寝そべらせ、ガラスに頭頂部をつける。夜景の瞬きが星のようだった。
「私に興味がありますか?」
「……? 何だよ、急に……」
「七沼さんは優しいから、ほとんど関係のない私を家に住まわせて、予備校にまで通わせてくれるんですね。でも最近は、クイズの検討にもあまり付き合ってくれない。不正を見つける手伝いはさせてくれるけど、私が思い付いた技術は聞きたくもないみたい」
当たり前だろう。
その言葉が一瞬浮かび、慌てて打ち消す。
「そんなことはない。ただ、まだ使われてもいない技術ばかりことさら見つけなくてもいいだろう」
「七沼さん、私はTに近づけると思いますか?」
T
その名前は呪いのようだと感じる。誰もが認める発想力の天才。あらゆる物事に精通した趣味人の極み。七沼の言葉で言うなら、彼もまた伝説となるべきクイズ王。
「もちろんだよ、脳は使い続けていれば進化するらしい。君はTに近づきたいんだろう? きっといつかは」
「嘘ですね」
タンブラーの中の氷がからんと鳴って、七沼は足先に冷気を感じる。
今、ラウンジの気温が数度、下がったような錯覚が。
「私はTにはなれない。人生に対する姿勢が違いすぎる。浅ましく技術を磨いても、誰もTのような偉大な王とは認めてくれない。そして何より、天然自然のものとの違いは、私自身が一番よく分かっている」
「どうしたんだ、何か様子がおかしいぞ……」
「私の力に興味は示してくれたけど、それは七沼さんの理想とは違う。あまりにも違いすぎる。だけどあきれるぐらい優しすぎて、そのことを自分でも意識しようとしない。もっと言うなら技術だけならあなたにも真似ができる。だからそのうち、あなたの中に私でなければいけないことなど存在しなくなる。しょせん、あなたは技術なんか認めていない。あなたが求めるクイズ王とは結果を残す事ではなく、人間そのものだから」
「もうやめるんだ、一緒に帰ろう、テレビでも見て……」
「七沼さん、分かってますか」
棚黒はすうと上半身を起こし、そのまま伸びをするように背筋を伸ばすと、ふいに七沼の肩を抱く。
下品とも取れるしぐさに周りの客は鼻白むけれども、まじまじと見るほどではなかった。
「始まりはTでした。Tはまさに本物でした。でもあんな人はそうそう生まれない。それに何より扱いにくい。もし、Tと同じことができる人を作れるなら」
「何……」
「驚くことじゃないでしょう。当たり前のことですよ。美術も、音楽も、扱いにくい天才よりは、そこそこの実力を持つ秀才でいい。技術を仕込めば天才のように振る舞えるし、どのぐらいのお金を稼ぐかはプロモーションで決まる。そして世の中の人は、本物と一流の差など分からないんです」
「……」
「そう……世の中は、常に天才をも制御しておきたい。もっと言うなら天才など現れない方がいい。いえ、それも違う、世の中は、人というのは……」
その棚黒の眼。
その眼の意味が、七沼には分からなかった。
なぜ彼女は感情を抑えていないのか、ありのままを七沼に見せようとするのか。
なぜそんなにも悲しく、泣き出しそうな。
それでいて、憎しみにたぎるような眼をしているのか……。
「天才が、憎くてたまらないんです……」