第十五話
翌日。
ユーヤたちは小舟に揺られていた。舳先に立つ男が舵を操り、同じような小舟が、あるいは弓なりに反ったゴンドラがいくつも並走している。
見上げればケーキを斬ったような、水晶を割ったようなきらびやかな輝き。大河ゴーフシーニーに沿って街が割れているような眺めである。
川幅は広く、川面には無数の光が見える。オレンジに赤、紫にピンク、ジグザグに動くものや旋回を続けるもの、あらゆる種類の光の妖精が乱舞している。
そして街を彩るのは、さまざまに着飾った男と女。
「すごいな……これがパルパシアの歓楽街か」
それは水路というよりは河そのものであった。ゆったりと蛇行しながら流れていき、左右には極彩色に塗られた店が並ぶ。桟橋や、船を停めるための繋船柱にはうすものを着た女たちが座り、悩ましげな流し目、あるいは挑発的に見下ろす視線を投げている。
「……出張で福岡に行ったとき、こんな景色を見たことがあるが、桁が違うな……」
「うきゃー! お姉さんばっかりっスー! あ、ユーヤさまあそこあそこ、スケスケのやつっス! あれがスケスケっス!」
船べりで跳び跳ねるカル・フォウは子供じみた興奮だったが、カヌディの方は身を小さくして赤くなり、あまり岸を見ないようにしている。
「この先に目的地があるの?」
「は、はい、ユーヤさまの仰られたバルボア・ファミリーとはナディラの歓楽街の奥に縄張りを敷き、宝石や美術品を専門とするファミリーです。かなりの大所帯と聞いています」
双王が言うには、この水上歓楽街はまだまだ「初心者向け」らしい。本当の粋人が集まる街はさらに奥まった場所にあるという。
左右から音楽が流れてくる。竹馬をはいたピエロが踊り、火のついた松明でジャグリングを披露する男もいる。
「……これ、お祭りって訳じゃないんだろ? しかもこの眺めがずっと続くの?」
「は、はい、この水上歓楽街は、河に沿って存在する店だけで1500軒あまり、全長7ダムミーキという巨大なものです。いわゆる娼館はさほど多くなく、料理店や劇場が多数存在します。店舗を兼ねている船も三百艘以上が錨泊しています」
「すさまじい……」
確かに、ここはまだ淫猥な空気ではない。並んでる店はいわゆるキャバレーとかクラブに近いのだろう。礼服の男たちが手を振ってるのはホストクラブだろうか。
「ま、毎日の来客はおよそ20万人。名実ともに大陸最大の歓楽街です」
「確かに……」
やがて、船が一つの桟橋にたどり着く。
同時に複数の船が離れた場所に停まり、こざっぱりとした夜会服の男たちが降りてくる。彼らはパルパシア側が派遣した護衛であり、観光客の装いをした騎士たちである。
「こ、こっちですね」
カヌディが小冊子のような地図を見つつ、石畳の街並みを進む。
やはり一つ一つの建物が天井まで届いており、道幅はそれなりにあるのに、ビルの谷間に迷い込んだような感覚があった。
「接触してきたのがバルボア・ファミリーの連中なら身の危険はなかろう。表の顔のほうが遥かに大きい連中じゃ」
「我らの客人に手を出して、本気で事を構えることまではせんじゃろ」
とは双王の言葉である。とはいえ出会い頭に吹き矢を射かけられた以上、どこまで信じてよいものやら。
左右には桃色の店構えが増えてくる。シュミーズのようなものを着た娘たちが木箱に座り、長パイプをくゆらせながらユーヤを見つめる。
だがメイド二人を引き連れてるためか、声をかけては来ない。
「……予想してたよりは荒れてないな。道もきれいな石畳だし、客層も正装の男が多いし」
観光客が路地裏に引き込まれて身ぐるみ剥がされる、などということが常態化していれば、街はすぐに寂れてしまうだろう。
よほど妙なところに踏み込まない限りは危険はない、ユーヤの知る夜の街とも通じることだろうか。
ユーヤは特に指摘はしなかったが、なぜかメイドも、パルパシア側の警護人もそこまで緊張していないように思える。
事の性質上、人に任すことのできない仕事とはいえ、ユーヤが裏社会の人間と会うことをそこまで強く止められなかった。
それはやはり、戦争からも縁遠い、この世界の平和さのためだろうか。それともパルパシア側の遣わした護衛に信頼が置かれているのか。
時間も定かならぬ常闇の街とは言っても、ユーヤの知るような紛争国のスラム街とは違うのだろうか。感覚が異常なのは自分の方なのだろうか、と少し気後れしてしまう。
やがて至る。そこは白い石で建造された白亜の屋敷である。こまごまとした第一層にあって、たっぷりと庭を取った贅沢な構えだ。
そして、ユーヤは屋敷の中央にいた。
円形のテーブルの向こうには、黒の山高帽に黒のスーツ。葉巻をふかす小太りの老人がいる。彼がバルボア・ファミリーの元締めだという。
ケースを開けて示すのは、真珠色に輝く六角形の板。メイドたちの中で手先の器用なものが作った模造品である。
「それがパルパシア最大の宝だと言うのか」
「そうだ、本来なら到底値段はつけられない」
ユーヤは男たちの様子を伺う。周囲で立っている男も、目の前の老人も、どう反応していいか分からないという様子だ。
ユーヤから見ればこれは露骨に偽物である。一応、細工物だと一目では分からない程度の完成度はあるが、本物の複雑玄妙な輝きにはほど遠い。
男たちは本物を見たことがないというより、本物とはどのような物かを知らされていないようだ、と察する。
「小切手で払ってくれる、とのことだが」
「……少し待て、使いを出す」
背後に構えていた男が銀色の妖精を取り出す。銀写精の目が数度またたくと、男はそれを持って消えた。
「音に聞いたバルボア・ファミリーが扱う品だ、しっかり確認してもらってくれ」
「……無論だ」
「長くなるようならどこかの店で待ちたいものだ、男ばかりで息がつまる」
「ほんの十五分ほどだ、黙って待て」
では、この階層に住んでいるのか、待機しているのか。何の役に立つかは分からぬが、細かな情報を記憶しておく。
周りを囲む男たちには、先日、第六層で見た顔もいる。素知らぬ風を装っているが、内心までは窺えない。
ユーヤは気安い調子で口を開く。
「それにしても、50億ディスケットとはうまい買い物をしたな」
「……」
「世界に二つとない品を持てるんだ、タダみたいに安いな。だが飾るには少し小さいな、それとも転がしてまた儲けたいのか」
「黙っていろ」
老人は会話を控えたいようだが、ユーヤはその顔から色々なことを読み取る。
(この老人は、鏡に興味を持つまいとしている)
まず知識を持っていない。この鏡は、けして世界で唯一の品ではない。
セレノウにおいてはその由来こそ伝わっていなかったが、一般公開もされる美術品として扱われているのだ。
男たちはそれを知らない。美術品を扱うとは言っても、遠いセレノウの珍品までは知らなかったのか。
そして鏡に特別な用途があることも知らない。
(それは妙だ)
(そんな由来も価値も不明なものに、50億も出すことを疑問に思わないのか)
(この老人が仲介役に過ぎないとしても不自然。それだけの話なら一枚噛もうとするはず、それなのに僕から何も聞き出す気配がない)
こういう態度は知っている。関わり合いになりたくない、という態度だ。マフィアの顔役であるはずの老人に、中間管理職の悲哀が宿っている。
(つまり、裏にいる人間はこの老人が小間使いに見えるほどの大物)
(この老人は取り引きに関わることが許されてない。もし不埒なことを企めば、その身が危うくなるほどの大物がいる、というのか)
そんな存在がありうるのか。
ありうるとすれば誰か。
黒スーツの男が戻ってくる。そして老人に耳打ちを。
「……取り引きは成立だ。この男に案内させるから、シャンリュゼの劇場まで行ってくれ」
「劇場?」
「このナディラの地で盗み聞きされたくないなら、劇場が一番いいんだ」
それはさらに少し奥まった場所、ジグザグに伸びる路地をずっと進んだ先にあった。
そこだけ、空が開けるような感覚。
さほど大きくはないが、彫刻で飾られた円形の劇場である。天井、つまり第二層との境目までが大きく開いており、周囲に高い建物もないため、その一画だけはナディラの街の煩雑さがない。
このシャンリュゼの劇場は公営であり、周囲の建物も美術館や図書館だという。歓楽街とはいえやはりそこはパルパシアの首都であるのか、行政によって整備された区画もあるのだろうか。
案内してくれた男は指で建物を示すと、踵を返して帰ろうとする。
「見張っておかないのか?」
「俺達の仕事は終わりだ」
「昨日はひどい目に逢わせてすまなかったな」
「ちっ」
舌打ちだけを残して戻っていく。
「……さて、鬼が出るか蛇が出るか」
「大丈夫っス、我々がついてるっス」
「……」
ユーヤは視線を伸ばす。
護衛の男たちはまだついてきている。さりげなく建物の壁に背中をつけたり、路地の入り口に陣取る男たちがざっと10人。
(……どういうことだ)
(なぜ、護衛がまだ残っている)
周囲から独立した立地の劇場で、パルパシア側の人員に建物を囲まれる。
これでは袋のネズミも同然である。
本当に鏡を手にしたいなら、ユーヤだけを護衛から引き離すべきだった。ユーヤとしてはそれを最優先に警戒していたのだ。
裏にいるという人間は、鏡を求めることの意味が分かっているのだろうか。
それとも、王族の身柄を引き換えに神秘を示す、その最も肝心な部分だけを知らないのだろうか。そんな不完全な情報で50億も出すはずがない、そのあたりで思考がループしてしまう。
「……二人とも、気を付けていてくれ、もし僕の身に危険が及んでも、まず自分の身を第一に考えること」
「で、ですが、我々は……」
「ユーヤさまの護衛が役割っス!」
「約束してくれ、できなければ君たちはここに残ってもらう」
二人のメイドは顔を見合わせて困惑の色を見せるが、やがて不承不承うなずく。
口約束に過ぎないが、ユーヤとしてはそれで妥協するしかなかった。
受付けもおらず、中に従業員もいない、しかしほの白い光を放つ妖精がまばらに飛ぶ回廊を進む。
そして内部へ、客席は平面的に並んでおり、中央には円形の舞台が見えた。この劇場は中央の円舞台を囲むように客席があるようだ。
最前列に、シルエットが見える。
「……二人はここで待ってて」
「か、かしこまりました」
「はいっス!」
通路を進み、左右に細かく視線を走らせながら前へ。
「……君だったのか」
隣に座り、革のケースを膝の上に。
その人物は女性であり、黒い服の上から漆黒のヴェールという出で立ち。
口元の布をそっと外して、ユーヤに微笑みかける。
「千の千乗の彼方より、この妖精の世界にお出でくださったこと……」
それは黒衣の美術商。
かつてのパルパシア第二王位継承権者、シジラであった。
「感謝の念に堪えません。異世界からのお客人、セレノウのユーヤさま……」