#09 軽音部 vs 重音部
「はぁー…………」
長い溜め息のあと、
「レンくん、大丈夫?」
という、隣からの気遣わしそうな声。
夕方六時過ぎ、綺音と学校前の歩道を並んで歩いていた。
軽音部の先輩から「明日までに歌詞を覚えてくる」という難題を突きつけられ、少々気後れしている。
「よかったら、あたしも手伝おうか? 今日は予定、空いてるし」
「大丈夫、覚えるのは得意だから……」
その返事は、我ながら頼りない。綺音の善意に甘えてもいいけど、彼女にも彼女の練習があるだろうし、ここは自分で何とかするしかない。
「そうそう。先輩は言ってなかったけど、発声練習もしといた方がいいと思うな。ただ歌詞とメロディーを暗記するだけじゃ、ちゃんとしたリズム感が掴めないからね」
「はぁ……」
また大きく嘆息。確かに綺音の言う通りではあるけど、今日中に全部できるとは思えない。
綺音は次に、こんなことを言う。
「あの曲、サビになるに連れてBPMが上がっていくから、特に発声が肝心なんだよ」
BPM……というのは、曲のテンポのことだ。夢乃もよくその言葉を使っていたが、しかし一度聴いただけでそんなことまでわかるものなのだろうか。
「君は、前からあの曲、知ってるの?」
「ううん、今日初めて聴いたよ」
「いや、じゃあ発声が大切とか、どうしてわかるの?」
「うーん……」
綺音は考え込むようにして、空を仰いだ。
しばらくの沈黙のあとに、綺音は再びこちらに顔を向ける。
「色んな曲を聴いてきたせいかな。君もそのうち、わかるようになるよ」
彼女は言うが、やはりプロの耳を持っているからだと思う。多分、いくら聴き込もうと、僕にはできないだろう。
段々と校舎が遠ざかり、車通りの多い交差点に差しかかった。その一角で信号待ちをしている男子生徒が二人、目についた。肩からギターバッグを下げ、制服を見ると、どうやらうちの生徒のようだった。
もしかして、重音部……?
漠然と、そんな予感が脳裏を過ぎった時。そのうちの一人が、僕と綺音が近づいてくる気配を感じ取ったのか、不意に振り返った。
「あれ? 暁じゃん、何してんの」
打山くんだった。彼の声に反応し、隣の男子も僕らの方を振り向いた。
同じく重音部の――猪爪くん。昨日のライブで会ったから覚えている。どうやら、二人ともこれから帰るところらしい。
「や、やあ、奇遇だね」
僕は意外な遭遇に若干困惑しつつ、ありきたりな返事をした。まさか、ここで彼らに出食わすとは思わなかった。因みに、今は綺音もアコースティックギターを背負ってるから、この中で楽器を持っていないのは僕だけだ。
「お前らも、今から帰るのか?」
と、打山くん。
「うん……」
答えながら、何気なく猪爪くんの方に視線をやる。
改めて見てみると、打山くんより十センチ以上高いように見える。よく日に焼けているし、長髪という特徴を除けば、元運動部なのだろうかと思うくらいだ。しかし、ムスッと無愛想な顔でこちらを見つめ返してくるのが、妙に気になる。なんか、ベギー先輩が思い出されて取っ付きにくいオーラがある。
一方、打山くんは僕と綺音を交互に見て、言った。
「なんだ、お前ら今日もご一緒か。仲いいな」
いやらしい目で見てくるものだから、つい言い返したくなる。
「ちょっと待って、ごか……」
「彼とは同じ部活だから、駅まで一緒に帰ってるだけだよ」
綺音の淡々とした口調によって遮られる。その声には、説得力があるように思われた。隣に視線を向けてみると、彼女は全く動揺していないみたいだ。動揺していたのは僕だけだったとは。ますます恥ずかしい……。
「へえ。じゃあ結局、暁は軽音部に入ったんだな。歌うの、嫌なんじゃなかったっけ」
打山くんに悪気はなかったのだろうけど、僕としては答えにくい内容だ。あれほど重音部への入部を嫌がっていたのだから、怪訝に思われても仕方ない。少し複雑な心境だ。
どのように説明すればいいのだろう……。
糾弾を覚悟の上で言い訳を考えてみるも、何も思い浮かばず逆に狼狽してしまう。しかし、打山くんもそこまで興味がないらしく、あっさりと話題を変えた。
「まあ、いいや。それで、軽音部は活動できることになったのか?」
「あ……うん、フェスを目指そうって話になって。……彼女が、出たがってるんだ」
僕はちらりと、綺音の方に視線を送る。
「もしかしてそれ、来月に開催されるDMFか?」
「DMF?」
打山くんの言葉の意味がイマイチ理解できず、僕は反問すると、彼は説明した。
「ディヴァイン・メロディアス・フェスティバルの略だよ。軽音部って、それに毎年出てるんだったよな? 重音部も今年、初めて出ることになったんだ。まあ、まだどのバンドが出るかは未定なんだけどな。俺たちのバンドも一応、出演を目指す方向で検討してる」
打山くんは、猪爪くんの肩に手を置いた。
それにしても、猪爪くんの目つきがさっきにも増して悪くなってるような……。まるで睥睨するみたいに、僕と綺音を交互に睨んでくる。ベギー先輩に睨まれた時とは少し違う、ライオンに睨まれた子鹿のような、そんな気持ちだ。
……しかし。こういう固定概念というのはよくないのだろうか? こういう人って、話せば実は意外と話しやすかったりするかもしれない。
勇気を出して、まずはこちらから話しかけてみよう。
「や、やあ。猪爪くん……だっけ。僕のこと、覚えてる?」
とりあえず、自然な感じで切り出す。そこで、彼からの返答を待つ。
「馴れ馴れしくすんな」
今まで寡黙だった彼がようやく口を開いてくれたと思ったら、第一声がこれである。なんというか、開口一番に言う言葉じゃないような気がする。固定概念云々の前に、見たままの性格じゃないか。
それどころか、猪爪くんは僕を無視し、視線を綺音に移す。
「お前ら、フェスに出るとか言ってたよな? 本気なのか?」
「どういう意味?」
綺音が訊き返した。彼女は、彼のことを全く恐れていないようである。
「ふん。軽音部はなくていいって意味だよ。最近、ろくに活動してないらしいじゃねーか。というか、まだあったんだな、軽音部。てっきり、重音部に王座を奪われてそのまま廃部になったかと思ってたわ」
「は?」
さすがの綺音もカチンときたらしく、眉間に皺を寄せる。一瞬にして、その場の空気は険悪になった。
睨み合う二人の間で、僕は唖然としていた。もしかしたら、口も開いていたかもしれない。
どうして、彼はあんなことを言ったんだろう。軽音部の何が気に食わないんだろう。
さらに猪爪くんは、
「昨日、ネットでウチの軽音部の映像見つけたんだけどさ、あれはロックじゃねえ。バンドっていうのは、ロックに限られてんだ」
「ロック以外にも、バンドっていっぱいあるけど?」
綺音も食い下がる。その口調は、先程よりも鋭敏になっている。
もしもこれが漫画の世界だったら、今、二人は互いに火花を散らしているだろう。これは、止めるしかないのか? いや、でも、そんな勇気あるはずない。またさっきみたいに睨まれてしまったら、今度こそ足が竦んでしまう。
打山くん、助けて……。そう、心の中で念じる。
すると、その願いが通じたのか、
「まあまあ、もういいじゃねーか。そいつらはそいつらの事情でやってるんだし」
打山くんは陽気に笑いながら、猪爪くんの肩を掴んだ。猪爪くんはまだ不服そうにこちらを睨んでいたが、それ以上は何も言ってこなかった。
「おい、早くしないと赤になるぞ!」
と言いながら、打山くんは信号機を指さし、反対の手で猪爪くんの袖を引っ張って促す。今の言い合いの最中に信号が変わっていたらしく、もう青信号が点滅し始めている。
だが、綺音は俯いたまま立ち止まっているので、僕も動かずに残っていた。その間に、重音部の二人は走って横断歩道を渡っていってしまった。
やがて、これ以上は待てないよ、というように信号が赤に変わる。
綺音は下を向いたまま、何も喋らない。やはり、先程のことが気になっているのだろう。段々と気まずくなり、僕はそれを取り払うために、意を決して彼女に声をかける。
「大丈夫……?」
依然として、無言。話しかけても何のいらえもないなら、もはやお手上げなんだけど……。
しばらく黙っていた綺音だったが、ややあって、ようやく顔を上げた。
「大丈夫。もう落ち着いたから」
こちらに向けられたのは、笑顔だった。夕日に照らされたそれは、神々しくも見えた。その優しい微笑に、僕は安堵を覚える。
「あ、じゃあ、行こうか」
誤魔化しつつ、前を向いて、足を進める。その直後、運よく信号が青になった。そうして、僕たちも車道を横切り、再び駅を目指して歩いた。
それにしても、猪爪くんが何故喧嘩を売ってきたのか、よくわからない。そんなに軽音部のことが気に入らないのか? まあ、一つわかったことがあるなら、もう二度と彼とは顔を合わせたくないということだ。
あの発言は、さすがに僕でも多少頭にきた。