#07 綺音の願い
放課後。入部届を手に、綺音とともに再度、軽音部の部室に足を運ぶ。入部届は綺音が予め昼休みのうちに渡してくれたので、僕はすぐに自分の氏名を記入し、終礼の挨拶が終わるのと同時に二人で教室を出た。
部室に着くと、また綺音が後方の扉を開けた。
「失礼します!」
「あ、ユキちゃん。いらっしゃ〜い」
ジュリエット先輩が僕らを出迎えてくれた。
綺音は不思議そうに室内をぐるりと見渡しながら、目の前の先輩に尋ねた。
「あれ、ベギー先輩は?」
「ベギーなら今、委員会に行ってるよ? もうすぐ戻ってくると思うけど」
その返答を聞くなり、綺音は僕の方を振り返った。
「入部届、持ってるよね?」
綺音に言われて、僕はズボンのポケットから二つ折りにした紙片を出す。それを見たジュリエット先輩が、やはりというか、予想通りの反応を僕に示してきた。
「あ、それ! 暁くん、入ってくれるの!?」
彼女が嬉しそうに手を差し出してくるので、折り畳んだままの入部届を手渡した。
「それで、今から何する? ゲームでもする?」
受け取ったジュリエット先輩は、そう言いながら僕に詰め寄る。彼女の笑顔がまた炸裂する。というか、なんで事あるごとにゲームに誘おうとするんだろう、この人。
「先輩。あたし、フェスに出たいんです!」
大声で、綺音が言った。こっちもひどく突然だ。会話の流れを完全に無視している。
ジュリエット先輩はそれを聞いて、綺音の方を振り向く。驚きと戸惑いが混淆したような瞳は、部屋の蛍光灯と窓の外から射し込む西日を美しく映している。
綺音は一歩進み出て、ポカンとしている先輩に向かって言葉を続けた。
「先輩たちが活動に対して、消極的なのはわかっています。でも、勿体ないと思うんです」
僕もジュリエット先輩を見た。しかし先輩は、きょとんと小首を傾げているだけだった。
そこに追い打ちをかけるべく、さらに綺音は畳みかける。
「先輩は、楽しい学校生活を棒に振ってもいいって思ってるんですか?」
「う〜ん。私は別に、活動したくないわけじゃないんだけどね、ベギーは何て言うかな〜って思ってさ。表面上はあの子が部長だし、私じゃ決められないんだよ〜。ごめんね?」
先輩は申し訳なさそうに笑うが、綺音は納得がいかないのか、憮然とした表情になる。
一方、ジュリエット先輩は特に気にする素振りを見せず、この話はもう済んだと判断したのか、ゲームをしにテレビの前に行ってしまった。
僕は、綺音に何と声をかけていいかわからず、立ち竦んだまま彼女をただ後ろから見ているだけだった。
綺音は、まだ諦めていないのだろうか。いや、簡単に望みを捨てたりしないだろう。だとしたら、やっぱり先輩たちを説得して承諾してもらうしかない。入部して即刻難題を突きつけられた感じだけど、その一つひとつを乗り越えないことには、何も始まらないだろう。
これからどうするか、二人で相談しよう。
……なんて考えていたら、突然、綺音が振り返ってこう言った。
「レンくん、私たちだけで練習しよ」
「えっ……?」
思いがけない台詞に、今度は僕が憮然たる顔をしてしまったかもしれない。もう諦めたの?
綺音は肩に下げていた鞄を下ろし、廊下側の壁に立てかけてあった自分のギターのところに行くと、黒いギターバッグのファスナーを引き下ろした。現れたのは、木目がしっかりと模様のような役割を果たしている、アコースティックギター。
綺音はその場に座り込み、それを抱え込むような格好でギターを膝の上に乗せると、最も高い位置にある一番太い弦を右の親指で弾いた。
ポーン、という低音が、室内に響き渡る。さらに、他の弦も順番に鳴らしていく。その音を聞きながら、彼女はヘッド部分のペグを回す。いわゆる、チューニングと呼ばれる行為だ。妹がやっているのを近くから何度も見ていたから、僕にもわかった。
綺音のギターの扱いはなかなかのものだった。弦の上で指を滑らせ、何の躊躇もなく、次々に音を合わせていく。
やがて、チューニングが完了したのか、綺音は立ち上がった。そして、僕の方に視線を移すと、次にこんなことを尋ねてきた。
「レンくん、好きな曲ある? 今から弾いてあげるから、何でもリクエストしていいよ」
いきなり話を振られたものだから、すぐには思考が追いつかなかった。綺音は期待したような明るい視線を送ってくるが、好きな曲といっても色々あるし、中には彼女が知らないような曲も含まれると思う。
そういえば昨日、千條ユキが好きとか言ってたっけ。試しに、彼女の曲をリクエストしてみよう。僕の一番、好きな曲を。
「じゃあ、千條ユキの……『マイリバース』でお願いします」
「あ、それ、あたしも好き!」
思いの外いい反応が返ってきたので、ホッと胸を撫で下ろす。
早速、綺音はギターを肩から下げ、弾き始める。この時、僕は初めて、綺音の生演奏を聴いた。
『マイリバース』は千條ユキのファースト・アルバムに収録されている曲で、シングル曲ではないものの、ファンの間では今でもかなりの支持を得ている楽曲だ。因みに、妹の夢乃もカバーして何度か弾き語りで聴かせてくれた。
反抗的な歌詞に加え、曲はロック調で、他の曲と比較して少々激しめだが、聴いていて何故だか安心できるような、そんなメロディー。
弾き語りだからそこまでの烈しさというものはないが、綺音のギター伴奏もすごく耳当たりがいい。目を閉じると、歌詞通りの情景が浮かんでくるようだった。
演奏が終わると、僕は無意識に拍手を送っていた。
「……ど、どうだった?」
恥ずかしそうに顔を俯かせながら、綺音が感想を求めてくる。
「す……すごく、よかったよ」
感極まるあまり、ごくありきたりな言葉しか出てこなかった。しかし今の歌声は、誰が聴いても感服するに相違ない。それくらい、言葉では言い表せないほどに、彼女の演奏は素晴らしかった。
綺音は軽く吐息をつき、顔を上げて、真っ直ぐこちらを見つめながら微笑んだ。
「じゃあ、次は何の曲がいい?」
「うーん……」
僕は二曲目にリクエストする曲を思案し、唸る。この際、綺音の厚意に甘えて、彼女が許す限り色んな曲をリクエストしてみようかな……なんていう考えも、脳裏にちらつき始めた。
じゃあ、今度は最近お気に入りのバンドの曲を……と、僕が口を開きかけると、すぐ後ろから声がかかった。
「すごい! ユキちゃん、すっごい上手かったよ!」
声のした方を咄嗟に向くと、ジュリエット先輩が宝石のようにきらきらと目を輝かせながら立っていた。先輩も、今の演奏を聴いていたらしい。
「先輩も、気に入ってくれましたか?」
「うんっ、なかなかよかったよ〜。私も、またバンドやりたくなっちゃったな〜」
「えっ!?」
綺音は驚愕したように、目を見開く。
「なんかね、ユキちゃんが歌ってるの聴いてたら、私もやりたくなってきちゃった」
「ホント、ですか……? 嬉しいです!」
まさか、こんなことで先輩の心が動くとは予想していなかったように、綺音の弾けんばかりの笑顔からは嬉しさが、傍目からもわかるほどに滲み出ている。正直なところ、僕ですら意外な成り行きに驚いている。
ただ、問題はもう一点ある。
そのことを僕が思い出すのと寸分違わぬタイミングで、ベギー先輩が部屋に戻ってきた。
部室内の空気がいつもと異なることに逸早く気づいたのか、ギロリと室内を眺め回す。その視線が、昨日以上に恐怖をそそるのは気のせいだろうか。
「あっ、お帰り! ねぇ、ユキちゃん、スゴいんだよ? 歌も上手いし、ギターの伴奏もプロ級なんだから!」
ジュリエット先輩が笑顔で、ベギー先輩に話しかける。しかしベギー先輩は表情一つ変えることなく、無言で僕たちの側を通り過ぎた。
窓際には掃除用具入れがあり、その手前に置かれている、彼女自身のものと思われる鞄から一冊の本を出すと、ベギー先輩はまた後ろの壁にもたれかかるように座り込んだ。どうやら、そこが彼女の定位置みたいだ。あるいは、お気に入りの場所なのかな。
そして、また本を広げるベギー先輩を前にして、ほんの十数秒前に感じていた希望が一気に萎んでしまう。やっぱり、一筋縄ではいきそうにない。
僕が内心諦めかけていると、意外にも綺音が果敢な行動に出た。
一歩また前に進み出ると、
「私、ちゃんとバンドがやりたいんです!」
と、言い放ったのだ。
それにはさすがのベギー先輩も本から目を上げて、首を綺音の方に回した。
正直、この展開は予想できなかった。今日も説得できないまま終わってしまうのかと思っていたのに、まだチャンスは残されているかもしれない。
毅然とした口調で、綺音は話し続ける。
「あたし、やっぱり皆さんと一緒にバンドをやりたいんです。一人でも多い方が色んなことを共有できるし、何より、きっと楽しいと思います。できれば……軽音部として、フェスとかに出て、色んな思い出を作りたいんです」
これは、彼女の本心だ。そして、僕の本心でもあった。綺音が代表して、二人の意見を陳述してくれているのだ。
「無理だ。そんなにバンドがやりたいなら、重音部に入ればいいだろう」
というベギー先輩の言葉に対して、綺音もそれ以上に沈着な口振りで、こう言い返した。
「重音部じゃなくて、ここがいいんです。この軽音部で、私は活動したいんです」
昨日の帰り道、綺音は僕に話してくれた。フェスで軽音部の演奏を見たことがきっかけで、この学校を進路に選んだのだと。「芸能活動の原則禁止」という校則も知っていたはずなのに、彼女は《AA》としての活動もやめずに続けている。
それなりの覚悟をもって入ったはずなのだ。その覚悟は尊重されるべきだし、しなくちゃいけない。
僕としてもあまりそういうことは考えたくないが、芸能活動に準じたことをしていると学校にバレて退学になった場合、軽音部としての活動をろくにしないまま学校を辞めざるを得なくなったとしたら、綺音がこの高校に入学した意味を為せなくなる。それはあまりにも……残酷だ。それは絶対、避けなければならない事態だ。
「せっかく、部活が存在してるんですから、一緒にやりましょう。こんなところで何もしないよりは、ちゃんとした活動をしましょう」
こんな殊勝な姿を見ていると、僕も彼女の肩を持って何か言うべきだと思った。本来、そういう条件だった。だが、またしても発言の機会を先輩に奪われてしまう。
「言っただろう。重音部に変に目をつけられたら、今度こそ居場所がなくなるかもしれない。余計なことはするな」
すると綺音も、負けじと言い募った。
「そんなの、気にする方がおかしいと思います! いいじゃないですか、好きなように言わせておけば。それなら、あの人たちに負けないように努力すればいいじゃないですか。とられた部員を取り返す勢いで、活動すればいいじゃないですか。先輩は、それで悔しくないんですか? あたしは悔しいです、すっごく!
とにかく、あたしはこの軽音部が好きなんです。だから、ここで演奏がしたいんです!」
これが、綺音の胸中の全てだったろう。僕にもわかる。君が、ここに来た動機を僕に話してくれた時から。だから、できる限り力になってあげたい。歌うことを嫌いになりかけていた僕を救ってくれたのも、君なんだから。
僕の入部の動機――それは「綺音とともに歌うこと」だ。
僕も口添えしようと一歩、前に踏み出そうとした。その時。
「まあまあ、いつまでも片意地張ってても仕方ないんだし、一緒にやってあげよう?」
これまで座視していたジュリエット先輩が、急に話に割り込んできた。ジュリエット先輩はベギー先輩の傍らに正座すると、甘えるように彼女の肩を揺する。
「この子たち、こんなに真剣なんだよ? それにさ、ほら、いつまでも重音部に負けっぱなしだと、やっぱり悔しいじゃん?」
「いや、でもまた喧嘩を売られて面倒なことになったら困るし……」
ベギー先輩の顔から先程までの威厳が消え、弱気な声でボソボソとごねるように言う。すると、ジュリエット先輩は不意に嗜虐的な表情になり、
「ん〜。じゃあ、明日ウチに来て一緒にホラー映画見ようよ」
「断る」
「でもでも、ベギーが『うん』って言わないんだったら、必然的にそうなるけど?」
「う……」
そんな会話を繰り広げる二人の先輩を前に、僕と綺音は呆然と立ち尽くす。
ベギー先輩は顔面蒼白だ。もしかして、怖い話が苦手だったりするのだろうか? ちょっと意外。いや、かなり意外だ。見た目に似合わず、まさかそんな弱点があったなんて。
ベギー先輩は熟考するように、上向いて目を閉じた。眼鏡のレンズが、天井の蛍光灯によって白く光っている。
そして間もなく目を開くと、本を脇に置いて立ち上がり、僕らの前に歩いてきた。
「わかった。そこまで言うなら、協力してやる」
「ほ……本当ですか!?」
綺音は歓喜と驚きを両方含んだような目で、ベギー先輩を見つめながら、声を弾ませる。
一方、ベギー先輩は顔色一つ変えず、毅然とした声で語を継ぐ。
「その代り、やるなら目標を設定し、そこに向かって真剣に取り組む。中等半端な演奏は絶対に許さない。その覚悟はあるか?」
「はい!」
「は、はい!」
一、二秒遅れて、僕も綺音の返事に続いた。ベギー先輩の斜め後ろでは、ジュリエット先輩も満足気な顔をして笑っていた。
と、いうことで軽音部は無事に活動を再開できることになったのだった。