#06 消えない後悔と歌う覚悟
翌日の昼休み。
教室の窓際の席で、打山くんと昼食をとった。僕らは購買のパンを机の上に広げながら、また向かい合って座っていた。
「暁。昨日、《AA》と一緒に帰ってただろ」
何の脈絡もなく、打山くんがそんなことを尋ねてきた。
「な……なんでそんなこと、知ってるの?」
動揺を隠せず、吃りながら問い返す。
「重音の部室からさ、お前らが校門の前を歩いてんのが見えたんだよ。三階だったから初めは『ん?』って感じだったんだけど、あれは今思うと確かに暁と《AA》だった」
まさか見られてたとは。しかも、よりにもよってこの人に。
いや、見られた相手が打山くんだったというのは、不幸中の幸いだろうか?
それよりも。
「打山くんって、まだ《AA》の正体が四十谷さんだと思ってるの?」
「もちろんだ。何から何までそっくりなんだぜ? 俺以外のやつもみんな噂してる。違うって主張するなら、証拠を提示してほしいものだな」
本人だっていう証拠もあまりないと思うんだけど。前にも言ったように、偶然の一致だということも有り得るわけで。まあ、本人なんだけども。
しかし昨日、必ず秘密を守ると約束したばかりなのだ。なんとか、綺音が《AA》だという事実を悟られないよう、取り繕う必要がある。
それでも、真実をまるで虚偽の噂のように扱うのは、いかんせん複雑な気分だ。でもまあ、こればかりはやむを得ない。彼女との約束を遂行するためだ。
「四十谷さんは《AA》じゃないよ。実は昨日、訊いたんだ。そしたら、違うって」
「本人がそう言ったのか?」
「そう。似てるとは何度か言われたことがあるらしくて、本人も気にしてるみたいだったけど」
彼はまだ腑に落ちないという目つきでこちらを見てくるが、やはり本当のことは言えない。彼女をがっかりさせたくない。
その時、
「何の話ししてたの?」
突然、すぐ横から話しかけられたので、僕はバッと反射的にそちらを激しく振り向くと、目の前に綺音が立っていた。
いつの間にいたのか、全く気がつかなかった、という動揺のもと、つい彼女から目を背けてしまった。しかも今の会話、本人に聞かれていたら相当まずいのでは?
綺音は僕のそんな不安とは裏腹に、机の隅に何かをぽつんと置いた。十円玉だった。
「これ、昨日借りた分ね」
「あ……ありがとう」
僕は幾分安堵し、丁重にその十円を受け取ると、自分の財布の中に仕舞う。
「今日は、二人で食べてるんだ?」
「おう。そうだ、よかったらアスキー……四十谷も一緒にどうだ?」
ちゃっかり彼女もお昼に誘おうとする打山くん。というか、うっかり「アスキー・アート」って呼びそうになってるし……。
しかし、綺音は小さく首を振り、断った。
「ごめんね。今日、これから部室に行くの」
「部室って、軽音の?」
僕が訊くと、
「うん。それに、なんだか気に入ってるんだよね、あそこ」
綺音がそう答え、風のように教室から出ていくのを、僕は目で見送りながら、昨日の出来事を思い出していた。
――先輩たちを説得して、部活を立て直す。
そう、綺音は力説していた。が、少々心配だ。多分、昨日のあの感じだと、あの先輩たちのやる気を引き出すのは至難の業だと思える。ベギー先輩なんか、かなり気難しそうな印象だった。
これは、追いかけた方がいいかも……?
いや、そもそも僕は入部自体を拒否っているんだ。だけど……。
「暁?」
その声にハッとして前を向くと、打山くんが珍しく真面目な顔をして、僕を見つめていた。
「もしかしてお前、軽音部に入りたいんじゃないのか?」
その言葉にややドキッとする。いや、別に入りたいわけじゃないから、そこまで焦ることはない……はずなんだ。
「あいつ、軽音部なんだよな? お前が昨日、あいつと一緒だったのって、もしかして軽音部の体験入部に行ってたからじゃないのか?」
さすが、鋭い。あ、いや、普通に考えたらわかることか。
とりあえず、何故、打山くんの「入りたいのか?」という質問に過剰に反応してしまったかだ。入部する気はさらさらないけど、妙にもやもやする。自分でもその原因がわからない。
ただ、確信的なことといえば、気がかりだということだった。
「……ごめん、打山くん。僕も用事が」
僕はパンをバッグに押し込むと、席を立った。
そして、僕も教室を後にする。
僕は廊下で綺音に追いつき、後ろから声をかけた。
「綺音!」
「どうしたの?」
綺音はこちらを振り向きながら、尋ねてくる。
「ちょっと気になったんだ」
僕が答えると、綺音はにっこり笑った。
「ちょうどよかった。実は私も、君に訊かなきゃいけないこと、あったんだよね」
僕は、彼女のその言葉の真意をなんとなく察したが、あまり答えたくはなかった。きっと、あのことだろう。
「知りたいの、君が軽音部に入りたくない理由」
予想は当たっていた。正直、外れることを期待していたのだけど。
そういえば、昨日はあれから、うやむやになってしまった。だから、この子は気にしていたのだと納得もできる。
昨日は運良く話が逸れてしまったけど、今日はそういうことにもいかなそうだ。
別に教えたくないわけじゃない。しかし、他人に話してもどうにもならないんじゃないかと思ってしまって、なかなか切り出せなかった。
「何か隠してるよね、絶対」
綺音は疑う気満々だった。知らぬ間に、結構な至近距離まで詰め寄られている。これは……逃げられそうにない。
「昨日、あたしの秘密、打ち明けたよね?」
と、言葉をつなぐ綺音。
「秘密? ……君が《アスキー・アート》だってこと?」
綺音はこくんと頷き、僕を強く見つめながら続ける。
「あたしが秘密を話したんだから、レンくんも自分の秘密を打ち明けるべきだと思うの。そうでなきゃ、不釣り合いでしょう?」
確かに、その通りだ。しかし、まだ逡巡が残っているのも事実だった。かなりプライベートな、それでいて暗く、重い話。僕はこの話を、身内以外の人間にしたことはない。友達にも、知り合いにも、一切ない。目の前の同級生の子が、初めてということになる。
それでも、彼女になら話してもいいかな、とも思えた。この苦悩を他人に話すことで少しは楽になれるなら、それもいいんじゃないか。……完全に他人事でもないような気もするから。
「妹が、歌手を目指してたんだ」
「妹さん?」
「そう。目指していた、っていう表現で大体察してくれると助かる。もう、妹はいないから」
僕の言葉の意図を汲んだのか、一瞬、綺音の顔が強張った。その血色のいい頬が、徐々に青ざめていくのが目に見えてわかった。
僕の妹――夢乃は、人気ミュージシャン・千條ユキに影響されて、独学でギターを始めた。シンガーソングライターを目指していて、オリジナル楽曲も制作し、毎日のように作曲活動に励んでいた。
夢乃は、どんどん自分の才能を開花させていった。
しかしそんな彼女にも、唯一、弱点らしきものがあった。歌詞を書くのが苦手だったのだ。だから、彼女が作った曲のほとんどの歌詞は僕が書いていた。
僕も、別に作詞が得意というわけじゃなかったけど、何故か夢乃から「お兄ちゃんの歌詞には説得力がある!」とか言われて、重宝されていたみたいだった。
妹の楽曲制作を手伝うことが、僕のささやかな楽しみでもあった。中学に上がっても部活はやってなかったし、帰宅後もあまりやることがなかったから、毎日のように詞を作っていた。
夢乃が曲を書き、僕が歌詞を乗せる。こうして出来上がった曲を、二人でよく歌い合った。
さらに夢乃は、自らが作った楽曲を歌い、それを録画・録音して動画サイトに投稿したりもしていた。「少しでも多くの人に私の歌を聴いてほしい」というのが、彼女が最も口にしていた願いだった。
中学校に上がってからは部活にこそ入っていなかったものの、勉学と両立しなければならず、大変だということを夢乃はよく漏らしていた。それでも、彼女は勉強も僕より遥かにできて、常に学年トップの好成績を収めていた。
僕は、そんな妹を心から尊敬していた。もちろん、今でも。
ところが、僕が高校受験に本腰を入れるようになると、作詞を全く手伝わなくなってしまった。それ以来、妹は一人で楽曲作りをするようになっていった。路上ライブを本格的に始めたのも、その頃だ。
僕は自分の勉強のことで手一杯になり、夢乃とはあまり話さなくなってしまった。彼女が作詞を求めてきても、全て断っていた。あの頃の僕は、第一志望に合格することに必死で、それどころじゃない、と思っていた。今振り返ると、ひどい兄だと思う。
それでもある日、夢乃が僕の部屋に来た。断られることを知っていて、詞を書いてほしいと頼んできたのだ。
しかし、僕は何も考えずに断ってしまった。冷たく、突き放すようなことを言ってしまったのだ。まさかそれが、妹への最後の言葉になるなんて思わなかったから。
その日、夢乃はいつものように路上ライブに出かけていったきり、帰ってこなかった。帰宅途中に交通事故に遭ったのだ。僕が塾を早退して病院へ駆けつけた時には、夢乃はすでに亡くなっていた。
何故、あんなことを言ってしまったのだろう。僕も、夢乃が作ってくれた歌を歌うのが好きだった、はずなのに……。何故、もっと彼女のことを理解ってあげられなかったのだろう。
今も、これからも、その後悔は消えることはないだろう。
「だから、歌いたくないんだね……」
今まで無言で聞いてくれていた綺音が、そっと口を開く。押し殺したようなその声は、少し震えていた。
「そうだよ。自分だけ歌っていたら、あの子に申し訳ないから。だからごめん、あの部活には入れないんだ」
綺音は俯いたまま、何も返してこなかった。こんな話を聞かされるなんて、思ってもいなかったことだろう。自分でもこんなにすらすらと言葉が出てきたのは、少し意外だった。でも、これでよかったとさえ思っている。
これで、きれいさっぱり、彼女も諦めるに違いない。
しかし。綺音もまた、一筋縄ではいかない人物だということを、この時に改めて悟らされることになった。
「君が入りたくない理由はわかったよ。だけど、あたし、そんなことじゃ諦めたくない。君が歌えないのは、自分の殻の中に閉じこもっているからだよ」
綺音は俯いていた顔をきりっと上げ、さらに言葉を続けた。
「あたし、君の妹さんのことはよく知らないけど……もしも、もしもね、あたしがその子だったら、自分の分まで歌ってほしい……って思うかな。あたしが歌えない分、他の誰かに歌ってほしいって。レンくんも……そう思わないかな……?」
私の考え方、間違ってる? というふうな視線で問いかけてくる綺音に、何と返していいか見当もつかない。
「妹さんも、きっとそう思うはずだよ」
と、彼女は最後に付け加えた。
僕の心は再び、揺らぎ始める。歌うのは嫌いじゃない。けれども、夢乃のことを考えると――。
わからない。自分でもどうしたいのか。そして、どうするのが正解なのか。
僕の唯一の取り柄は歌だ。夢乃も、よく僕の歌声を褒めてくれた。それが嬉しかった。だから、僕はあの子のために歌ってきた。だが彼女がいない今、歌うことに意味なんてあるのだろうか……。
「もう一度言うね。君には才能がある。軽音部に入って、歌だけでも極めてみない? 先輩たちは、あたしが絶対になんとかしてみせるから!」
綺音は強気にそう言って、また一歩、僕に詰め寄る。
夢乃はもういないが、もしも今彼女がここにいたら、僕に歌ってほしいと言うだろうか? 夢乃はいい子だから、そう言うかもしれない。いや、きっとそう言うだろう。
いつまでも罪悪感が消えないでいたのは、彼女の死を心のどこかで否定していたからだと、今なら思える。そのことに気づくと、真っ先に思い浮かんだのはこんな言葉だった。
――夢乃のために、もう一度、歌いたい。
「僕、入るよ」
「え、ホント?」
綺音は、嬉しそうに目を見開いた。
「いつまでも引きずってても、前に進めないと思うし。気づかせてくれて、ありがとう」
僕がそう感謝の気持ちを伝えると、綺音は首を横に振った。
「お礼を言うのはこっちだよ。じゃあ、ボーカルはレンくんに任せるね」
「君は、歌わないの?」
「まだわからない。そうなった場合、ギターも兼任ってことになると思うしね」
綺音は清々しそうな顔で笑っていた。夢乃もよくあんな笑顔を見せてくれたのを思い出す。するとまた感傷的になりそうだったので、それ以上は思い出さないことにした。
まさか、こんな形で軽音部に入ることになるなんて思わなかった。
――夢乃も許してくれるよね、きっと。