#05 約束
正門をくぐり、左に曲がると駅までは一直線で、歩道の片側には並木が続いている。いつもは一人か、時間が合えば打山くんと一緒に帰っているが、今日は違う。いい意味で。
視線だけ横にずらすと、隣を四十谷さんが何食わぬ顔で歩いている。今、僕は並んで歩いている……こんな可愛い子と……という余計な考えはせずに、駅までの道のりを歩く。
すると、四十谷さんと不意に目が合った。どうやら見すぎていたせいで、視線を感じ取られてしまったようだ。
僕は咄嗟に、
「あ……いや、そうだ、用事って何なの?」
と、誤魔化していた。ちょっと不自然だったかな?
「あ、うん。ちょっとね……」
え? 四十谷さんもはぐらかすんだ? こりゃ、ますます気になる。別にやましい意味じゃなく、純粋にこれから彼女の行こうとしている場所が知りたい。
もう一度、訊いてみようかな? と、迷い始めた瞬間……。
四十谷さんが、
「あっ!」
そう声を上げたかと思うと、突然立ち止まった。僕も驚いて、足を止める。
すると、四十谷さんは僕の目の前に回り込み、こう言った。
「お金、持ってない?」
「はい?」
「だからー、お、か、ね!」
どういうことなのか、さっぱりわからない。
まさかこれって……カツアゲ……? 男にしかやられたことないんだけど? 女の子がやるの?
とりあえず、金額だけでも訊いておこうかな……。
「い……いくら?」
「十円」
「…………」
ちょっとばかり、警戒してしまった自分が馬鹿みたいに思えた。
ジュースを奢ってほしいとかなら何度か言われたことがあるけど、たった十円を求められたことはない。
というか普通、何かあった時のために財布くらいは持ってくると思うのだけど、十円もないってことは、一銭もないってことだよね……?
「お財布、持ってないの?」
「持ってるけど、家に置いてきちゃったから、君が十円貸してくれると有り難いんだけど。今から家に電話かけるから」
話を聞くに、家が貧しくて携帯も持ってないらしい。
仕方なく僕は鞄から財布を出すと、十円玉を彼女に手渡した。それを受け取った四十谷さんは嬉しそうに微笑み、
「ありがとう。それじゃあ、ちょっと行ってくるね!」
そう言って、向こうの歩道脇の公衆電話まで駆けていった。
それから五分もしないうちに、四十谷さんは走って戻ってきた。
「ごめんね、お金は明日返すから」
「いいよ、十円だし」
僕は断ったが、四十谷さんは心外そうな顔をして、
「ダメだよ。社会通念上の礼儀として、借りたものはちゃんと返さないと」
プライドを傷つけられたと言わんばかりに、こちらを睨んでくる。その姿勢には見習うべきところがあるな、と感じる。高校生なのに、しっかりと自分の信念を持っているらしい。
まるで芸能人みたいだ。……芸能人?
僕はふと、《AA》のことを思い出す。
四十谷さんが僕に背を向けて歩き出すのを、僕は追いかけながら、
「ねえ、君が《AA》なの?」
と、つい尋ねてしまった。
「そうだよ」
四十谷さんは足を止めることなく、涼しい顔で答えた。
え、そうだよ……ってことは、合ってるの? それが本当なら、《AA》は僕と同じクラスの出席番号一番、《四十谷綺音》と同一人物ということになるのだけど。
「それ、本当なの?」
「本当だよ。これからね、新曲のレコーディングがあるんだ」
さっき電話をかけていたのは、レコーディングのためにスタジオに行って、帰りが遅くなるということを母親に伝えていたのだという。
僕は打山くんから話を聞くまで、《AA》の存在すらも知らなかった。ネット自体あまり見ないから仕方なかったのかもしれないけど、もう少し早く知っておけばよかったな、とも思う。
「でも、知られた相手が暁くんでよかったかな」
四十谷さんは歩きながら、ぽつりとまた気になることを仰有った。
「どういうこと?」
「うちの高校って、原則芸能活動禁止らしんだよね。だから、私が《AA》ってこと、誰にも言わないでほしいの。バレたら多分、退学になると思うし」
そうか、そういえば打山くんもそんな話をしていた。
四十谷さんは続いて、こう話す。
「知ってて入学したくせに烏滸がましいとは思うけど、私、今学校を辞めるわけにはいかないんだよね。まだデビューできるって決まったわけじゃないし、お母さんも不安にさせちゃうから……。
絶対に夢を叶えて、少しでもお母さんを安心させてあげたいの。小さい時からずっと私の夢を応援してくれてるから、いつか有名になって、恩返しがしたい。今より、暮らしを楽にしてあげたい。だから、まだみんなに知られるわけにはいかないの」
淡々とした口調で話しながら、今まで前だけを見つめていた四十谷さんが、不意をつくように僕の方を向いた。真剣な視線が、僕の目を捉える。その決然たる眼の色を見れば、さすがに嫌とは言えない。
それに。
「烏滸がましいなんて思わないよ。君がそうしたいなら、僕もできれば応援したいな。絶対、誰にもバラさないから。約束する」
「ほんとに?」
「うん。もしも疑ってる人がいたら、即刻否定するよ」
「そこまではしなくていいけど。でも、ありがとう。これは、私たち二人だけの秘密だからね」
二人だけの秘密、かぁ。その響きだけを聞くと、ちょっと新鮮かも。
疑ってる人がいるのかはよくわからないけど、僕が守ってあげなきゃ。彼女の秘密を知っているのは、僕だけなんだから。
あ、けど打山くんは疑っていたっけ。明日、彼にも《AA》と四十谷さんは別人だったと伝えておこう。
「そうだ。暁くんの下の名前って、何ていうの?」
突然そんなことを彼女に尋ねられたので、僕の思考はストップした。ついでに足も。
四十谷さんもそれに気づいたのか、僕の数歩先で止まった。そして、ゆったりとした動作で体をこっちに向ける。
「どうしたの?」
「あ、う、うん」
「あ、もしかして教えたくない感じ?」
「いや、そうじゃないけど……」
非常に唐突すぎる話題転換だったから、どう返したらいいかわからなくなっただけだ。脈絡もなかったし。
とりあえず、名前だけを答えることにした。欲を言えば、あまり言いたくはないのだけど。
「れ……れんた……」
「れんた? それって、どんな字を書くの?」
案の定、一番されたくない質問をされてしまい、少々焦る。
必死に考えを巡らせたあと、咄嗟に思いついた嘘を言う。
「蓮に、太いって書くんだ」
「へぇ、いい名前だね」
どうやら、納得してくれたようだ。「れん」の部分が「蓮」でなく「恋」だなんて言ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。
「そっか、蓮太くんかぁ……。あたしは綺音」
僕が知らないと思ってるらしく、四十谷さんも自分の下の名前を言った。こっちは知ってるけど、ここは初めて聞いたふりをして頷いておく。
「それでね、《アスキー・アート》っていう名前なんだけど。ほら、ネットとかで、文字や記号だけを使ってイラストを描くやつ、あるでしょ? あれの略称と私のイニシャルが同じだったから、それをアーティスト名にしたんだ」
これは初耳。というか、安直すぎじゃないか?
「あ、そうだ。レンくんに確認したいことがあったんだ」
思い出したように、またまた唐突に別の話を切り出す四十谷さん。脈絡関係ないのか、この人は。
って、しかも、え……『レンくん』?
「レンくんはさ、どうして軽音部に入りたくないの?」
「その前にまず、なんで呼び方が変わってるのかを教えてほしいんだけど……」
「せっかく友達になったんだし、呼びやすい呼び方でいいよねって思っただけ。あ、あたしのことは、気軽に『綺音』って呼んでくれていいからね」
「じゃ、じゃあ……僭越ながら、下の名前で呼ばせていただきます……」
自分でも何故なのかわからないけど、滅茶苦茶丁寧な言葉で返してしまった。まあ、呼ぶとは言ってしまったけど、他人の前では気をつけよう。変な誤解をされたらそれこそ嫌だし。
「でね、さっきの続きなんだけど、どうして入りたくないの?」
綺音が話を戻す。
「あたし、君の歌唱力、高く評価してるんだよ? 音楽の授業でも女の子たちに引けを取らなかったし。だから、できれば入部してほしいな。あたし、先輩たちをどうにか説得して、あの部を立て直したいの。そのためには、その……君の力が必要? みたいな……」
「なんで、そこだけ妙に曖昧なの!?」
というか、年内メジャーデビューを目指しているようなお方が、部活なんてやってていいのだろうか。軽音部に憧れて進路を決めたというのは理解したけど、そうまでしてあのやる気のない部活で活動したいのか……?
「あの〜……もう一つ、質問なんだけど」
「何?」
相手から、鋭い目付きで視線を送られる。なんか、疑われてる?
「いや、その、なんていうか……個人の活動もやって、部活もやってってしてたら、大変じゃないかな?」
綺音は、腕を組みながら「うーん」と考えるように唸った。
「大変とかは、あまりないかな。やっぱり、好きなことはやってて楽しいし。それに……依頼されて歌うのと、プライベートで歌うのとじゃ、楽しみ方も違うから」
最後に、バンドは一人じゃできないから、と彼女は小さく付け加える。
もしかすると彼女は、一人で歌うよりも、複数人でやるバンドの方に憧れがあるのかもしれない。
ミュージシャンを目指していることを周りに隠して、ずっと一人で歌ってきたのだ。だからこそ、せめて学校の中だけではみんなと一緒に音楽を、バンドをやりたいんじゃないだろうか。
もう一つの居場所を、欲しがっているのではないだろうか。可能なら、そんな彼女の願いを叶えてあげたくもある。
しかし次の瞬間、やはり歌えない、という思いが浮かんだ。
僕だけが、みんなと楽しく歌うわけにはいかないんだ。だって、そうしたら、あの子に申し訳ない気がするから。
あの子から夢を奪ったのは僕だ。だから今更、僕には音楽をやる資格なんてない。あってはいけないんだ。あの日から、そう思い続けてきたのだから。
「ごめん、やっぱり僕……」
僕の言葉を遮るように、綺音は両手をパチンと鳴らすと、
「あ、うっかりしてた! あたし、そろそろ行かなきゃ!」
と言い残し、駆け足で去っていった。春色の風に、長いポニーテールの髪が揺れていた。