#23 ディヴァイン・メロディアス・フェスティバル
DMF――『ディヴァイン・メロディアス・フェスティバル』当日。
朝、僕は六時前に起床、七時頃に家を出発し、三十分後にはホールの前に到着した。前日の打ち合わせでは、七時半にホール前の時計広場に集合とのことだった。されど見渡す限り、早すぎたのか、まだ誰も来ていないみたいだ。
ここ数日で気温はどんどん上昇し、ああ夏が来たな、と感じさせる陽気の日が何日も続いている。今日もまさに、フェスに相応しい夏日だった。今回、それが行われるのは屋内というのが残念なくらいだ。それにしても、まだ梅雨でもないのに朝から蒸し暑い。蝉が鳴いてないのが不思議に思えるほどだった。
最初の演奏が始まるまでは、まだ一時間以上もある。にもかかわらず、会場の周りには続々と人が集まっている。出演者か、観客かは見ただけでは判別がつかない。中にはギターなどを背負っている人もいるが、それもほんの一部だ。
今更だけど、ちょっと緊張してきた。
そわそわした気分で、メンバーが集まるのをまだかまだかと待ち始めて数分後。誰かがこちらに向けて手を振りながら歩いてくるのが、遠目に見えた。やがてその顔が見えるくらいまで距離が縮むと、それが綺音だとわかった。
「レンくん! おはよう!」
普段と何ら変わらない、弾けんばかりの笑顔。彼女は、薄手の白い半袖のチュニックを着ていた。その背中には、見慣れた漆黒のギターバッグ。
「お……おはよう……」
挨拶を返すも、緊張からか、壊れかけのアンプのような掠れた声しか出なかった。
「どうしたの? 緊張してる?」
心配そうな眼差しで、顔を覗くように綺音は尋ねてくる。
「うん……なんか急に、不安になっちゃって」
「実はあたしも昨晩は緊張しちゃって、あんまり眠れなかったんだよね。大勢の人の前で演奏するのって、よく考えると生まれて初めてだから」
そう言いつつも、綺音は向日葵のような明るい表情を忘れていない。やっぱり強いんだな、改めてそんな感想を抱く。
次に、綺音はこんなアドバイスをくれた。
「ずっと前に千條ユキのインタビュー記事を読んだんだけど、そこに『お客さんに向けて歌おうとするから緊張するんだ。誰か、大切な人を一人思い浮かべて、その人に向かって歌うつもりで歌えば緊張しない』ってことが書かれてあったの。それ読んで、ああ、やっぱりこの人かっこいいなって思ったんだよね。
だから君も、そんなに張り詰める必要なんてないと思う。普段と同じように、伸び伸び歌ってくれればいいよ。あたしも、できるだけのサポートはするつもりだから」
この言葉で、少し、肩の力が抜けたように感じられた。さっきまで、あれこれと余計な思いを巡らせていた自分が馬鹿みたいに思えるくらいには。
「そうだね。おかげで、勇気が出てきたよ」
「うん、よかった!」
綺音も嬉しそうに頷いた。
打山くんから「三十分ほど遅れるから先に会場に入っててくれ」という連絡が来たのは、その直後だった。あとの二人も、彼と一緒にこちらに向かっているらしい。仕方なく、僕らだけ一足先に会場に足を踏み入れることにした。
「出演者の方はこちら」と書かれた立て札を目印に中に入ると、受付で最終手続きを済ませた。事前に、バンド名やメンバー諸々を記入した「出演申請書」というエントリーシートのようなものを送り、それと行き違いの形で運営側から「参加証明書」と書かれた書類が届いた。当日、それを受付に提出し、送った申請書と照らし合わせつつ、内容に不備がないかどうかを入念にチェックする。
《トラブルサム・アート》の代表者として、表面上は僕の名前で応募したのだが、いかんせんやり方がよくわからないこともあって、大半は綺音が迅速かつ的確に取り計らってくれた。
やがて手続きが完了し、スタッフに出演者控室まで案内された。入室してすぐ、左手の全面鏡張りの壁が目に入った。昨日まで練習用に借りていたスタジオもそうだったから、さして驚かなかった。広さに関しても、あのスタジオよりやや小さいくらいで、居心地は悪くなさそうだった。
部屋の中央には、テーブルとソファーが四つずつ置かれてあった。それらが整然と縦横二列に並べられ、妙な雰囲気を漂わせている。ここに座って待機するように言われると、おずおずと前に進み出る。出演者の緊張を取り払うべく、こういうインテリア・デザインなのだろうか。
さらに数十分が経過した頃、ようやく打山くんら三人が到着した。
「よう、待たせたな」
片手を挙げながら、打山くんがさも平然と挨拶するので、綺音はより気分を害したのか、口を尖らせて文句を言い立てた。
「もー、遅い! 集合時間は七時半だったでしょ!」
「悪い、悪い。いやあ、目覚ましぶっ壊れててさあ。この二人も寝坊したって言うんで、途中で合流してここまで一緒に来たってわけだ」
打山くんは後ろにいる二人を親指で示しながら、苦笑いで話した。綺音は呆れたように三人を見やっていたが、気を取り直したように、
「ちゃんと、本番までにチューニングとか済ませといてよね」
と、言った。
「わかってる。俺、今日、チューナー二個持ってきてるんだぞ」
何故か自慢気に言う打山くんだったが、あまり関係ないと思う。
とりあえず、間に合ってよかった。メンバーが開演に遅れて演奏できませんってなると、今までやってきたことが全て水の泡だ。それではあまりにも悲惨すぎる。悔やんでも悔やみきれない。
開幕まで、あと三十分。事前に配布されたプログラムを見ると、《トラブルサム・アート》の出番は正午五分前。フェスそのものの終了予定時刻が十三時だから、僕らの順番は全体の中でもわりと最後の方なのだろう。
灰色のソファーに僕と綺音は腰掛け、プログラム表をまじまじと眺めていると、打山くんが「ちょっくら外の様子見にいってくるわ」と、他の二人を引き連れて部屋から出ていってしまった。僕は呼び止めようとしたが、まあ出演時間に間に合えばいいかと咄嗟に思い直し、声はかけなかった。
ドアが閉められると、控室の中はしんと静まり返った。僕と綺音はソファーに並んで座った状態のまま、沈黙する。そこにまた、ちょっとした緊張が芽生えた。これからステージに立つことへのプレッシャーからなる緊張ではなく、別種の緊張。
顔の向きは変えず、目線だけを動かして隣にいる綺音を盗み見る。きっと僕は今、ものすごく眼つきが悪い人になっていることだろう。一方、綺音は僕からの視線などには気づいていないらしく、真剣な眼差しでもって目の前の壁を凝視している。それを見ると何故だか僕は安心し、目線を前に戻した。
ちょうどその時だった。ドアの開く音がしたのでもう打山くんたちが戻ってきたのかと思い、目をそちらへ向けると――戸を開けたのは彼らではなく、名札を胸元に垂らし、スタッフ共通の黒いTシャツを着用した女性だった。
スタッフさんは、ちょっぴり焦ったような顔をして僕ら二人を交互に見ている。
「あ、あの……四十谷綺音さん、はいますか?」
「はい?」
スタッフさんの呼びかけに、綺音は怪訝そうに返事をした。
彼女が四十谷綺音だと理解したスタッフさんは、
「あの、お電話がかかってきているんですが……」
と言い、中に入ってきた。それを聞いて、綺音も立ち上がる。
「……どちらからですか?」
「病院からです」
その言葉により、綺音の頬は見る見るうちに血色を失い、わずかに青ざめる。無論、彼女だけでなく、僕も胸騒ぎを覚えた。病院……?
綺音はしばらく気が動転したように室内に視線を巡らせていたが、やがてスタッフさんに連れられて部屋を出ていった。取り残された僕はどうしていいかわからず、ソファーに腰を下ろしたまま身の置き場のない思いでいた。
一体、何があったのだろうか。病院から、というのが妙に引っかかる。心配だ。
しばらくして、綺音が戻ってくるなり、僕は即座に立ち上がって彼女に尋ねた。
「どうしたの?」
「お母さんが仕事中に倒れて、救急車で運ばれたみたいなの」
「えっ……」
言葉を失い、頭の中が真っ白になった。
綺音は目を伏せながら、ただ言葉を続ける。
「お母さん、ずっと仕事続きで、今日も休日だけど出勤日だったから、心配してたの。でも、本人は大丈夫だってずっと言い張ってて……。それに、あたしがフェスに出ることも知ってたから、いつでも応援してくれてた」
「行ってあげなよ」
綺音の苦しそうな声を聞いているうちにこちらまで苦しくなり、気がついたらそんなことを口走っていた。だけど、間違っているとは思わなかった。
「でも、レンくん。そうしたら、辞退しなくちゃならないかもしれないよ?」
その目の縁に、微かに涙が滲んでいる。しかし、何を言われようと、彼女を母親のところへ行かせてあげたかった。病院の位置まではわからないけど、彼女が往復して帰ってくるだけの時間はあるかもしれない。そう信じたい。
「病院は、どこ?」
「ウチのすぐ近所だから、ここから三十分ぐらい」
「だったら、僕たちはここで待機してるから、君はお母さんのところに行きなよ」
出演時間までは、まだ三時間近くもある。それだけが、今は数少ない救いなのだ。
綺音はいつか、有名歌手になって母親に楽な暮らしをさせてあげたいと語っていた。彼女にとってそんな大切な存在なら、尚のことだ。
「……ほんとに、いいの?」
心配そうに眉を上げて問い質してくる綺音に、僕は頷きつつ、笑いかけた。それを見て安堵したのかはわからなかったけど、綺音も顔を少し綻ばせて頷いてくれた。
「わかった。絶対、戻ってくるから!」
強い語調でそう言い残し、綺音は背を向けるや、控室を駆け出ていった。
やれやれ。名前の通り、最後まで問題だらけのバンドだ。でもきっとそれが、《トラブルサム・アート》なんだろう。これまでも、どんな困難が起きてもどうにかなってきた。だから、そんなに心配することはないのかもしれない。
という、根拠のかけらもない確信を僕は持っていた。