#20 偉大なる先輩
結果的に普段と同じ時間帯に、いつもの駅までの道のりを綺音と並んで歩いていた。
彼女の知り合いから、スタジオを借りられるのなら幸いだが、断られてしまった場合の逃げ道も念のため用意しておかなくてはならない。しかし、それが全く思いつかないのが現状だ。それでも……諦めたくない。諦められない。
不意に、ぴたりと綺音が歩くのを止めた。僕もそれに気づき、彼女の少し前で停止して振り返る。そうすると、綺音が真剣にこちらを見つめながら、こう言い出した。
「レンくん、見てほしいものがあるんだけど」
「何?」
問い返すと、綺音は右肩から下げているバッグのジッパーを引き、左腕を中に突っ込んで透明なクリアファイルを取り出した。
「今日の昼休みにね、みなみ先生に頼まれて部室の片付けに行ってたの。ほとんどは先輩たちがやってくれたみたいだったから、書類とか整理しただけだけど」
ここでようやく、昼休みに綺音が教室にいなかった理由について合点がいった。それにしても、一声かけてくれれば僕も行ったのに。
「それでね、こんなもの見つけたの」
綺音はそう言いながら、数枚の紙の束をファイルから出すと、こちらに渡してきた。
見ただけだと、それが何なのか見当もつかないが、七〜八枚ほどの紙の一箇所がクリップで留められていて、一枚目を見る限り何かの楽譜みたいだった。五線譜が印刷され、その中には音楽記号らしきものが鋭敏な筆跡で記されている。
誰が書いたのだろう。
「上の方……見てみて」
綺音が、やや張り詰めたような声音で言った。言われた通り、一枚目の上部に目線を向けると、そこには曲名らしき文字列が――「カラフル(仮)」とあった。
「これって……もしかして、『COLORFUL』の?」
「そうみたい。原譜。でね、それもそうなんだけど……作詞作曲者のところ、見て」
「え……?」
さらに、僕は右方に視線をずらす。
紙の右端、タイトルの横に《Write》と《Song》の文字が二段に分かれて記載されており、その隣にはそれぞれ同一の名前がローマ字で明記されていた。僕は顔を楽譜に近づけ、じっとその名を凝視した。
――《Yuki Senjo》
目を見張った。綺音は、これを伝えたかったのか。
センジョウ・ユキ。それが、この曲の製作者。
確かに、僕はこの名前に聞き覚えがある。そして、おそらく彼女も。
「……千條ユキ?」
「うん、たぶんね」
まさかと疑いつつも、顔を上げつつ問うと、綺音はゆっくりと頷いた。
「あたしも最初、びっくりした。今日、部室の片付けしてたら偶然見つけたんだ。それで先生にお願いして、コピーをとらせてもらったの。どうしても、君に見てもらいたくて」
驚いたような、それでいて少しだけ嬉しそうな表情で、綺音は話してくれた。だが、疑問はいっそう深まるばかりだ。
「どうして、これを僕に……?」
試しに問いかけてみると、綺音は控えめに首を振った。
「……わからない。だけど、レンくんなら、きっとあたしと同じ気持ちになってくれる。何故か、そんな気がしたから」
やや頬を赤らめ、視線を下にそらしながらそう答えたあと、顔を上げて今度はしっかりと僕を見据えながら、綺音は毅然と言葉を続けた。
「気になったから先生に訊いてみたんだけど、千條ユキってどうもうちの高校出身らしいの。でもあの学校、当時は芸能活動に関して今よりだいぶ敏感だったらしくって、デビューが決まった時に自主退学してるんだって」
ふと、夢乃のことが頭に浮かんだ。彼女も、千條ユキに憧れてアーティストを志したうちの一人だった。小学生の頃、二人きりでライブハウスに忍び込んで千條ユキの生ライブをこの目で観覧したことは、今でも忘れられない。
すると突然、綺音が片手を握ってきた。一瞬、何が起こったのか呑み込めず、まるで何かを探すように僕は首を左右に動かした。
「ど……どうしたの?」
声もわずかに裏返り、動揺が自分でもよくわかる。しかし綺音は僕とは反対に冷静にこちらを見つめながら、軽く首を振ると、柔らかな口調で言った。
「レンくん、ありがとう」
「えっ?」
「歌詞、とてもよかったよ」
「あ……うん、でもまだ、ちょっとだけしか書けてないし……」
「それなんだけど……、明日の昼休みとか放課後とか、もし他の用事ないようだったら一緒に考えない?」
この提案は、僕としても非常に有り難いものだった。昨日、歌い出しの部分はどうにか考え出せたものの、そこからどうやって繋げていいのかわからなくなって、途中から何も書けなくなってしまったのだ。彼女も一緒になって考えてくれるなら、二人の共作として、また違った味わいを出せるかもしれない。
綺音は僕から手を離すと、数歩さがり、再び目尻を下げた。
しかし、
「じゃあ、よろしくね」
と綺音は言ったあと、「あっ、そうだ」と、一歩前に進み出る。
「あと、もう一つ提案なんだけど……」
まだあるのか……。今度は何かと、気づかぬうちに身構えるような姿勢をとっていたのか、彼女は苦笑して続けた。
「そんなに警戒しなくてもいいよ、悪い知らせとかじゃないから。レンくんは今までどおり、ボーカルでよかったよね? 君が嫌ならいいんだけど、あたしも……その……一緒に、歌っていいかな?」
言いにくそうに、言葉を絞り出す綺音。
だが、それは昨日、僕が心の中でわずかに温めていた願望でもあった。彼女と同じステージに立ってともに歌う、というもの。
ただ、同時に、本当にそれでいいのかと蔑むような声で囁くもう一人の自分がいた。何故なら、僕は楽器が弾けないから。他のメンバーとは違い、僕には演奏できる楽器がほとんどないのだ。歌うことしか能がないから、ボーカル専門に回るしかない。
ボーカルは身体が楽器だ。バンドの演奏に合わせ、歌を奏でることしか、現時点での僕にはできることがない。綺音はちゃんとギターを弾き鳴らせるし、ボーカルまで兼任させるのは心苦しい。それにその分、練習量も増えるし、負担も今より大きくなるだろう。
ここは、断った方が賢明なのかもしれない。
「……ごめん。やっぱり、君にそこまでの負担はかけられないよ。ボーカルは、僕だけでやるから」
「ううん、誤解しないで。そういう意味で言ったんじゃない」
鋭い声が、耳の奥にまで響いた。
「あたしは、歌うことが好きなだけだよ。君みたいに。別に君の楽しみを奪おうとしてるわけじゃない。それはわかって。だから、言いたいのはつまり、同じ曲を二人で歌った方が楽しいんじゃないかなって、それだけ。
確かに、ボーカル専門のメンバーがいる中でツインボーカルっていう形式をとってるバンドは珍しいかもしれない。それでも、あたしは君と歌いたい。二人で作った、この世界にたった一つの楽曲をね」
綺音の眼は、これまでに類を見ないほど輝いて見えた。彼女は本気だ。その思いは、素直に受け取らなければならない。同朋……とはちょっと意味が違うけど、それに近い仲間として、可能な限り彼女の思いを尊重したい。いや、しなければならない。
「ありがとう」
その一言に、全ての意味を込める。
綺音は納得したように、微笑んでくれた。先程よりも、優しさを顔いっぱいに湛えた、そんな麗しげな表情。
「頑張ろうね、レンくん。絶対に成功させよう!」
それは、目標を改めて確認し合うための言葉のようにも聞こえた。
――絶対に、成功させる。
僕も胸中で、新たなる誓いを立てるのだった。
――――
帰宅後、綺音から交渉が終了したという連絡が来た。無事にスタジオを貸してもらえることになったと聞いて、僕は心底安堵した。早速、打山くんにも連絡を入れ、綺音から聞いたことをそのまま伝えた。
明後日からフェスの前日まで毎日借りられることや、使用許可時間は夕方五時から七時までということ、そしてその時間帯は貸し切りで使わせてもらえることなどを、簡潔に説明した。
打山くんも他の二人との交渉が終わったらしく、正式にメンバーになってくれたそうだ。
もう時間がない。今はできる限りのことをしよう。そして、必ずライブを成功させよう。綺音のためにも、夢乃のためにも。