#17 諦めない心、新たな決意
綺音のことが再び心配になったのは、帰りの電車の中だった。担任の先生から聞くところによれば、自宅からは何の連絡もないらしい。
帰宅し、僕はどかっと床に座り込んだ。通学するだけでも疲れるのはいつものことだが、今日は特に疲労していた。
しばらく呆然としたあと、よし着替えようと立ち上がった。その直後。
ピンポーン、とチャイムの音が聞こえた。あれ? と僕は開いたドアの隙間から覗く廊下に視線をやる。こんな時間に来るとしたら、書留か宅配便だろうか。両親はまだ帰ってきてないし、僕が出るしかない。
部屋から出ると急いで階段を駆け下り、玄関に直行。立ったまま靴を履いて、戸を押し開ける。しかしそこにいたのは、郵便配達の人などではなかった。
少し茶色がかった、ロングポニーテール。右肩に学校の制定鞄をかけ、薄灰色のチェックのスカートの襞を指先で弄りながら、門の前に佇んでいる。
何故、綺音がここにいるのか、そしてどうして制服姿なのかわからなかったけど、すぐさま僕は彼女のもとに駆け寄った。
「どうしたの」
「レンくん、ちょっといいかな……」
何か言いたそうにもじもじとする綺音の頬は、ほんのりと赤みを帯びている。
どんな用件で彼女が家にやって来たのか、今のところ全くわからないけど、中で話を聞こうと彼女を促す。
「まあ、上がってよ」
綺音を自分の部屋まで連れ込むと、ドアを閉めた。今日の彼女は行儀がよく、床にちょこんと正座した。
僕も綺音の正面に腰を下ろすと、彼女はしばらく顔を上げず、じっとしていた。そこに、妙に違和感があることに気づく。思ったことをズバズバと言う、いつものあの綺音の性質は微塵も感じられない。何かがおかしい。
「どうしたの……?」
綺音は何かを警戒するかのように二回ほど左右に目を動かしてから、こちらに顔を向けて話し出した。
「あたしね、昨日のこと、今日一日ずっと考えてて……。やっぱり、こっちも悪かったのかなって。それまでは、向こうが喧嘩売ってきたから、ただ反発しただけだって思ってたけど……普通に無視すればよかったのかなって。それで、先輩や先生にも迷惑かけて……って思うと、とてもやりきれなくて。だからさっき、学校に行って先生と会ってきたの。先輩たちはもう帰っちゃってたけど、先生にだけでもって思って、謝ってきた」
学校を休んでいた綺音が制服姿だったことについて、ここでようやく得心がいった。
綺音もきっと、優しい言葉をかけられたに違いない。今日、みなみ先生の心の寛大さを改めて思い知らされた。いつも明るく振る舞い、寛容で、人を鼓舞するのが上手い。学校法人において、最も必要な人材だとも思える。
「それでね、活動停止のことも聞いたんだけど、何とかできないかなって思って」
「何とか……って……?」
「うん。活動停止っていうとね、部室も使えないし、隠れて活動してるところが見つかったら活動停止期間がさらに伸びるっていう仕組みなんだって。けど、それはあくまで部活としての制限であって、個人で活動する分にはいいらしいんだ」
部活としての制限……? 個人……?
「ど、どういうこと?」
「ごめん。もう少し噛み砕いて言うとね、部活という括りではフェスに参加できないけど、個人でバンドを組んで参加することは自由なんだって。そこまでは学校も介入できない。元々、原則芸能活動禁止っていう校則には触れてなかったから、プライベートで出ることはできるんじゃないかと思ったの」
つまり、「軽音部」として出ることはできないが、個人での出演は可能ということか。ただ、次に口をついて出たのは、当然ともいえる疑問だった。
「君は……そんなにしてまで出たいの……?」
ベギー先輩も、ジュリエット先輩も、「諦める」とは口に出さなかったものの、今回はもう無理だと悟ったような様子だった。みなみ先生も、「次がある」と皆を励ましていた。当然、綺音も諦めるものだと思い込んでいた。
綺音は僕の問いかけには答えず、思いつめたような面持ちで視線を伏せる。そしてそのまま、淡々と話し始めた。
「小学校の時、お母さんのパソコンでよく遊んだりしてたんだけど、ネットを見てたら、偶然ある動画を見つけたの。
そこには、あたしよりも小さな女の子が映ってて、ギターを弾きながら歌ってた。それがすっごく楽しそうで、それ見て、あたしもこの子みたいに歌ってみたいって思った。だから、お母さんにお願いしたんだ。
小さい頃にお父さんが事故で亡くなって、質素な生活してたから、初めのうちは向こうもすぐに諦めるだろうって聞き流してる感じだったけど、それでも必死に、泣いてお願いして、そうしたらお母さんも仕方なさそうに、ギターを買ってくれた。
それから、独学だったけど毎日練習して、自分でもびっくりするくらい、熱中した。それで、あたしも動画の投稿を始めたの。だけど、もしあの動画を見なかったら、あの子のことを知らないままでいたら、きっと今のあたしはいないと思う。あの子が……歌うことの楽しさを教えてくれたから」
毅然たる口調でそう話し、顔を上げた綺音の瞳には、涙が溜まっていた。きらきらとして、敢えて月並みにたとえると恋愛ソングの主人公のような、そんな涙だった。
綺音はブレザーの袖で涙を拭い、姿勢を改めてこっちを見つめながら、言った。
「君は驚くかもしれない。でも、これだけは言わなきゃって思ってた」
「えっ?」
綺音の不意をつくような発言にはこれまでにも何度か驚かされてきたが、今回はまた一段と唐突だった。しかし、彼女の顔は至って真面目だ。彼女は一体、これから何を話すつもりなのだろう。
「あたしが動画の中で出会った女の子は、歌も上手だったけど、何より音楽そのものを楽しんでた。……そんなふうに見えたの。それからも、その子の動画を見続けて……今でも見てる。その子の名前は――暁、夢乃」
その名を耳にした瞬間、頭の中がぼやけて、意識が遠のいてしまいそうなくらい動揺した。
「驚くのも無理はないと思う。あの子の動画、君の部屋で撮ったんだよね? この前、ここに来た時、そうなのかなって……。でも、気づいてはいたけど、君にまた辛い思いをさせちゃうんじゃないかって思ったら……なかなか言い出せなくて。ごめんね」
綺音の目に、さらなる涙がにじむ。二筋の水滴は彗星のように流れ落ち、つややかな頬を伝って彼女の膝の上に落ちた。涙声になりながらも、彼女は続けて話してくれた。
「……去年ぐらいから、しばらく動画の更新が途絶えてたからまさかって思ったけど……そんなこと有り得ない、きっと忙しくて投稿できてないだけだ、すぐに帰ってきてくれるはずだって信じて、ずっと待ってた。でもこの家に来た時、君の言ってたこと思い出して……あたし、どうしていいかわからなくって……」
耐えきれなくなったのか、綺音は両手で顔を覆った。しかし、それを見ていると僕は不思議と嬉しさが込み上げてくるのだった。ここは、綺音の気持ちに寄り添って、一緒に泣いてあげるべきところかもしれない。それなのに、何故か、喜びが先立ってしまう。
僕や両親の他にも、夢乃のことを思って泣いてくれる人がいたのだ、と。フォロワーが少ないながらも、毎日動画を投稿し続けていた夢乃の努力が今、報われたのだ。だが、同時にこんな言葉も聞こえてくるようだった。
――ダメだ、僕らが泣くわけにはいかない。夢乃は、もう泣くことすらできないんだ。僕らが泣いてちゃ、いけないんだよ。
気がつくと、僕は無意識に右手を伸ばし、綺音の肩にそっとその手を添えていた。宥めるように軽く撫でてやると、少し落ち着いたのか彼女は顔を覆っていた両手を下ろし、濡れた頬を僕の方に向けてきた。
「あたし、やっぱりこのまま諦めたくない。お願い、あたしとバンドを組んでほしい」
泣き止んだかと思うと、決然たる調子で綺音は続ける。彼女のそんな言葉に、ついドギマギしてしまう。何と返事するのが正解なのだろうか……と、頭を悩ませる。
出たくなくなったわけじゃない。むしろ出たい。でも、今から仲間を集めて、練習して……となると、十日どころの騒ぎではない。短く見積もったとしても、確実に一ヶ月はかかりそうだ。こんな危機的状況の中で、無理な依頼だとも思えてしまう。
ここは断った方が賢明だろうな……と考えていた矢先、綺音が言葉を継いだ。
「そのための曲も持ってきたの」
「……曲?」
「そう。今日、先生から聞いたんだけど、【COLORFUL】の使用権は軽音部だけが所持してて、使うってなるとお金の問題が絡んでくるのね。だから、オリジナル曲で勝負しようと思って」
つまり、これまで練習してきたあの曲を、軽音部としての権利を一時的に剥奪されている僕らが使用したいと言えば、著作権云々の問題が発生するということだろう。そうなると、ますます状況が困難になるし、新しい曲をこんなに短期間で覚えられるとは到底思えない。
だけど――
「いいよ。君がやりたいなら、僕は歌う」
自分でも、なんでこんな返答をしてしまったのかよくわからない。ただ、なんとなく、これだけはわかったような気がする。
単純に、僕は歌いたいのかもしれない。それと同時に、僕の中で小さな願望が生まれる。
「もう時間がないけど、やれるだけやってみても……いいんじゃないかな。もし失敗しても、恥をかくだけで、学校の迷惑にはならない……と思う」
「……ありがとう、レンくん」
綺音は恥ずかしげにやや頬を紅潮させ、微笑んだ。彼女にもこんな可愛らしい顔ができるんだと思うくらい、それは無垢な子供のように明るい笑顔だった。
「それでね、レンくんにもう一つ、お願いがあるの」
綺音は、自分のスクールバッグから何かを取り出し、それを僕に見せる。
透明なプラスチック製の薄いケースに収納された円盤。表面が白いラベル紙でコーティングされ、油性ペンで《No title》と書かれたテープが上部に貼られてある。
「レンくん、言ってたよね? 妹さんの曲に詞をつけてたって」
「う、うん……」
戸惑いながらも、僕は首肯する。何故そんなことを尋ねてくるのかはわからないけど、確かに夢乃が作る曲のほとんどの作詞は、僕が担当していたのだ。
「これ、まだ曲だけで、歌詞が入ってないの」
即座にその言葉の意味を理解し、ドキリと僕の心臓は跳ねる。……まさか。
少し間を置いてから、綺音はこう続けた。予想に反しない言葉であった。
「君に歌詞を書いてほしい。あたしも、君の書く歌詞が好き。話を聞くまでは、歌詞もあの子自身が書いてるのかと思ってた。でも、違ったんだ。あの子には、頼れる共作者がいた。あたし、あの子の歌声に、君の歌詞に、何度も救われたんだよ。それだけは、変えられない事実だから」
また、彼女の片方の眦から一粒の涙がこぼれ落ちる。
高校に入ってから、歌うことはなんとか克服できたけど、詞を書くことにはやはりまだ抵抗があった。きっとまた、あのことを思い出してしまうから。
ただ、夢乃に対して申し訳ない、という気持ちもあった。夢乃自身も、何故か僕の書く歌詞をリスペクトしてくれていたから、妹のために……という言葉がいつしか、心の中で花咲かせる。
「わかった。僕でよければ、やるよ」
「本当? ありがとう!」
嬉しそうに綺音は笑う。その顔が、妹の笑顔と重なった。
「それで……、実はもう一つ相談があるんだけど……」
綺音が落ち着いたトーンで再び話し始めるので、僕はディスクを眺めていた顔を上げた。
「バンドメンバー、二人だけじゃ少ないから集めないといけないんだけど。明日、ベギー先輩たちに声かけてみようと思うの」
そう言われれば、確かに重要な問題だ。これから結成するであろうバンドは本来、軽音部とはもう関係がないのだから、全く同じメンバーである必要性はないが、正直、あの二人くらいしか思い当たらないのも、またどうしようもない事実なのだ。
ただ、僕が内心で最も恐れている点があった。
「だけど……OKしてくれるかな。第一、新しくバンドを組んでくださいって言っても、秒で断られるのが関の山じゃない?」
ベギー先輩に至っては、口を開く前に断られる可能性すらある。ジュリエット先輩なら、考えようによっては承諾してくれそうだけど、期待度は低い。
「まあ、無理そうなら他の子にお願いするか、二人だけでやることになるね」
最後に綺音は、
「でも、あたしは諦めないから」
と言った。その目は爛々と輝いていた。まさしく、本気モード。こっちもそろそろ、覚悟を決めないといけないのかも。
明日、僕も何人か知り合いに声をかけてみよう。今は、自分にできる限りのことをやろう。
綺音が帰ったあと、早速、彼女から借りたCDをケースからそっと取り出し、かけてみた。
アコースティックギターのイントロが、両方のスピーカーからゆったりと流れ始める。ほとんど編集されていないのか、ところどころに雑音が混じり、コードチェンジの際に指が少しフレットに触れる音などがわずかに聞こえる。
再生してから十数秒後、ギターの伴奏に綺音の澄んだ歌声が加わる。歌声、というよりも、メロディーだけを口ずさんでいるのだ。
《らららーららーららららー》
曲調はゆっくり目で、少しバラードっぽい印象。水晶玉のように透き通った彼女のボーカルはやはり、今売れているアーティストにも引けをとらないのではないか、と思わせるほどの魅力がある。
これを僕ひとりが歌うには、少々もったいないんじゃないかな、という考えがふと頭を過ぎった時、綺音が帰る前に心の隅に芽生えたささやかな願望が、一気に花開いた。
――この曲を、彼女と一緒に歌いたい。




