#14 衝突
五月の連休も終わり、フェス当日まで二週間を切った。連休中も定期的に部室に集まり、皆でセッションを行った。
今日のセッションでは顧問のみなみ先生も招き、部員の現時点での演奏技術の進捗発表会じみたことをやっている。
「わぁ、だいぶ上達したね! この調子なら、重音部にだって引けをとらないと思うよ!」
先生もたいそうご満悦のようで、演奏が終わると同時に手を叩きながら褒め称えてくれる。今回のフェスに勝ち負けという概念はないはずだけど、いつの間にかフェスで重音部と対決でもやる体になっているのが少し気にかかる。
先生は、基本的にダメ出しなどはしない。それが優しさからなのか、評価を部員自身に一任しているのか、本当に軽音部の演奏が完璧だと思ってくれているのかは、今のところ定かではない。
「じゃあ、もう一回だけ合わせてから、あとは個人練にしようか」
ジュリエット先輩も相変わらずのスイートボイスで、そう声をかける。
最後にもう一度、『COLORFUL』を皆で合わせる。今では歌詞も完璧に暗記し、間違ったり詰まったりすることはあまりなくなった。
この日も特に問題はなかったらしく、演奏が終了すると、これで解散という流れになった。
校舎を出て、駅までの道を並んで歩き始める。
駅が近づいてきた時、また不意に綺音が口を開いて、こんなことを言い出した。
「そういえば、フェスの日って中間テストの一週間前なんだよね。レンくん、勉強してる?」
彼女の声の内容が、僕の足を止めた。
……そうだった。彼女の言う通りフェスの日を過ぎれば、休む間もなくテスト期間だ。
最近は、練習やセッションのことしか考えられず、テスト勉強はおろか、授業すらもろくに集中して聞いていなかった節がある。
「あっ、さては勉強してないんだ?」
ヤバい雰囲気が顔にも表れていたのか、即座に図星を指され、少々たじろいだ。
「で、でも、まだ三週間くらいあるし、なんとか……」
「そう言うけどね、先輩たちも一年生の最初のテストはけっこう難しかったって話してたよ」
そんなこと、いつ聞いたんだ? いや、中学のテストより難しいっていうのはわかるけど、三週間も前から勉強しなくちゃならないほど厳しいものなのだろうか?
「そうだ。駅前に雰囲気のいいカフェがあるから、あたしこれからそこで勉強しようと思うんだけど、よかったら君も一緒にどう?」
さり気なく誘ってくる綺音。
ん? これは貴重な機会ではないか? 女の子と放課後に一緒にカフェで勉強できるなんて、それもなんか青春っぽいし。
こくっ、と迷うことなく首肯する。
店の中は夕方にしては空いており、空席がいくつもあった。
綺音はよくここに来店しているのか、店員にいつもの笑顔で「二名」とだけ告げると、何の躊躇もなく堂々たる足取りで奥へと進んでいく。窓際の角の席を陣取ると、ソファー式の席に鞄とギターを下ろし、窓に背を向けて腰掛けた。
僕も、なんとなく落ち着かないながらも、彼女の向かいの椅子に座る。
程なくして水が運ばれてくると、店員が注文を訊いた。僕は、適当に「オレンジジュース」と伝え、綺音はホットコーヒーをオーダーした。
店員が下がっていくと、綺音は隣に置いた鞄からノートや教科書、筆記用具を出し、それらをテーブルの上に置いた。
しばらくして注文したものが運ばれてくると、僕と彼女はそれを飲みながら勉強することにした。その時には気まずさも多少和らいでいて、わからないところを綺音は丁寧に教えてくれた。彼女は、勉強もそこそこにできるようだ。
一段落つき、ふと顔を上げるといつの間にか外はもうかなり暗くなっていた。もうすぐ親が家に帰ってくる頃だ。僕もそろそろ帰らないとと思い、綺音に向かって声をかける。
「今日はこの辺でやめない? 外も、だいぶ暗いし」
「うーん。あたしはまだ大丈夫だけど、君が言うなら仕方ないか。じゃあ、今日はここまでにして、また明日にでも来ようか」
綺音は教科書をたたんで、飲みかけのコーヒーカップに手を伸ばした。その時。
「よう、お前ら。こんなとこで何してんだ?」
近くから、急に声がかかった。
どこかで聞いたことのある声だった。嫌味の色がこもった、ロートーンボイス。
まさか……と思いながら振り向いてみると、その予感は残念なことに的中していた。そこには、長髪でよく日に焼けた男子、猪爪の姿があった。少なくとも、フェスまでは僕の最も会いたくなかった人物だ。彼の後ろには、打山くんともう一人の重音部員――確か、名前は小鳥谷くん――が控えるようにして立っている。
こんなところで会うなんて思わなかった。もしかして、彼らも勉強しに来たのだろうか?
猪爪は僕の隣の席に腰掛け、
「実はさ、DMFには俺らのバンドが出演することになってよ」
と、誰に聞かれるともなく切り出した。すると、先程から無言だった綺音が口を開いた。
「そう」
愛想のない返事に、猪爪は不機嫌そうに眉をひそめたが、
「それでだな、今日はお前らに提案があんだよ」
そう続けた。それを聞いて、嫌な予感がしたのは僕だけだろうか。いや、多分違う。綺音の反応は? ……表情ひとつ変えていなかった。
「それで、提案って何?」
綺音の語調は至って冷静だ。さすが、肝が据わっている。
「ふん。相変わらず、つっけんどんな受け答えだな。調子乗ってんじゃないだろうな? お前の正体が《AA》ってことくらい、みんな知ってんだぞ?」
そこで、綺音はわずかに、片方の眉をピクリと動かした。
「もしそうだとしても、決定的な証拠がなくてあたしが肯定しなかったら、学校の先生たちは目を瞑ってくれるはずでしょ?」
動揺するようなことを言われても尚、猪爪からの挑発を軽く受け流す綺音。僕だったら彼に睨まれただけでも萎縮してしまうのに、その姿勢は尊敬に値する。が、しかし。
このままでは埒が明かない。というか、本当に、彼の言う「提案」って何だろう?
「猪爪くん」
「ん、何だよ?」
猪爪は、煩わしそうにこちらを振り向く。その目にも強い光が宿っていて、怯みそうになるが、なんとか用件を聞き出そうと試みる。
「さっき言ってた、提案って何なの?」
「おぉ、そうだった」
猪爪は再び綺音に向き直り、後ろの二人を顎で示しながら話し出した。
「こいつらと一緒に帰ってたらさ、ここで仲良くお勉強してるお前ら見つけたんだよ。だからついでに立ち寄ってみたってわけだ」
傲岸極まりない態度で腕を組み直し、さらに猪爪は言葉を続ける。
「でな、さっきの話だけど、今度のフェス、俺らのバンドが出演することになったって言ったじゃん? 調べたところ、同じ学校からは一組しか出られねえっていう制限があるみたいなんだよ」
「……それで?」
綺音が結論を促すのを、僕は正面から固唾を呑んで見守った。しかし、聞かなくても猪爪が言わんとすることは予知できた。これは予想というよりも、限りなく確信に近いものだった。多分そうなんだろうな、と。
「DMFへの出演、辞退してくれないか?」
やはり、当たっていた。彼らは自分たちが出演するために、軽音部に辞退させるつもりだったのだ。とは言っても、「一学校につき一組まで」という話は、僕も初めて聞いた。先輩たちもそんなことは一切言ってなかった。
「どうする? ん?」
猪爪は綺音に、海賊映画の悪役のごとき口調で言った。しかし、それで簡単に頷く綺音ではなかった。
「なんで君たちのために辞退しなくちゃならないの? そんな話、聞いたことないし、きっと君がでっち上げたデマか何かじゃないの? あたしたちのこと、気に食わないだけだよね?」
「デマなんかじゃねえ。ほんとにそう言われたんだ。なんなら、今から先輩に電話して訊いてやってもいいんだぞ?」
互いに黙り込み、睨み合う二人。またしても、二人の間で見えない火花が盛大に散る。この状況をどう打破すればいいか、苦慮してしまう。ここはやっぱり……。
そっと背後に目をやると、後ろの二人も困ったような顔を見合わせている。打山くんが先に僕の救援依頼の視線を察知してくれたようで、一歩進み出て場を支配していた沈黙を破った。
「今年から、出演条件が大幅に改正されたんだとよ。公式サイトにも隅っこの方に改正応募条件として掲載されてる程度で、初めは誰もその存在に気づけなかったらしい」
同一校から一組だけしか出演できないのなら、軽音部か重音部、どちらかしか出られないということになる。ここに来て、厄介な問題が発生してしまったものだ。
続いて、猪爪が綺音の顔色を窺うようにこう言った。
「軽音部も最近は勢力を取り戻してるらしいが、ロックのことをまるでわかっちゃいねえ。ロックっていうのは、崇高たる叙情的なメロディーで、聴くやつ全てを震撼させるものだ」
「ロックだけが音楽じゃないもん」
綺音も負けずに食い下がる。しかしその通りだ。音楽にも色々あるし、互いに協調することだって大切だ。それでも、相手も簡単には引き下がらなかった。
「前にも言ったが、お前らの音楽はロックじゃない。そもそも最近まで活動してなかったくせに、俺らの邪魔をすんじゃねえよ!」
「ふーん、よく言えるよね、そんなこと。君たちのいる重音部だって、去年発足されたばかりでしょう? 今や天下の重音部みたいに言われてるけど、新設間もない部だし、それにまだ他の部活に比べれば部員数なんて――」
綺音が言い終わる前に、ドン! と猪爪はテーブルを強く叩き、怒声を発した。
「うるせえ!」
店員や他の客からの視線が、こちらの一角に集まるのを感じた。
「そこまで言うなら教えてやる。俺たちは本気でプロを目指してるんだよ。お前らみたいな、お遊びでやってるんじゃねえ」
「べつに、こっちも遊びじゃないんだけど?」
「こっちからはそうとしか見えないな」
綺音は毅然とした目線を保ったまま、ゆっくりと姿勢を正した。
「要は、感じ方は人それぞれだってこと。あと、その髪型、やめた方がいいよ。似合わないから」
「あん?」
猪爪は、鬼のような形相で彼女をねめつける。今にも怒り狂い出しそうな彼の表情を見て、全身に戦慄が走る。
「バンドマンに憧れて髪染めたり伸ばしたりしたいっていう気持ちはわからなくもないけど、君だとただの不良にしか見えないもん。とりあえず、今のところこっちに辞退する気はないから、先生にもそう伝えておいて」
席を立とうとする綺音の前で、猪爪はとうとう爆発したように、
「てめえ!!」
と怒号し、綺音の方に手をつき出すと、それによってコーヒカップが弾かれた。ひっくり返ったカップから茶色い液体が四方に飛び散り、その飛沫が綺音の制服や教科書、そして彼女がとても大事にしているギターバッグに付着した。
そこで、綺音の表情が一変する。
直後、僕が予想していなかった事態が起こった。綺音が立ち上がって猪爪に近づいていき、彼の頬に平手打ちを食らわせたのだ。
背筋が凍る。二人の周囲を、殺伐とした空気と慄きが包んでいくのが目に見えてわかった。
「……何しやがる!」
猪爪が綺音に掴みかからんばかりに接近しようとするので、それを打山くんと小鳥谷くんが彼の腕を掴んで制止した。そのまま、強制的にカフェの外へと連れ出す。その間、猪爪は声を荒げて何かを叫んでいたが、僕はたった今目の前で起こったことがにわかには信じられず、その内容までは聞き取れなかった。
無言の綺音を前に、僕は何と声をかけていいかわからない。いや、でも何故、あんなことを言ったのかくらい問い詰めても許されるだろうか。あまり責め口調にならないように。
「……なんで、あんな、挑発するようなこと言ったの?」
「だって、ムカついたから」
憮然と答える綺音。しかし、言われてみればそれには同意せざるを得ない。一方的に軽音部の音楽を批判され、しかも否定された。僕も腹が立たなかったといえば嘘になる。
それにしても、これから本題について考える必要があるのだけど、何かいい策はあるだろうか。
「どうしよう。打山くんたちの言ってたことが本当だとすると、どっちかが辞退しなくちゃならなくなるけど」
「とりあえず、明日にでもみなみ先生や先輩たちに報告してから、今後のことを決めたらいいと思う。あの分だと、重音部もなかなか引きそうにないし、徹底的に討論するしか方法はないかな」
……いけるのだろうか? という、果のない不安が脳裏を駆け巡る。ただ、綺音の言うように、今は話し合うしかなさそうだ。
僕も闘おう。今の軽音部は活動再開前とは違うのだということを、何が何でもあいつ(猪爪のこと)に教えてやらなければならない。実際、これまでほぼ毎日、授業が終わってから最終下校時刻になるまで、練習に打ち込んできたのだ。それを無に帰すのは、気が咎める。いや、絶対にしたくない。
「僕も、できる限りのことはするよ」
口をついて出たのは、そんな台詞だった。綺音も僕と目を合わせると、先程の暗い表情から笑顔を取り戻し、決然と頷いた。
明日から、新たな闘いが幕を開ける。結果はどうあれ、逃げずに戦うしかない。それが唯一、僕にできることだと思うから。
――と、意気込んでいた矢先。
軽音部及び重音部の活動停止処分の沙汰が下されたのは、その翌朝のことであった。