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#13 辛い過去と美しき思い出

前回のつづきです。

 ジュースを載せた盆を抱えたまま僕が部屋のドアを開くと、綺音はまた、座ってギターのチューニングをしていた。暇さえあれば……といったところだろうか。


 僕が入ってきても、集中しているのか、顔を上げることなく自分の指だけを見つめている。


 僕は盆をそっと床に置き、コップを一つ取って綺音の横に置いた。それでも尚、彼女は調律に夢中のようであった。


 これは、話しかけない方がいいのかな? いや、でも、それはちょっとよくないか。綺音がコップの存在に気づかないままそれを倒して、部屋の中がジュースまみれ……みたいなことがないとは言い切れないし、声はかけた方がいいだろう。


「あの、綺音さん?」


「どうしたの?」


「ジュース、持ってきたんだけど……」


「あっ、ごめん!」


 綺音は、そこで初めてそれの存在に気がついたような顔をし、ようやく手を止めてコップを手に取り、グビグビと飲み始めた。


 それを見て、僕も一安心する。彼女の隣に腰を下ろしてジュースを飲み、渇ききった喉を潤した。ずっと何も飲まずに発声していたから、普段の三倍ぐらい美味しく感じる。


 綺音もほっと一息ついたように、


「ふぅ、美味しい」


 と、呟いた。


 幸福そうな彼女のその横顔に、またもや僕は心を奪われそうになる。すると、綺音が不意にこっちを見てきたので、慌てて目線を逸らした。


 誤魔化すために、何か別の話題を探す。そうしていると、綺音が再び声を発するのだった。


「レンくんも、妹さんとあんな風にセッションしてたの?」


 まさか、妹の話を振られるとは思いもしなかった。確かに先程、歌ってる最中に夢乃のことを何度か思い出していた。こんな風に、夢乃のギターに合わせて色々な曲を歌っていたんだよな……と。


 綺音も、知りたいのだろうか。確かに詳しい話はまだあまりしていないし、僕も以前ほどその話をするのが苦じゃなくなったから、話してもいいかもしれない。


 しかし、綺音は夢乃のことを知って、どうしようというのだろうか。ただの好奇心からなのか、それとも……。


「もしかして……まずい話題だったかな?」


 隣に目を向けると、綺音の大きな黒い瞳が、真っ直ぐに僕を見据えている。


「いや、そんなことはないけど……」


 さっきより、気持ち鼓動が速くなっているように感じる。少し、動揺しているようだ。


「あたし、君の妹さんのこと、ずっと気になってたんだよね」


 言葉を続ける綺音の顔を見るに、直感ではあるが、好奇心だけではなさそうだった。そうは言うものの根拠が何もないので、ただの勘違いという可能性が高い。


 僕は顔を前に向け、何から話そうかと迷いながらも、まずは妹の経歴(といえば少し違和感があるけど)から話し始めることにした。


「妹が初めて自作品をネットに上げ始めたのは、あいつが小三くらいの時だったかな。歌と曲作りに関しては驚くくらい、才能があったと思う」


「それで、どんな曲を作ってたの?」


「君と同じ、千條ユキの大ファンで、いっぱい影響を受けてた。あまり大きな声では言えないけど、ライブに潜入したこともあるんだ」


「潜入?」


 綺音が、訝しそうな声で尋ねてくる。


 もう六年くらい前になるだろうか。妹がある日、ライブハウスに忍び込もうと言ってきたのだ。チケットも当時としては高かったし、二人のお小遣いを足し合わせても敷居が高かった。もちろん僕は反対したが、夢乃が目に涙を溜めながら必死に懇願してくるので、仕方なく付き合ってやることにしたのだ。


 まだ、千條ユキがデビューして間もない頃だった。


 ライブハウスの裏口から侵入に成功し、こっそりと立ち見席から見ていたわけだが、圧巻の歌唱力によって刹那のうちに魅了されてしまった。「来てよかったでしょ?」なんて隣から夢乃が言ったのを、今でも鮮明に覚えている。


 ところが、やはりと言うべきか、結局スタッフに見つかって逃げる間もなくつまみ出されてしまった。親を呼ばれ、その夜、二人でたっぷりと説教を受けた。しかし、夢乃は笑っていた。僕の方が泣いていた。


 夢乃曰く、「思い出に残ったからいい」ということだった。昔から、彼女はポジティブ思考の持ち主だったのだ。


 改めて思い返してみると、なかなかとんでもないことをしていたようだ。そんな追憶に耽りながら話していると、ふと横から弦を弾く音が聞こえた。


 隣を見ると、綺音がチューニングの続きに入っている。


 あれ、退屈だった? と、やや不安になる。


「あの〜……」


「えっ、何?」


 綺音は顔を上げて、再びこちらを向く。


「今の話……聞いてた?」


「ええっと、何の話だっけ?」


 唖然だった。これ、彼女の中では当たり前なのかな。


 しかも、君から話を振ってきたんじゃないか。君が「妹について知りたい」って言ってきたんじゃないか。個人的には、けっこう恥ずかしいこと話してたと思うのに……。


 ……まあ、ライブ会場に忍び込んだっていうのは僕が勝手に始めた話だから、あまり責められないけど。それでも、スルーされてたと思うとちょっと悲しい。君は人の話を聞かない。


「それより、レンくんって憧れの人とかいるの?」


 またしても、そんな質問を唐突に投げかけてくる綺音。


「憧れの人……?」


「うん、君が一番尊敬してる人。あ、もしかして妹さん?」


 まあ、僕は夢乃のことを昔からずっと尊敬している。それは今でも変わらない。僕よりも優れているところが多かったし。だけど、あれは「憧れ」だったのだろうか。


 尊敬と憧れは似て非なるものだ。いくら憧れたところで、自分はその人になれない。


「憧れてる人は……今のとこ、特にいないかな。……君は?」


 試しに問い返してみる。綺音が憧れを抱く人といえば、音楽関係の大物か、有名ミュージシャンとかだろうか。


 しかし、返ってきた答えはこうであった。


「あたしも特にいない。いるにはいるけど、その人はたぶん、もういないし」


 意味深な発言に、僕は首を傾げる。「もういない」とは、どういうことなのだろう。


 もうすでに亡くなっている、という意味か、音楽業界自体を引退している、という意味か。さっぱり理解できないが、これ以上は深掘りしない方がいいようにも思える。もしも前者だったら、僕と同じであまり深く追及されたくないだろう。


 しかしそれ以来、会話が続くことはなかった。やっぱり、訊いておいた方がよかったかも。


 一分以上沈黙が続いたあたりから、両者の間に徐々に気まずい空気が漂い出す。それに危機感を覚え、どこかにいい話題が落ちていないかと、思考を巡らしてみる。


 すると、綺音が卒然と立ち上がった。僕は、咄嗟に彼女を見上げた。


「妹さんの部屋、どこ?」


 振り返りざま、綺音がそう尋ねた。またまた何の脈絡もなしに切り出すので、少し混乱しつつも、どうにかして返答する。


「こ、ここの隣だけど……?」


「よかったら、見せてほしいんだけど。ダメかな?」


 綺音が何をしたいのか、イマイチ読めない。ただ、断るのもなんとなく申し訳ない気がしたので、綺音のリクエスト通り、彼女を夢乃の部屋まで案内してあげることにした。


 それにしても、「妹の部屋はあるか」という質問を省いて「妹の部屋はどこか」と尋ねてきたのは、どういった料簡か。夢乃にも専用の部屋があるという確信があったのだろうか。それなら、どうして知っているんだろう?


 いくつもの疑問を抱きながら、夢乃の部屋まで来るとそっとドアを押し開けた。当然だが、中は薄暗く、カーテンも閉まってある。


 今では滅多に立ち入らなくなった部屋。ドアを開けることも未だに躊躇してしまうその部屋は、今日も今日とて変わらぬ静寂を保っていた。


 ベッド脇の小窓の下に、臙脂色の革製のギターバックがちょこんと立てかけられている。綺音のギターとほぼ同じサイズのそれに、彼女は真っ先に興味を示したように、部屋に足を踏み入れた。まるで、お互いが強力な磁力によって引き合っているようだった。


 綺音が物静かな足取りでギターに近づき、ファスナーの部分を指でなぞったりして、肌触りを確かめるような仕草をしていた。


「これ、妹さんの?」


「そうだよ」


「中、見てもいい?」


 綺音がこちらを振り向きながら尋ねてくるので、僕はやや戸惑ったものの、それくらいならいいかと許可した。


「いいよ」


 綺音がバッグを開けると、艶のあるボディーを持ったギターが顔を出す。おそらく、綺音の使っているアコギと全く同じタイプのものだ。


 異なる点を上げるとすれば、色くらいか。綺音のギターがオーソドックスな薄茶色――いわゆる原材料の木材本来の色なのに対し、夢乃のギターは濃いピンク色。これを始めて見た時は、かなり衝撃を受けたものだ。こんな色のアコースティックギターがこの世に存在したのか……という感想を、僕は第一に持った。


 綺音が親指で弦を弾き、ギターを鳴らした。


「ねえ、レンくん」


「どうしたの」


「このギター、あんまり音程がずれてないね」


 綺音はボディー部分を撫でながら、言う。


 夢乃がいなくなってから、このギターがバッグから取り出されたことは一度もない。


 あの日以来、ずっとそのままだったんだ。僕はギターを弾けないし、弾こうとも思わなかった。売ろうかと両親は相談していたが、僕は断固として反対した。弾けないのに、と自分でも思ってはいたが、これは大切な妹の形見なのだ。


 数秒間、綺音はギターの表面に指を走らせていたが、やがてぽつぽつと話し出した。


「ずっと放置してたにしては、音が正確。ちょっとだけ狂ってはいるけど、きっと、妹さん、このギター、とっても大事にしてたんだね。他人のあたしから見ても、わかるよ」


 綺音は、心持ち気分が沈んだように、膝の上のピンク色のギターに目線を落としている。


 それが少し気にかかったけど、彼女の言うように、夢乃はこのギターをまるで生き物を扱うように大事にしていた。初めて買ってもらった楽器だし、手入れも怠ることなく、チューニングも頻繁に行っていた。これはあとから聞いた話だけど、夢乃は事故の日、それを庇うように抱えながら亡くなっていたらしい。


 事故現場で遺品を引き取った時、ギターだけが無傷だったことに僕含め家族の誰もが驚いた。夢乃は身を挺してまで、それを守りたかったのだろう。僕(きっと家族も)はギターよりも持ち主である夢乃に帰ってきてほしかったが、彼女はどんな気持ちでそれを守ったのだろうか…………。




 その後、リビングに行って二人で昼食をとり、綺音は帰っていった。そして僕は彼女を見送った後、両親が帰宅するまでの時間を、主に発声の個人練習に当てて過ごした。

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