異様な気配
蝶は社の屋根にとまるとその光を消した。
「ふう……つい追いかけてきちゃったけど、ちょっと休もうか」
ヲチは落ちついたのか一息つこうと社に続く階段に腰かける。
「ああ、それにしても……すごかったな」
「……そうだね!僕も久しぶりにワクワクしたよ」
二人は山で遭難していることも忘れてこの些細な冒険について興奮しながら語り始めた。
「虫や昆虫というのは命のサイクルが短いから僕ら人間とは進化のスピードが桁違いなんだ。そもそも未発見の昆虫も数十万から数百万種類いると言われてるから新種が発見されることはそう珍しいことじゃないんだけど、あれほど生命力に溢れていて強い存在感を放つ種は僕も初めて見たかもしれない」
「ああ、俺も村の連中も蟲籠が気持ち悪いからこの山にはあんまり近づかないんだが、まさかあんな虫たちが生息してるなんてなあ……」
「あの大きなクモの巣には驚いたな。もしかしたら本体もそれなりに大きいのかも」
「俺たちの身長くらいあるかもな」
「はははっ!そんな恐ろしい怪物がいるなら祭儀の準備どころの話じゃないよ」
「ま、そりゃそうか」
そこで会話が途切れると自分たちの状況を思い出す。
「そういや、俺たち帰れなくなってるんだったな」
「うん、それなんだけど一度頂上まで登ってみるのはどうかな?頂上からの景色ならせめてどっちに村があるのかわかると思うよ。僕が山で道に迷った時はそうしてるんだ」
「遠回りにはなるだろうけど、そうだな……それが一番いいかもな。でも、もう少し休んでからにしようぜ」
「そうだね……うん、そうしよう」
再び沈黙が訪れる。時折吹く風が二人の火照った身体には心地いい。
「ヲチ」
「ん?」
「俺も連れていって欲しい」
「……え?」
「ヲチの旅に俺も連れていってほしい」
センの唐突な申し出にヲチが言葉の意味を理解するのに数秒の間が生じた。
「え……えぇ!?ほ……本気かい!?」
「ああ」
「ど、どうして?」
「ヲチとの旅なら面白そうだと思ってさ」
ヲチの素朴な疑問にセンは淡々と答える。
「面白そうって……食べる物は自分で用意しなくちゃいけないし住む家だってないんだよ?」
「ああそうだな」
「余所者だからって人間扱いされないことだってあるのに?」
「……そんな事があるのか?」
「そういう事もあるよ。生きていくって事はすごく大変な事なんだ」
「そん時は……そいつらと闘って黙らせればいいんだ」
少しだけ考えて出したセンの浅はかな答えにヲチは思わずため息を吐く。
「はあ……センの親は絶対に反対すると思うけどな……」
「親ならいないよ。とっくに死んだから」
「…………え?」
「親代わりならいるけどな。老い先短い爺が」
「そっか……その、ごめん」
「いや、別にいいんだそんなことは。それに余所者はって言ってたけど俺だってこの村じゃ厄介者扱いだからさ。だからきっと大丈夫だよ」
「……それはどういうーー」
ヲチはそう言いかけて言葉を止めた。
二人の少し離れた背後から気配を感じたからだ。一瞬誰か来たんだと喜びかけたがすぐに違うと気付く。
足音だ。足音がとても人間のものとは思えない。
恐らく猪や熊よりも大きい。それでいて何かを引きずるようにしてこちらに向かってくる。
尋常ならざる気配に場の空気が一気に張り詰める。
ーーズザザザザッ、ズザザザザッ
音は徐々に大きく鮮明になる。鮮明になるにつれ、それが人間ではないという印象が確信へと変わっていく。
無意識の内に二人の呼吸は荒くなり、かいたことの無い嫌な汗が頬から滴り落ちるとセンとヲチお互いの目が合った。
どちらが先だったかは分からない。気付けば二人は全速力で走り出していた。
頭の中が真っ白になりながらも、必死に腕と足を動かし道無き道を駆け抜ける。
ろくに状況も把握していないのにどうしてそんな判断を下したのか上手く言葉にする事ができない。
ただ恐怖という感情や本能が逃げろと強く警告しているような気がした。
がむしゃらに逃げる最中、二人は妙な音を聞いた。
ーー何の音だろう?
耳障りなあまり綺麗な音とはいえない高い音。
ーー鳴き声?一体どんな、誰の鳴き声なんだろう。
ふと頭によぎる疑問。
その答えは足を止め振り返れば分かるだろう。
しかし二人は決して止まることなく残った体力を振り絞って異様な気配から遠ざかるのに全力を尽くした。
何度も転びかけ悲鳴のような声が口から漏れそうになるのを必死に堪えながらひたすらに走り続ける。
それから一体どれだけ走っただろうか。
「はあ…………はあ……」
「…………もう……走れ……ない」
二人は大量の汗をかき息を荒くしながら地面に倒れていた。
自分たちが逃げてきた方を振り返ると何者の姿も確認できず、ただただ木々が並ぶ景色があるだけである。
体力が底をついた二人はしばらく動こうとせずそのまま休んでいた。
「おーい!こんなところで何やってんだお前ら!」
二人が呆然としていると少し離れた所から声が聞こえてきた。
「……人だ。助かった……」
ヲチは安心した笑みを浮かべる。
「お前たち何でこんな所にいるんだ?」
「…………」
このややこしい状況をどう説明したものかとヲチは横のセンに視線を送るが、なぜかセンはそっぽを向いて口を開こうとしない。
村人に不審な表情を向けられ慌ててヲチは弁明する。
「僕たち蟲籠の確認に来たんですけど、地震で木が倒れてから道がわからなくなってしまって……そちらは、村の方は大丈夫でしたか?」
「あん?地震だあ?下手な嘘ついてんじゃねえ!そんなでかい揺れがあったんなら今頃村中大騒ぎだ!」
「……え?」
「嘘じゃねえ!景色が滅茶苦茶になって方向がわからなくなったんだ!」
沈黙していたセンがくってかかる。
「立てなくなるほどの揺れでした。それも一瞬じゃありません。相当長い間揺れてたんです」
「けっ!そんなでけえ地震ならこの辺りが一切荒れてねえのはどう説明するんだ!?」
そう言われてヲチはハッとして辺りを見回す。折れたどころか傾いている木すらなく地面にも罅が入った箇所は見当たらない。
ただ、地震による地上の揺れを表す震度は地盤による影響が大きくわずかな距離を隔てた二つの地点でも揺れ方が大きく異なる事例もあるということをヲチは本で読んだことがあった。
とはいえ、同じ山中で被害がほんの極一部だったことに違和感を覚える。
あれほど強い揺れならもっと山の広範囲に被害が及んでいるはずなのだ。
(今思えば蝶を追いかけてる途中から折れたり傾いた木はほとんど見られなかった。ということは、狭い範囲の出来事なのか……?)
「おいセン、何考えてるかは知らねえが龍奉儀の邪魔だけはするなよ。どれだけの人間がこのために心血注いでるか知らねえわけじゃあるめえ」
一人考え込むヲチとふて腐れるセンにヤギ村の男はため息をつく。
「とにかくここはもういいから村に戻れ。あ、それと行き倒れのあんた明日の朝カンコン村長があんたに話しがあるってさ」
「はい、ご迷惑をおかけしました……」
ヲチは頭を下げると横目でセンの方を見る。
運良く会えた村人の男に背を向け、面と向かって話すことを拒否しているように見えた。
そして男に帰り道を教えてもらい山を下ると、何とかヤギ村に戻ってくることができた。
その時には既に日も落ちかけセンと別れたヲチは案内された借家に戻ると質素な夕食を食べた後、直ぐに眠りについた。
時折聞こえる喧騒でヲチは目を覚ます。布団を畳み用意された朝食を食べ外に出ると早朝にも関わらず多くの村人が忙しそうに動き回っていた。
積み上げられたタルを荷台で引いて運ぶ者、牛や羊を引き連れて誘導する者、その人達にあれこれ指示を出す者、眠たそうに作業する五、六歳くらいの子供たち、それを叱る大人……カンコン村長の自宅へ向かう途中にその光景を見ながらヲチは十年に一度の一大行事『龍奉儀』が間近に迫っていることを強く実感した。
「昨日はセンに振り回されて大変じゃったろう。申し訳ない」
ヤギ村の村長であるカンコンはヲチに頭を下げる。
ヲチはカンコンの自宅の広い客間に案内されていた。外側からカンコン宅を見た時さすが村長というだけあって大きな住居だと思ったが寝室や台所は最低限の空間に納められていてそのほとんどは客間によって占められているようだ。
「いえ、少し驚きはしましたけど貴重な体験でした。それに何より山中で行き倒れていた僕を救ってくださったこと何とお礼を言っていいか……ヤギ村の人たちには感謝してもしきれません」
「そうか、それならばよかった。見てわかる通りここヤギ村は山々に囲まれた田舎の村でな、外から人がやってくることなんぞ滅多にないからヲチ殿のことがよほど珍しく新鮮だったのじゃろう」
「でも、本当に申し訳ないです。龍奉儀だなんてとても忙しい時期にお邪魔してしまって……」
「いや何、ヲチ殿がこの時期にヤギ村に訪れたのも恐らく何かの縁。是非我らが山羊龍連合が催す龍奉儀を見ていってくだされ」
「い、いいんですか!?余所者の僕が……」
「もちろん、ヲチ殿さえ良ければじゃが……」
「ありがとうございます!であれば、僕にも龍奉儀の準備を手伝わせてください」
「そうじゃな、そうしてもらおうかの。ところで…………」
カンコンはそこで言葉に詰まる。目を閉じ何度か煙を吹かすと決心したように口を開いた。
「センから何か妙なことを言われなかったかの」
「妙なこと……ですか?」
そう言われてしばらく考えるとセンが旅に同行したいと言い出したこと、自身のことを村の厄介者だと言っていたことを伝えた。
「やはり……そうか……」
カンコンはため息をつく。
「すまぬ、ヲチ殿。あやつの言うことは聞き流して欲しい。しつこいようならわしがきつく言っておこう、ヲチ殿にとっても迷惑じゃろう」
「いえ、別に迷惑というわけでは……一人旅をしていると時々無性に寂しさを感じたりもしますから」
「なんと……それではついていっても構わぬということかの……?」
「ただ僕の旅路は彼が想像しているよりもずっと苦しいものです。一歩間違えれば命を落とす危険だってありますし、住む家があって食べるものがあるこの村で暮らす方がよっぽど幸せだと思います」
「左様、旅行や家出とはわけが違うじゃろう」
「彼にその覚悟があるのか。覚悟があるなら当然その理由もあるはず。僕がそれに納得できれば僕は彼を拒みません」
「うむ……理由か……ヲチ殿はセンに両親がいないことは……」
「本人から聞きました」
「そうか……センの両親はな……殺されたのじゃ。山波の山羊龍カプリコーン様とわしらヤギ村の者たちによって……」
「え……?一体それは……」
「それについてはまずセンの母親、スコーンという人間の話をせねばならん。少し長くなるがよろしいかの?」
ヲチはうなずく。
「スコーンは元々この村で生まれ育ったわけではない。あやつが25の時ヲチ殿のように旅人としてこの村を訪れたのじゃ。先程言ったように外からの人間は珍しくての、皆が歓迎しそれに気を良くしたのかあやつも長いこと滞在しておった」
「どんな人だったんですか?」
「破天荒で騒がしく、とても明るい女じゃった。村の人間ともすぐに打ち解けておったのう。じゃがそれと同時に狂言や奇行の多い女でもあったのじゃ」
「狂言や奇行……ですか」
「そうじゃ、口にするのも恐ろしいがあやつは幾度となく山羊龍様が眠られている禁足領域へと足を踏み入れ恐れ多くも言葉を交わそうとしたのじゃ」
「……狂気の沙汰ですね」
いくら共存のための盟約を結んでいるとはいえ、かつてはただの餌だった対象と対等に会話するなんてことは傲慢でプライドの高い龍にとってはあり得ないことだ。
そんな振る舞いや無神経な言動が龍の怒りを買いその場で無惨に殺されたといった話は全国に数多く存在する。それ故に誰もが龍奉儀で龍と言葉を交わす時は全身を恐怖と緊張で震わせその瞬間を全身全霊をもって全うするのだ。
だからこそ、スコーンの行動はとても理解しがたい自殺行為としか思えなかった。
「じゃがどうやらあやつはわしらに知られる前から何度も山羊龍様に対話をもちけておったようじゃ」
「信じられません……そんなことをして生きていられるなんて……山羊龍様は余程穏やかな気質の持ち主……ということなのでしょうか……」
「うむ。確かにあの御方は龍種の中では驚くほど理性的に人間に接しておられる」
それがカンコンにとって誇らしいようで表情がわずかに和らいでいたのがわかった。