その拾玖 城都ランカスター(6)
龍が往く 外伝
――もし現代の異能者が異世界に召喚されてしまったら――
その拾玖(十九)
フラブ暦2253年、霜の月(十二月)である。
霜の月に入って一 週間後には、教会の司祭から「冬眠宣言」が発令された。「冬眠宣言」は初霜から一週間後に出され、この期間は雪と氷の為に農耕作業が出来ない、所謂農閑期とされる。三月の雪解けに発令される「起床宣言」までは、厳しい冬の寒さに堪える時期となる。
「今日はもう来ないのかな」
安倍が空を見上げて呟いた。ここは、ランカスター城都の東市場にある集配所である。午後いちに来るはずの荷物が、まだ来ないのである。
冬眠宣言が出てから一週間が経っている。城都も一気に冷え込み、仕事が無く体を動かしていない時は、綿入れを着ていないと寒さに耐えられない。冬は日没も早いので、夕刻にかけては一層冷え込んで来る。
「霜の月は空が荒れるからな。オイトルーダ便は欠航したかも知れんな」
へダンも空を見上げて言った。彼は集配部の若きリーダーで、先日のケンカから安倍とは意気投合している。
「この寒空の下で待ちぼうけかぁ」
安倍は頭の上で手を組んだ。集配部の給料は歩合制なので、荷が届かなければ、今日の収入は最低貸金の基本給だけである。
「まあそうぼやくな。冬には良くある事だ」
へダンはそう言ってから少し考え込んだ。
「んっ?どうしたヘダン?」
「そう言えば、この間俺とアベとで勝負した時から、あいつの顔を見てねえな」
「あいつ?」
「ダン=バルだよ」
「ああ、あの空賊の」
「"元"な」
「あいつがどうしたんだ?」
安倍は、この前会った時のハンサムな顔を思い出しながら尋ねた。
「こんな"荒れた"日に、荷物を運ぶ危険を敢えて犯すのは、あいつくらいのもんだ。他の業者が諦めるような状況の時に荷を入れて、高値で売り込むんだよ。この一週間あいつのツラを拝んでねえから、多分何かの荷物を運んでるんだと思うぜ」
ヘダンがそう言った時、集配所の上空に飛空艇の駆動音が聞こえて来た。通常の飛空艇よりも回転翼の音が激しい。
「この駆動音、間違いねぇ、あいつだ」
ヘダンが空を見上げて言った。安倍も空を見上げた。
東市場の上空を、小型の飛空艇が集配所へ向かって接近して来ていた。円型の船体に二本の舳先と二枚の水平翼、二枚の垂直翼を持ち、船体中央の回転翼の推進力のみで空中を駆動する、浮揚艇と呼ばれる珍しい型態で、実際に嫁働しているのは、この世界では今やこの一艇だけだという。
浮揚艇は集配所の真上まで来ると、その上空で停止した。船体の下部の蓋が開き、そこから人の上半身が出て来た。女性のようだ。
彼女は集配所前の荷馬車溜まりを何度か指差して、すぐに中へ引っ込んだ。
それを見て、ヘダンは大きく舌打ちをすると、浮揚艇の回転翼の騒音に負けないくらいの大声を上げた。
「おい、おめえら、出て来い!馬車溜まりの荷車をどけろ!それと、飛ばされそうなモンは全部納屋に放り込め!」
「ヘダン、何が始まるんだ?」
そう尋ねた安倍に、ヘダンは渋い顔で答えた。
「あのバカ野郎、また馬車溜まりに艇を降ろす気だ!」
また、と言うからには、どうやらこれが初めてではないらしい。人足達は急いで馬車溜まりを空けた。
浮揚艇は水平翼を真上に畳むと、ゆっくりと降下して来た。中央のプロペラのダウンウォッシュは凄まじく、安倍は足を踏ん張って耐えなければならなかった。周りの椅子がいくつか吹き飛ばされる。
浮揚艇はふわりと着地した。回転翼が止まり、風が収まると、ハッチが開いてダン=バルが姿を見せた。
「よう、ヘダン、また世話になるぜ」
ダン=バルは爽やかな笑顔で言った。
「バカ野郎。危ねぇんだよ。直に艇を降ろすなっつってんだろ?」
ヘダンが睨みつける。
「いいじゃねえか。向こうの空港は不便でな」
そう言って笑った所で、ダン=バルは安倍の存在に気付いた。
「おお、アベじゃないか。元気でやってるか?」
「お陰様でね。ところでダン=バル、あんたいつもこんな無茶な事やってるのか?」
安倍はダウンウォッシュで色々な物が引っくり返った馬車溜まりを見回しながら言った。
「今日は特別さ」ダン=バルは悪びれずに言った。「こんな荒れた日は、他の荷はほとんど無いし、今日の荷物はかなり高価なんでな、少々手間を省かせて貰ったのさ」
「勘弁してくれよ、いつも後片付けが大変なんだからよ」
ヘダンが笑いながら言った。本気で怒っている訳ではないのだ。
その間に荷物室のハッチが開き、そこから先程の女性が姿を見せた。若く美しい女性だが、頭の上に猫のような大きな耳と、尻には尻尾が生えている。
「猫耳?」
安倍は思わず声に出して言ってしまった。
「ああ、あいつは俺の相棒で、ローヴェン族のミーウェルだ。城都では人狼族は珍しいだろうがな」
ダン=バルは笑いながら言った。それが聞こえたのか、ミーウェルが何か言ったが、その言葉は獣の唸り声のようだった。
「『無駄口を叩いてないで早く手伝え』って言ってるぜ」
安倍がそう言うと、ミーウェルを含めたその場の全員が、目を丸くして安倍を見た。
「な、何だよ?」
その様子に、安倍は思わず引いてしまう。
「いや、彼女の言葉が解る奴、初めて見たからよ」
ヘダンが驚きを隠さずに言った。
「俺もだ」ダン=バルも半笑いで言う。「俺と姫様以外であいつの言う事が解った人間は初めてだぜ」
「ところでダン=バルよ」ヘダンが表情を改めた。「今日の積み荷は何だ?あの樽には見憶えがあんだけどな」
「ああ。聞いて驚け。ナガントで仕入れた、スルタック・ビアーだ」
「何だとっ!」
"スルタック・ビアー"と聞いて、ヘダンを始めとする人足達がどよめいた。
「良く手に入ったな」
ヘダンが溜め息と共に言った。
「前々から業者に声を掛けておいたんだ。まあ、ちょっとした伝があったんでな」
ダン=バルは得意げに胸を張った。
「そんなに珍しいのか、スルタック・ビアーって」
何も知らない安倍は何の気なしに尋ねた。
「アベ、お前知らないのか?スルタック・ビアーと言えば、ビアー通の中じゃ三本の指に入るお宝だぜ」
ヘダンは憐れむような目で安倍を見ながら言った。ちなみにスルタック・ビアーとは、アルセア共和国連邦の内陸部(ミラヒイ山脈の南側)にあるべヘロフク共和国のスルタックという穀倉地帯で造られる黒ビアーで、独特の酸味と強い炭酸が、ビアー通の垂涎の的となっている。べヘロフクとランカスター公国とは国交が無い為、スルタック・ビアーは滅多に手に入らない珍品なのである。
「おおい!」
その樽を降ろしていた人足達に、ダン=バルは声を掛けた。樽は最後の一つである。
「何だよ、もうすぐ荷降ろしは終わるぜ」
ヘダンが軽く言うのへ、ダン=バルは笑いながら言葉を続けた。
「その最後の樽、お前らにやるよ」
「えっ?」
「いつも無茶を聞いて貰っている詫び代わりだ」
「そうかい!いつも悪いな」
「ま、お互い様って奴さ」
「よし、早速頂こうぜ、みんな!」
ヘダンの声に、人足全員が雄叫びを上げた。
「あー、『メスタの塩』を降ろしてからな」
ダン=バルは荷物室を見上げながら言った。
積み荷を降ろした人足達は、早々にスルタック・ビアーで酒盛りを始めた。そこに、ダン=バルが別の荷物を降ろして来た。手押し車に乗るほどの箱だが、何やら水がこぼれ落ちている。
「何だいこの箱は?」
既にご機嫌なヘダンが尋ねた。
「こいつは、ベソで仕入れた"トゥーナー"って魚だ」
"トゥーナー"。要はマグロか。
安倍は小声で呟いた。そう言えば、刺身や鮨などしばらく食べていない。
「何だ"トゥーナー"って?」
ヘダンが話半分で聞いている。
「何でも、外洋の海流に乗って泳ぐ魚らしいんだが、獣の肉みたいに赤い身なんだ」
ダン=バルの言葉に、安倍は小さく頷いた。マグロか、美味そうだな。
「しかもこいつ、生で食えるんだぜ」
ダン=バルのその言葉に、ヘダンは顔をしかめた。
「おいおい、魚を生で食うなんて出来るかよ」
「何言ってんだ。港では普通の食い方だぜ。ただ、新鮮じゃないと駄目だがな」
「で、何で水浸しなんだ?」
「鮮度を保つ為に、氷室から削り出した氷の欠片で箱の中を埋めてるからさ。ただ、こいつを扱える店があるかどうかだな」
「城都の食堂で、生魚なんぞ扱う所はねえぞ」
ヘダンの言葉に、他の人足達も頷いた。
その話を聞きながら、安倍の頭にはある人の親が浮かんでいた。
「ダン=バル、俺、その魚を扱える料理人を知ってるんだけど」
安倍がそう言うと、その場の全員が彼を見た。
「誰なんだ、そいつは?どこぞの立派なシェフか何かか?まさかドンブリじゃねえだろうな」
ダン=バルの問いに、安倍は首を振って言った。
「その人は、アウザム通りで屋台を出しているヒノモトの人だ。腕は間違いないし、ヒノモトなら刺身を食べるから、そのマグロも捌けるはずだ。ただ、その人はあんまりお金がないんで、そいつを買い取れるかどうか判らないんだけど…」
「金なんて二の次だ。そいつはどこにいるって?名前は?」
「アウザム通りと道具屋街の角近くの屋台だ。名前は大将としか知らない」
「よし、判った。早速交渉だ」
ダン=バルは言うが早いか箱を乗せた手押し車を押して走り出した。
まだ荷物室にいたミーウェルが、溜め息をつくようにうなり声を上げた。
「『また儲けにならない事をやってる』って?」
ダン=バルの背中を見送りながら、安倍がミーウェルの言葉を反復した。それに応えて、ミーウェルが唸る。
「『だから身入りが少ない』か。何だか世話女房みたいだな」安倍は笑いながら言った。「でも、そんな所が憎まれない理由なんじゃないかな?」
安倍の言葉に、ミーウェルは肩をすくめて笑った。
市場の門前で早馬車を捕まえたダン=バルは、アウザム通りを西へ飛ばし、夕暮れ前に道具屋街の角に到着した。
目指す屋台はすぐに見つかった。
夕刻の通りに、かなりの行列が出来ていたからだ。
仕事帰りの一人者の職人達や大家族を抱えて夕餉の支度を放棄した主婦らが、今晩の惣菜を求めて押し掛けて来ているのだ。
ダン=バルはその行列を押し退けて、屋台に手押し車を横付けにした。
そのただならぬ様子に気が付いた給待の少女が声を掛けて来た。
「あの、何かご用でしょうか?」
「ああ、タイショーってのはいるかい?」
ダン=バルのせっかちな物言いに、屋台の裏で作業をしていた大将が出て来た。
「何でしょう?私を"タイショー"と呼ぶのは、この娘、イケハタかアベくらいですが」
「俺はそのアベからあんたの事を聞いて来たんだ。あんたなら、コイツを捌けるってな」
ダン=バルはそう言いながら、手押し車の上の箱をこじ開けた。中から大量の水と氷片がこぼれ出た。
「なんだいあんた、こりゃマグロじゃないか」
箱から出て来た物を見て、大将は目を丸くした。
「凄い立派。一メートルくらいありそう」
池端も目を輝かせた。周りの客達も、押し退けられた怒りを忘れてダン=バル達の様子を見守っている。
「ベソではトゥーナーって言ってたぜ」ダン=バルは得意げに言った。「昨日の朝に水揚げされたらしい。血と内臓は抜いてあるそうだ」
「そうか。ならここで解体出来るな」
大将の顔に笑みがこぼれた。奥から机を出すと、上に布を掛けた。
「ねえタイショー、何が始まるんだい?それに、そのデッカい魚は何なんだい?」
常連のおばちゃんが興味津々で尋ねた。
「これは、海の魚で、マグロだ。城都では珍しい。煮ても焼いても、刺身でもいける」
「サシミって何だよ?」
「生でも食べられるって事よ」
池端が言うと、客達の中に動揺が走った。
「魚を生で食べるってのかい?」
おばちゃんの言葉に、ダン=バルは偉そうな口調で言った。
「港では当たり前の、しかも贅沢な食い方だぜ」
「ほら、食べてみな」
大将は、港で既に切り落とされている尾の部分から、小さな塊を切り出し、薄く切ると、池端が用意した皿に盛った。
「お醤油をつけたら美味しいよ」
池端の言葉に、おばちゃんは恐る恐るその赤い身を口に入れた。すぐに表情が明るくなる。
「何だこりゃ。とろけるみたいで美味いね!」
「だろ?」大将は笑った。「今から捌くから、待っててくれ」
そう言いつつ大将が取り出したのは、刃渡り六十クレグラノース(cm)はある包丁だった。
「何だよその剣は?」
ダン=バルは目を丸くして言った。
「剣じゃない。マグロを捌く為の包丁だ。これを城都で使えるとは思わなかったよ」
大将は言うなり、包丁をマグロに刺し入れた。池端の手を借りながら、慣れた手つきで解体して行く。
城都では見た事もない巨大な魚が、見る見るうちに切り身に変わって行く様に、通りを歩く者達までが足を止めて見物に加わって、屋台の前は期せずして大騒ぎの大イベント会場となってしまっていた。
20200606