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神話の歩き方  作者: くーくま
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概要

神話には主に二種類あります。


一つは、私達がどうやって生きて来たか、そしてその起源は、という類のものです。

これには教育のための語りも含まれます。


「アブラハムには7人の子。一人はノッポで後はチビ。皆仲良く暮らしてる。さあ踊りましょう」


などがその一つとも言えます。

この歌自体の善悪はここでは考慮しません。


内容はリーダーを含む1氏族と他の氏族を含めた7氏族(またはその子孫)で仲良く暮らしていた、というものですが、これを疑うかどうかは個人に任せます。

その理由はイザナギ・イザナミ神話にあります。


あの神話は当時の征服民による神話の書き換えが軸になっており、土着の民にあったそれ以前の神話の上書きにより出来ています。

だからあの神話は黄泉比良坂での男と女の役割が逆であったりします。

男が増やし(子を守り)、女が殺す、という内容になっています。

これは男女の役割から言えば逆です。神話にはふさわしくありません。

これは鳥頭を探す為の詐欺師の罠として機能します。


それ以前の記憶を知らないもの、伝承を知らないもの、周囲に守られていないもの、を本人に気づかれる事なく特定し詐欺をするための材料に使えます。

例えば|高天原〔たかまがはら〕です。

これはなぜ天が'まが'と呼ばれているかですが、'まが'には'凶'という別字があります。

当時の土着の民(国津神)にとっては侵略者(天津神)は凶々しい存在なので'天'を称しても、あえて'まが'と音を当てます。


'高い'というものも、最近はともかく昔からの流れでは悪い意味の方が強い言葉です。

ニュアンス的に'スノッブ'や'不遜'などが含まれます。何の根拠もなく上にいる、とも解釈される事もあります。


また、こういった逆さ神話の問題点として、国津の呼び名と天津の呼び名は果たして正しいのか、という事があります。

あえて逆にしたいから、土着の民に自分達の呼称をつけ、自分達に土着の民の呼称をつける事で、時代が経過した際に、さも自分達がそこに住んでいたかのように錯覚させる、という方法が取られる事があります。なので逆さ神話は要注意になります。


また今の歌詞の1と7はそのままの数字でない可能性が高いです。

1は唯一なる存在を示し、7は完全数でその周囲にいる全ての正しき人々、という解釈も出来ます。

王家の旗が1と7から出来ている根拠と同じです。



教育のための語りも例題を挙げておきたかったのですが、手もとに資料がないので省きます。

元々、歌もしくは詩ですが、これは教育を生活に密着させるために用いられました。

リズムや韻を踏む事で、楽しみながら覚え、また、生活の中で繰り返す事で忘れないようにするためのものです。

現代のような使い方をしていません。


ここまでの解釈では、どうであれ、別名を知る事が必要なのではなく、その本質を知る事が必要である、という事を理解しないと神話は読めない、という事になります。

国津だから天津だから、ではなく、国津として称されたもの、天津として称されたものが、どのようなものであるか、が神話が語ろうとするものです。

それを知るなら、例えば実は天津と称されたものが実は国津であった、と後でわかっても慌てる事もありません。この場合はそうやって詐称する存在がいる、という事を神話を通して知る事ができているからです。


そして社会ではそこまでの知性を持つことが要求されている、とも言えます。どちらが正しいか、どの解釈が正しいか、伝えたい本質はどこにあるか、であって、根拠を持たない名称が正しいか、それを覚えているか、ではない、という事です。

どこぞの詐欺師や嘘をつく存在のために無駄に基準が上がっているとも言えます。



もう一つは、詠われるべき存在を詠うものです。

例えばギルガメッシュです。彼は望まれる事なく王となりました。暴虐王です。

その罪を、虐げられた者達は後世へと語り継ぐために叙事詩にしました。

こんな愚か者がいる、その真似はするな、という意味をもって伝えられます。


この場合の神話や叙事詩は、迫害される側が記録を残そうとするために、しばしば逆表現が使われます。




また神話を読む際の注意事項ですが、現代の日本語のように、表現出来る種類は多く有りません。

それが可能になったのは、ラテン語以降です。

そのため、表現できない文型、もしくはそれを読む対象の能力を踏まえて、形でわかる描写が記される事になります。

心理描写を表わすために、その知性が必要になりますが、それを当時の平民階級に求める事がまず問題になります。

その問題を回避しつつ、内容を伝えて行くために心理描写ではなく、形で示す事でその内面を知らしめる事を主としています。


これは、内面描写などは簡単に言葉の定義の上書きで書き換えられてしまうために、内容を消し去られ、表面だけが残り、告発したい内容が消え去らないようにするためのものです。


例えば、正直者であり、社会の構成員であり、社会の役割を立派に果たす人物を'雄牛'と例えます。

これを正直者、などの文章を定義しても、読める人物もそれを定義し続ける事の出来る人物も居らず、形として分かるように'雄牛'で定義します。

言葉を細分化して高度化すると、その定義の整備とその理解力が求められるので当時の平民や、場合によっては貴族階級ですらそれを理解出来ません。


そして、ここで'雄牛'の定義を始めて知った方はその'理解力がない'人物に該当するかも知れません。

その理解力があるかどうか、それを次の世代に継ぐのが神話の本来の役割です。

ただ暗記すれば良いのでは有りません。それを知り、どう活かすかという部分が目的です。



日本神話は叙事詩にはあまり見かけませんが、別名があります。

オーディンはオティヌスであり、オッタルであり、ヴォータンでもあります。

これは、今の現代社会で、担当名が違う、という事です。

XX会社員の夫'山田太郎'がいたとして、

会社に関係する場合はXX会社員として話をし、

夫と妻に関わる話なら夫として話をし、

個人としてなら'山田太郎'として話をする、という事と同じです。

どの役割で話をしているかを示しているだけです。

例として、オッタルは妻に従順な男性としてのオーディンです。


概要の最後に、神話において、奇想天外な事は内容としてあまり起こっていません。

その文章表現の未成熟さとそれを扱う存在の未成熟さから派手な表現がされる事が多い、ということです。

『千夜一夜物語』と書いて、本当に千夜あったと思いますか。

ないのです。千夜は1、2、3、・・・、いっぱい、の意味の千です。

'alfu laiatin wa lailatun'は、'wa'を'='と読む事もできます。

その話の内容から'幾日もの夜をもって一夜とする'物語、と現代語訳として読みかえる事ができます。

こういった読み方が出来るかどうかが神話を読む事ができるかどうかになります。


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