春を前に
少しづつ暖かくなってきて吐く息が白くなることももう少ない。春の訪れを待ちながらもう少しこの寒さに耐え忍ぶ。
どういうわけか春というだけでウキウキと心が弾む。時折感じる春の匂いが凝り固まった心をほぐしてくれるようだ。
とは言え今日は寒さが戻ってきた。コートを着て出かけよう。
街を歩いていると若干薄着の人をちらほら見かける。ろくに天気予報をチェックしていなかったのだろう、あの恰好では寒いだろうな。
ファッションには疎いし、普段周りの人の服装など気にしないのだが、この季節の変わり目の服装に困る時期でもしっかりその日の天候にあった服装を
している人、そうでない人を見ているとなんだかその人たちの性格のほんのわずかな部分だが垣間見れたような気がしてメンタリストにでもなったかのような気分を
味わえる。実際にはそんなことはないのだが。
そういえば、ずっと昔、まだ小学生だった頃、1年中半袖半ズボンで過ごしている奴がいた。真冬でも寒くないのだと言っていたが彼は今どんな服を着ているのだろうか。
白い息を吐きながらそんなことを考えていた。
夜の帳がおりる頃、私は行きつけの居酒屋に向かっていた。その店のマスターとは妙に気があって初めて訪れた時からもう5年以上通っている。こじんまりした店で客も多くない
というかほとんどいない。経営が心配になるぐらいだが少なくとも5年以上はつぶれていないところを見ると上手くやっているのだろう。人見知りな私にはありがたいが。
マスターは実にお喋りな男で、話しかけられるのが苦手な私にも関係なく絡んできていつの間にか私も気を許していた。妙に人間臭いところもあって私がこぼした愚痴なんかも親身に
聞いてくれたり、ときには戒めてくれたりする。
冷たい風がふいてきて冬はまだ終わらないんだなと思いながらいつもの路地を右に曲がるとすぐにマスターの店が見えてくる。赤ちょうちんがぶら下がった入口に立って引き戸を静かに
開けるとマスターが新聞を読みながら煙草をふかしていた。今日はまだ他の客は来ていないようだった。
「マスター、こんばんは。相変わらず暇そうだね。」
「やあ、いらっしゃい。」
新聞をたたみながらマスターは言った
「いいんだよ、俺は自分の時間が好きなのさ。」
いつもの席についていつものお酒と適当なつまみを注文した。
「はいよ。すぐに誂えるからさ。」
そう言って厨房に立つとタオルを頭から下した。マスターはいつも頭にタオルを乗せている。初めは気になっていたが今はもうそういうものだと思って気にならなくなった。
温泉が好きなのかもしれない。
「最近暖かくなってきたね。春になれば客も増えるんじゃない?」
「そうだね、増えるといいんだけど、最近は常連さんもあまり来なくなってね、あんちゃんぐらいだよこんなにしょっちゅう来てくれるのは。」
「いつも思ってたんだけど、この店よく潰れないね。」
「まあね。」
マスターはこちらを見てニヤッと笑った。
「はいこれ、いつものやつとお通しね。」
「ありがとう」
飲みなれた酒を一口飲んでお通しに箸をつけた。今日はきゅうりの漬物だ。何だかホッとする瞬間だった。
他愛もない話をしているとお客が入ってきた。ようやく2番目のお客さんだ。この店に来る客は一人が多い。皆顔見知りだがそれぞれ勝手に飲んでいる。
この距離感がうれしかった。
「いらっしゃい。」
「マスター、熱燗ちょうだい。それと何か適当に肴もちょうだい。」
「はいよ、すぐに用意するからね。」
あの人よく見かけるな。いつも同じ席で俺と一緒だな。
「ところでさ、今日の取り組みどうなった?まだニュース見てないんだよ。」
「今日はね大関以上は皆勝ったよ。順当だね。」
マスターはスポーツが好きで特に相撲が好きだった。あの客が来るといつも相撲の話をしている。
全然相撲に興味がなかった私も力士の見分けがつくぐらいにはなった。
「マスターってさ、相撲好きだよね。」
「おう、小さい頃は近所の子供達で相撲取ったりしてたしな。」
「へ~、凄い。プロになりたいとか思わなかったの?」
「それは無理だろうな。髷結えないし。」
「え?」
「あ、いや、、、プロなんて無理だろ。はっはっは。」
髷が結えないってどういうことだろう。もう5年以上の付き合いになるが何だかマスターと距離がある気がする。
それはずっと抱いている疑問のせいなのかもしれない。でもそれを本人にぶつける勇気はなかった。せっかく築いてきた関係を壊したくないし
どうしても知る必要もないからだ。居心地のいい居酒屋があってそこの常連とマスターという関係で十分なのだから踏み込んだことを聞かなくてもいいだろう。
「すみませーん。」
珍しく見かけない顔が入ってきた。
「二人なんですけど、入れますか?」
「ええ、お好きな席へどうぞ。」
どうやら新規のお客らしい。
「マスター、良かったね、今日は大忙しだ。」
「はっはっは、これで潰れなくてすむよ。」
二人組のサラリーマンにマスターはメニューを渡した。二人はビールを注文したようだが、その後少し間があった。
少し嫌な予感がした。
「マスター、新しいお客さんなんて珍しいから逃しちゃだめだよ。」
「え?ああ、大丈夫だよ。」
思わず余計なことを言ってしまった。普段はそんなこと言わないのに、少し胸騒ぎがしていた。
マスターはジョッキにビールを注いでサラリーマンのもとへ運んで行った。
背中でやり取りを伺った。何事もなければいいが。
「あの、すみません。」
「はい、ご注文ですか?」
「あ、いや、1つ聞いてもいいですか?」
「え?ええ、いいですよ。」
「あの、、、ご主人河童みたいですよね。」
私は席を立った。
「マスター、帰るねお勘定置いとくよ。」
私は素早く店を出た。ため息は白く漂っていた。
「あの、すみません。」
振り返ると店にいた常連の客だった。
「どこかで飲み直しませんか?」
どうやらこの人も出てきてしまったらしい。
「そうですね。」
人と飲みに行くのなんていつぶりだろうか。
少し新鮮な気持ちと明日もマスターはいるのだろうかという不安が入り混じった妙な気分だった。