人形使い 8
牛さんは戻る。彼の元へ。真っ赤だった瞳は静まり、元の黒へ。煉獄の赤は消え、気配は元の牛さんそのもの
時折苦痛に満ちた表情を残す以外はだ。。
体が重く、歩く姿は変わらずとも、内部に秘めたダメージの重さは違う。意識を手放せば、気を失いかける。激痛が未だに走る。肉体的回復は果たしても、体の表面をなぞって削っていくかのような不快感。それがしつこく残っている。死を感じさせ、体に入り込めば、ただでは済まない。
その不快感は呪いによるものだ。
傷口があっても、口があっても入り込むことはない。あの雲の一撃と共に押し付けられた呪い。それが効果を発揮するより先に、容赦なく炎で焼き切った。元々の体力や精神力を加味しても耐えれはした。だが、耐えるだけでは意味がない。回復と同時に自分への浄化攻撃をして、ようやく歩けるようになった。それでも呪いの残骸が漂っているのだ。
「ぐるあああ」
雲の前では晒さない。あれの前で弱みを見せることは、他の魔物の危機を招きかねない。雲を除き一番強いのは牛さんだ。兄貴分として、弟分よりも強い。それは確定していて、主人たる彼が認めるほどのことだ。ほかの魔物が理解していることだ。だから牛さんが弱いということは、他の魔物はもっと弱いことの証明になる。華や静がもしかしたら雲の毒牙にかかるかもしれない。牛さんという抑止力が弱みをみせれば見せるほど、雲が仕出かした後の報復の程度がばれてしまう。ほかの魔物に対し、手を出させない。雲が手を出す気はなくても、そのきっかけの気持ちすら持たせないようにしなければいけないのだ。
足が時々バランスを崩す。だがすぐに持ち直す。ゴミ集積所を抜け、人の生活圏たる住居がちらほら見える地点。ゴミ集積所の入り口付近の壊れた壁の裏で座って待つ魔物が一匹。コボルトが体を揺らしながら、眠りに落ちかけている。ときおり、はっとしたように体を振るって目を覚まそうとしている。だが眠気に負けるのか、すぐに揺れていく。
このコボルトは牛さんがここに置いていったのだ。ただ無情においたわけじゃない。ゴミ集積所に近くなっていくたびに臭いが濃くなる。ゴミの臭い、人形の臭い。それぞれだ。また牛さんも町の構造をある程度は知っている。ゴミ集積所は隠れる場所や、潜むに最適な臭いの倉庫。番犬を持ち出そうとゴミ集積所に逃げ込めば、臭いの特定による捜索は困難。
またコボルトの安全と、過剰な臭いの増加に気分を悪くしていた様子をみて置いていった。
そんな最初の態度とは違い、眠そうなコボルト。
その姿を牛さんは見て、鼻で笑った。侮辱ではない。ただの安堵による溜息の息だ。
牛さんは彼を敬服し敬意を示し、敬愛を見せ、盲従する一匹の獣。その彼に従い、悪意を見せず好奇心を抑える魔物は牛さんの仲間である。これでも牛さんは他の魔物を気にかけている。何もしないのは、他の魔物がいるからだ。華や静が心配し、気にかけて、何かしら手助けをしている。その姿を見て、慣れないなりに努力している。それを自分のやり方で下手に手を出すことは華、静のやり方にケチをつけることと同義。
華や静に任せているだけで、牛さんだってきちんと気にしている。
望んだのは彼だ。平和を望み、文化を芯として生きる変わり者。価値観も主義も宗教も文明も全てを許容する弱者。この世界にいて、類を見ないほどの向上心も好奇心も死んだ人形。他人に興味があるふりをして、実は関わらないために関心を持つ自己中心的な主人。誰かを求めるくせに、拒絶する天邪鬼。
そんな主人が魔物に求め、その纏め役を牛さんに託した。
だから役割を果たしている。
これは言葉に出されていない。心で、目で受け止めた。無感情でありながら、点滅するかのような視線の往復した視線。そういう彼の態度から判断した。
牛さんもまた、言葉にも示さず、勝手に引き受けた。
それを彼は知っている。きっとよく見ている。関わらないための観察力で、関わろうとする天邪鬼だ。牛さんが彼の想いを理解したことを、そのうえで受け止めたことを。
牛さんは何もせず、華や静がやることを静かに見守れという思い。
牛さんが何を思っても、決して口も手も出すな。間違えたときだけ意見を出すようにという言外の圧を。
面倒な彼の、重すぎる指示。関わりたく、意見を出したく、注視したく、注意したく、とにかく小さなことでも気にかけたい。そういう思いが牛さんに強くある。その中で必死に彼の意志を尊重し、自分勝手な欲望を自制した。彼が願うのは魔物の自立。強者たる牛さんは自立しても、他の魔物たちは未だどこか未熟だ。集団行動、単体行動においても、生活をするうえでの上下関係もだ。
人間は無意識で上下関係を作って、潤滑に生活を営む。年上に対し敬意を示し、年下に対し慈悲を持つ。子供には大人が優しく接する。子供は大人に対し、学んだばっかりの敬意を示す。そういう無意識な上下関係。
上下関係があったうえでの、行動における考えが生まれる。
魔物にあったのは、ただの上下関係だけだった。強いか弱いかだけのもの。わかりやすくて、扱いづらい思考。それを正すための思考を作らせる。圧倒的に強いと一目おかれる牛さんでは役目にならない。それより弱い華、静だからこそ真価を発揮する。牛さんの指示は従えても、他の魔物の指示には従えない。
そういうものじゃないのだ。この世界は。
自分より優れた者に対して、自分の意志を我慢してでも敬意を示す。環境適正能力を高めなくてはいけない。
弱者が更に弱い弱者を見て、本能で甚振る。そういうものであってはいけない。牛さんが直接指示をするということはそういうことだ。強者が弱者を従える常識そのもの。だから幹部という牛さんより弱い魔物を用いて、序列を作った。
牛さんは幹部に手を出さない。暴力も口も。
そういう態度を見れば、下の魔物たちは、我慢を覚えるのだ。
役割、序列による指示系統。
むろん、弱いものを虐めた事件は起こしてはいない。だが普段から訓練をしなければ意味がない。日常とは連鎖の繰り返し。抑圧と教育と自由の重ねて繰り返す連鎖なのだ。
一番強い魔物だけに従えばよいという考えは古い。これから彼の魔物は人のやり方を学ばなければいけない。人の生活圏にいる以上、人のやり方を学ぶしかない。弱い相手だからといって、弱い人間を虐めるようではいけない。強さ、弱さを抜きにして、いきなりは手をさず、指示を待つ。その流れを作りたかった。適所においたグループのリーダーにも従う動作を学ばせた。その彼の想いから牛さんは手を出さなかった。
人は勝手に覚えて、勝手に怒られて、節度を学ぶ。常識を知らないから、暴れ、叱られる。そしてやっていいこと悪いことの常識を刻む。
面倒な彼の。
言葉に出さない指示。それを牛さんが受け止めた。
だが、今は牛さんとコボルトの二匹。眠りかけているコボルトは、このままでいれば寝てしまうだろう。牛さんとしては、寝かしてやりたい気持ちになる。されど求められる役割は、そうではない。牛さんは自分の鼻先をコボルトの頭部に小突くようにぶつけた。痛みのないように、されど振動が伝わりコボルトは跳ね起きた。
そしてコボルトの目先に牛さんの眼前。
コボルトの体が硬直し、すぐさま敬礼したかのように背筋を伸ばした。
「ぐるああ」
「わん!!!」
帰るぞという鳴き声を牛さんがすれば、即座に返答の鳴き声が届く。意志などはない。序列による命令系統。牛さんを頂点とした魔物のピラミッド。普段一切声をかけてこない、叱らない。されど怒れば恐怖の体現者として君臨する強者。そんな牛さんの指示に歯向かうそぶりも一切見せずにコボルトは応じたのだ。
もし華や静が相手だった場合、我儘を言う場面もできたかもしれない。だがそれは敬愛によるじゃれ合い。牛さんに対し、じゃれ合いはない。彼も望まない。寂しいという感情はない。結局のところ、華や静が牛さんに対し、信頼を見せている。華や静は他の魔物から信頼を置かれている。信頼を置いた魔物がさらなる強者の魔物を信頼しているのだ。その姿を見れば、牛さんは信頼におけるのだ。
コボルトは尻尾をふって、牛さんに対し敬服している。
わかりやすいからこそ、牛さんは自制する。
成長のため、環境に適応するため、必要な措置を応じる。
自分のためでありながらも、相手のためにという思いで閉じ込めた。
牛さんは彼のところへ戻っていく。その背に尻尾をふりながら追従するコボルト。気付かれないよう、気配をさぐり、振り返ってはコボルトのことを視界で確認。
きっと牛さんは誰よりも険しい顔をして、誰よりも優しく身内を守る。その感情はトゥグストラにあっても薄い感情だ。彼と出会う前には一切なかった。仲間のなかでも、関係の深いものにしか浮かばない思い。野生のトゥグストラはそういうものだ。人に飼われることも制御されることも望まない、自由に平原を我が物とする魔物。
自由とは自分勝手に生きる。それがトゥグストラ。それでいて仲間内で行動するのは、一応は弱い子供のためでもある。されど弱すぎれば、切り捨てられる。怪我をしたら切り捨てられる。動けなければ価値はない。子供のトゥグストラですら、弱った大人を捨てる。産んだ親も弱った子供を切り捨てる。
非情な生態がトゥグストラである。
そのなかで多少は感情に恵まれたのが牛さんである。そして怪我をしたのも感情による弱さを見せたからだ。平原を我が物顔で謳歌するトゥグストラの集団。そのさいに森から出た大型の人型モンスター、オーがと遭遇。鬼の体を持ちながら、力はトゥグストラよりも強く、器用さも高い厄介な魔物。人よりも体格4割増しにしたであろう巨大な肉体から放つ、一撃は並みの魔物を粉々に砕く。
そのオーガの群れと遭遇。トゥグストラから見てオーガは厄介者であり、オーガから見てもトゥグストラは厄介な魔物。仲間意識がないくせに、ある程度は共存するトゥグストラ。仲間に優しくもない魔物は、よそ者には激しい敵意を向ける。オーガ一体よりは弱いくせに、集団で突進による攻撃、頭部の左右にそれぞれ生えた巨大な角。それは突進の勢いをもてば、オーガの肉体すら貫通する破壊力を持つ。
弱みは見せられず、仲間がやられても切り捨てて攻撃を敢行する先頭集団。それがトゥグストラ。
オーガは自分の仲間だけには、優しい意識を持つ魔物。相反するのだ。
そうして戦闘が起き、牛さんはオーガの一撃を食らった。だが牛さん自体は受ける要素はなかったのだ。ただ仲間の子供のトゥグストラが攻撃を受けそうだったから、無理やりかばっただけの負傷。それは牛さんだけが持った、トゥグストラにしては強い仲間意識。子供に向けられた一撃を、オーガの前に無理やり割り込む形で受け止め、そのくせ器用に足で子供を蹴飛ばし安全圏へ。
そうして攻撃を受けた。
オーガの攻撃を受け、耐えらえるほどトゥグストラは硬くない。だから負傷したのだ。
助けられた子供は、助けられたことを知っている。だが牛さんを見て、オーガを見て、即座に切り捨てた。そこに感情はない。本能による切り捨ての姿勢。牛さんはそれを知って、残念な気持ちは持たなかった。仲間を助ける意識はあっても、それ以上の先にある悲痛な感情を持てなかった。高等な知能がもたらす感情を知らないのだ。ただ切り捨てられた事実だけが牛さんにはあって、何にも思わなかった。
それがトゥグストラの宿命。
突破、突撃、破壊、蹂躙。
暴走する破壊兵器という異名を持つトゥグストラの生態。
だが、オーガは攻撃をして尚、負傷した牛さんに対し手を出さなかった。そのオーガは手にした棍棒を振り上げたまま、動けない牛さんに対して何もしなかったのだ。
今思えば、オーガから憐れまれたのだ。
仲間を助け、その助けた仲間から切り捨てられ、なおかつ捨てられても何も思えない哀れな魔物。
そのオーガは負傷した牛さんの腹部に足を下に食い込ませるようにし、蹴り上げた。むろん怪我をさせようとしたわけでなく、飛ばすようにして蹴り上げた。戦闘区域からの強制離脱をさせられたのだ。
慈悲である。
オーガは仲間だけは大切に思う種族。
またトゥグストラの肉体は食うに値しない。硬く、毛皮も分厚く、味もまずい。食えば食うほど、喉を窒息させるかのような、自己主張の激しい硬い肉。かみ砕くにはオーガの歯をもってしても無意味。
食欲の関係ではない。
殺しても、殺さなくても、価値がない。
ならば生かしても損はない。
だから牛さんは生かされ、そしてほかのトゥグストラは突進を敢行。オーガの群れに一体ずつ駆逐され、本能が逃避を促したころにはオーガの優勢に向かっていた。逃げようとするトゥグストラをオーガは囲んで逃がさない。むろん逃げたものもいるが、逃げられなかったものが大半。
逃げなかったのもいる。
知能がない。
知能が生み出す、感情がない。
本能だけの獣のなかで、唯一感情を持てた牛さん。仲間を守り、負傷し、切り捨てられた牛さん。
殺されたのは結局、ただのトゥグストラ。牛さんが助け、切り捨てた子供も勿論殺された。逃げようとした一体であれど、とくに目をつけられて殺された。ほかのトゥグストラが一撃か二撃によって沈められたのに対し、その子供だけは何度も殴られた。
むろん、牛さんは見えていて、吠えた。
制止する鳴き声であったと思う。今思えばの話。
だがオーガは牛さんをちらみと見て、結局子供を殴り続けた。息をすることも荒々しくなった子供のトゥグストラ。その際永遠と思えるほどに牛さんは吠えた。オーガに対してでなく、子供に対して。
そうするたびにオーガは子供を激しく攻め立てた。
哀れな魔物が、切り捨てた子供すら庇おうとする図柄。オーガは、心を鬼にし、とにかく子供を殴り続けていた。トゥグストラとオーガは深い因縁がある。お互いがお互いを食欲として見ずに、敵として見る関係。それは人間と人間の戦争に似ている。食うわけではないが、殺し合う。人間の場合は、同族同士。この場合は同族と他種族でしかない。
だからきっと牛さんは思っている。
オーガは牛さんのために、子供を殺した。
仲間を大切にできない奴は、仲間を大切にする奴によって甚振られる。それが相手の仲間内で結束を高め、更なる成長を運ぶ。オーガにとって成長の糧、そして牛さんを助けたのも成長の糧。唯一仲間を思いやれる牛さんを生かすことで、トゥグストラの成長を促す。いや制御を促す。優秀な魔物を殺すことで相手の勢力を弱めることができるが、牛さんを生かすことで制御装置が出来るかもしれない。その制御装置は、本能による暴走を多少は緩和させるかもしれない。
だから牛さんは生かされた。
その際他のトゥグストラの遺体は全部オーガに持ち替えられた。
トゥグストラの死体をオーガが両手で持ち上げ、子供のオーガですらトゥグストラの子供を持ち上げて掲げる。また知能があったため、運べない数の死体にヒモをつけ、オーガの腰に括り付けた。両手と腰で死体を運ぶ。そうして群れの死体は連れ去られた。
残ったのは牛さん。
怪我をしたままでは長生きできない。
動けない。
そのまま2日がたった。その間に大雨が降った。平原に満ちた血肉や腐臭が大雨で流された。その雨を負傷した身で必死に受け止めた。辛い感情がない。強い感情がない。思うところが一切ない。このまま死ぬ。そのときにすら感情が生まれなかった。
負傷した箇所から、虫が湧く。
負傷した箇所の肉が腐っていく。だから虫が湧き、負傷した箇所を食らっていく。
もう終わる。
牛さんが覚悟したときだった。
森の中からあるものが現れた。感情も気配もなく、死んでいるかのような生きたものに出会ったのは。むろん、彼である。だがそのくせ、あのときの彼は強すぎるほどの感情の渦を周囲にばらまいていた。人間は感情を強く持ち、魔力を引き寄せる。されど彼のように強い感情の渦をもちながら、魔力がない人間はいない。歪だった。
人形のくせに、感情があり。
生きているくせに、死んでいる。
心があるくせに、牛さんに対して、何も思っていないような表情。
死体も、負傷した生物も、どんなものも迷わず見なかったことにする彼の存在。まるでトゥグストラの存在が人間の姿をしたようなもの。
だからか、牛さんは同族に出会ったかのように鳴いた。
一匹でも耐えれた。あのまま死ぬことなど容易かった。
だが無理だった。本能があっても、牛さんには感情が多少あったのだ。生きたいという感情があったのだ。それでいて、同族のような他種族にあってしまった。だから必死に命乞いを彼に訴えた。2日と半日。彼が好きな数字の3というものにして、満たさない期間。
必死に鳴いて、彼に媚びをうった。
そうして彼は頷き、再び森の中へ戻っていた。
あの祭、なぜか牛さんは安堵していた。森の中に消えた他種族など本来ならば危険に思うのであろう。感情があればだ。だが、牛さんは安心していた。これで助かる。もし助からなくても、一匹ではない。見取ってもらえる。
ただ空しく終わる死はない。
記憶に残る死となる。
だから待った。
そして、彼は戻ってきた。
手にした黄金の果実を手にしてだ。
黄金の果実にはたくさんの魔力が詰まっていた。たくさんの感情がつまっていた。牛さんが負傷して、視界がまばらでもわかる。視界の標準がずれるなかでも果実だけは見放さなかった。そのときは気付かない。
必死に果実を見つめ、そして彼はためらいもなく牛さんに食わせた。
牛さんは、トゥグストラの本能としては、口元に果実をもった彼の手ごとかみ砕けばよいと訴える。されど感情として、助けてくれるものを傷つけてはいけない。二つの相反する思いがあって、感情がかった。黄金の果実を一口、彼の手を噛まないようにし、牙で小さく器用にかみ砕く。甘味はない。旨みはない。だが一口のなかに詰まった魔力が、牛さんの体を満たしていく。一口に詰まった感情が牛さんの本能を書き換えていく。文化、知識、感情による制御。理性による質の高い欲望。感情がないのでなく、感情を極限にまで理性で押し殺しているだけの人間。
それが牛さんにはわかった。
黄金の果実の正体もかめばかむほど、わかっていく。
これは彼の力の源。現に最初に出会った時にあった感情の渦はなくなっていた。魔力を引き寄せるものは一切ない。その感情の渦は一つの果実に収まり、引き寄せられた魔力もまた果実の中に封印された。
そして、それを牛さんが食べた。
彼のイメージ、本質、思い出。それらが黄金の果実に濃縮された思いから牛さんに伝わっていく。どういう人間かも知らされる。服という文化、武器という文化、言葉という文化。とにかく彼がひとつずつ大切にするものを食べるたびに、牛さんに伝わっていく。
本能の中に感情があったのが、感情の中に本能がしずんでいる。
そういうものに牛さんは成っていた。
あのとき果実を食べなくても、牛さんは彼だけは攻撃しない。牛さんには仲間思いの意志があったからだ。感情があったからだ。だが、それ以上の場合はわからない。彼のことを思って、勝手に暴走していたことだろう。もしほかの人間と目が合った場合、それだけで暴走していたことだろう。牛さんという愛称もなく、ただの暴走した魔物として彼から評価が降りていたことだ。
そういう魔物を引き連れた彼。
トゥグストラは魔力抵抗が強いため、制御も出来ない。教育による知能も期待できない。
そういう魔物を制御し、なつかせた彼のことを甘く見ることができないのはそのため。
牛さんが我慢すればするほど、彼は人間から評価される。それを気付いたのも果実のおかげ。彼が持っていた感情の力、感情からなる節度。彼が学んできた常識。それらを牛さんはイメージとして全て受け止めた。記憶などは牛さんに伝わらずとも、彼が大切にしていること、必要としていることだけは牛さんにはわかる。
牛さんが気配を隠せるのも、彼が普段気配を隠しているからだ。
彼が出来ることは、牛さんは劣化であるができる。回復力も果実からなる感情と魔力の質によるため。
彼の力を劣化したとはいえ、受け取った。もともと、彼の力は回復力と気配に関して特化したものであった。その異質的な力は牛さんに渡すまでは、時間がたてば彼のものだった。だが、それを彼は放棄し、牛さんに明け渡した。
むろん強いわけではない。
最強にはなれず、強者になるほどでもない彼の力。
元々が弱いのに、力があったからといって強くなるわけでもない。使いこなせなければ宝の持ち腐れ。使いこなしても、そもそも強さに結びつく類のものですらない。誰かの幸せを連れてくるわけじゃない。しょせん自分勝手の、自分だけに作用する力。
そんな力であっても、牛さんからすれば強すぎる力。
彼に残ったのは感情を制御する現代人としての力。牛さんはそれを現代人というワードはわからないでも、感情にたけていることだけはわかっている。魔力も作れず、そのくせ理性で感情を制御できる歪な人間の誕生。感情は魔力を引き寄せるくせに、感情だけがある人間。それに悪意は群がって彼の片目に閉じ込められた。
あの炎は彼のもとに集まった悪意のもの。
そして彼が集めたのだから、牛さんが使用する権利をもつ力。彼は使えないが、牛さんは使える変わった関係の共存。牛さんが彼を信じ、彼が牛さんを信じる本当のもの。
誰だって自分のことを信じている。否定した前提であっても、結局他人を見下すのは自己のため。相手が優秀であればあるほど、見下すのは自分のため。相手の都合の悪いことを、自分が都合悪いから利用してネタにして誤魔化す。
牛さんは彼を大切に思っている。牛さんはわかっている。彼もまた牛さんを大切に思っている。それは自分だからだ。彼の力を、受け継いだ牛さん。牛さんから見ても彼から見ても、他人でなく自分。自分の為に存在し、相手のために存在する関係。
すごくこじれて、面倒な関係の牛さんと彼。
そして穏やかな時間が過ぎていく。
郊外の中で住居がちらほらと見えてきた地点。この区域に住むのは人混みが苦手な人間か、歳をとって静かに暮らしたい人間。家族すらおらず、一人で暮らすものか。
治安は悪くない。そもそも彼がこの町に君臨してから、この町の治安は劇的に改善されている。ニクス大商会による経済圏の圧政。その圧政は邪魔者を住人自体が矯正、もしくは排除を勝手にさせる。理想の住人に近づけば近づくほど、よい就職先や安定した環境下にいける。できなければ、という考えはない。
できる。やらせる。本人の意思など関係なく、やらせる。そして、大体ができる。できなければ、できるまで環境という圧力にてやらせて、成功させる。その成功させた実績で、相手に反発する心を殺させ、自信を植え付ける。皆、最初は適応できなくても、できさせる。
これが彼が君臨してから起きた事。彼は実際何もしていないが、牛さんもわかっている。だがこのやり口は彼が権力者であれば、やっていたことかもしれないのも事実。平和であれば、人が死ななければ、こういうやり方もあったであろう。
誰かが彼のやり口を、過激に表現したのだ。
その誰かは予測できるが、あくまで予測。牛さんの中には答えがある。どうせ雲でろう。ほかの魔物は気付かない。牛さんが勝手に予測しているだけのこと。この町は彼を中心にまとめた檻なのだ。彼が本当の意味で思い描いた理想の環境。
誰かが誰かのために、圧力をかける環境。相手を追い詰めるのでなく、成長させるために寛容を持つ環境。邪魔ものすら更生すれば、戦力にさせる、社会復帰システム。理不尽さを許容しつつ、それを上回る利益。人の心を大切にする社会で、誰かの心を見なかったことにできる、変わった社会構造。
彼が持つ理想は。
ねじまがりすぎて、腐りきっている。人間が都合の良いものを描くのと同時に、都合が悪いことも訪れることを描く。必ず旨みだけでなく、苦渋を味わわせ、心に負担をかけてほしい。自分も他人もそういう、疲れてしょうがない環境を求めている。そのくせ自由を求めている。
笑って、泣いて、悔しがって、苦痛があって、悲劇があって、退屈があって、暇があって、焦りがあって、堕落があって。
理不尽な人間の対比があるべきと思っている。格差が必要だと思っている。頑張ればよいという考えでなく、結果だけ出せばよいというものでもない。努力はあくまで、自己投資のようなもの。結果は投資の実績のようなもの。
人間の価値にそこまで差はない。生きているだけ、個人が頑張ろうと失敗しようと日々は回る。遊んでいる人間も働く人間も過ぎる一日は同じ。誰かが死んだ日は、誰かが遊んだ日。誰かが理不尽な目にあった日は、誰かが笑っている。
理不尽なまでの対比をしてほしい。それが彼の隠す、腐った部分。この町はきっとそういう部分が強く出ていた。
それを牛さんは許容して、受け止めている。
あくまで穏やか。
あくまで平和な町の一幕
そんなはずだった。コボルトが急に足を止め、牛さんが気配を察知。コボルトが足を止めたことに対し、牛さんが確認のため視線を向けようとしたときだった。
「わんわんわん!!!」
大きなコボルトの遠吠え。必死な叫びのような、耳を突き刺す警戒の音。仲間に伝える危機情報。だからか牛さんはすぐさま周囲を見渡した。コボルトは危機的な場合、仲間に鳴いて情報を伝える。自分の場合、仲間の場合、敵対者が襲来した場合。必ず情報を流す。
この場合は牛さんに対し、伝えてきた。牛さんは軽く前をみたまま、足だけで後退。コボルトの傍へ寄り添った。
じゃりじゃりと石を足裏でこする音がする。数は一人。牛さんの正面から音の正体が近づいてくる。この音は人の歩く音。わざと音を出し、教えているのだ。牛さんが態勢を低くし、正面を睨みつける。その相手が、ゆったりと歩み寄る。金の長髪を地面にまで流し、太陽の光がそれに反射するほどの輝き。服装は魔法使いが使う、黒の法衣。右手の指をくるくる回しながら、にったりと意地悪な笑みを浮かべた男。
男である。優男のように細く、されど残酷なほどに知的性を感じさせる。
牛さんは動かず、警戒を。
優男はゆったりと歩み寄る。
やがて距離が近づいた。優男は左手を後ろに隠すようにし、右手の指を虚空に描いた筆のように回す。
「わんわんわん!!!!!!!!!!!!」
コボルトは大声で鳴く。牛さんの傍で騒ぎ、飛び跳ね、何度も牛さんの体に肉球を叩きつけている。手加減などはされていない。牛さんという上級の魔物でも、理性を飛ぶほどのことがコボルトの中で起きている。あいにく牛さんは警戒するので精いっぱいだった。だが、わからなくもない。
目先の優男は少し鼻に来る。きついほどの独自の臭いを感じる。かつて自分の肉体から出ていたことを思い出す。
優男は首を傾げて嗤っていた。
「は~~~じ~~~めまして。じぶんこ~~いうものです」
優男は右手の親指を自分の顔に向けた自己紹介をした。されど警戒した牛さんからは表情の変化はない。そんなのはわかっているし、興味がないのはお互いさま。
「つれないですねぇぇ。わかっていますとも、わかっていますとも。手土産がないとダメなんでしょう?ちゃんとあげます。ほらやるからもらっておきなさい。ぐへへへ」
そして隠された左手が勢いよく物を放り投げる。牛さんの足元に転がるように、だ。その飛来したものの数は二つ。だが空を飛ぶ際、赤をまき散らして旋回していた。新鮮なのがわかるようなもの。生もの。
牛さんは目を点にした。
コボルトはそれを見て、声にもならない悲鳴をあげた。牛さんの背を強くたたきだした。
足元に転がったのは、ゴブリンの生首二つ。その顔は野生のものではない。特徴は見慣れたものだ。
耳がないゴブリンであれど、手先が器用。頬に傷があって、片手がないゴブリン。彼の仲間のゴブリンの姿。それが生首から生前の姿を思い起こす。
彼のゴブリンは3体。そのうち2体は殺されたという事実。
「素晴らしいお土産!!!よろこんでください!!ただ、もう一匹もお土産にしたかったんですが、すごいですねぇ。逃げられちゃいました。ゴブリンって逃げることはあるんですが、逃がしたことないんです。自分、獲物は逃がさないタイプの優しい人間なんです。でも、逃げられた。くやしいなぁって思います。だから次は殺してお土産にします。お近づきの印です。うれしいですか?うれしいですよね?喜んでくれますよね?ああ、喜んでくれて結構です」
コボルトは何度も牛さんを叩き、牛さんは受け止めた。急な仲間の死など受け入られるほど、関係は薄くない。彼の魔物として、それなりに協調して、共存してきた関係。その理不尽な現実を突きつけられたものを、何もせず受け止めることなど不可。
「逃げたゴブリン、あれは状況を解釈して、仲間に伝えようとする、伝令のようなことをしていました。いつから、ゴブリンは人間臭くなったのでしょう?いつから低俗な下等生物が、仲間意識などをもったのでしょう。貴方も同じ。トゥグストラのくせに、仲間意識があるなんて頭がいかれている。自分は常識人ですが、貴方方は違う。芸術を愛し、人を芸術に変え、名を刻み続ける。人が一歩踏み出すのに必要なものをとろうとしているだけ。それなのに貴方方は邪魔をしてくるんです」
優男は嗤ったまま。
真っ赤にそまった左手を握りしめた。
「邪魔なので、報復いたしました。てへへへ」
牛さんの怒りが、強く歯をくいしばる形となって表れる。呪いが強くおきていて、力を十分に発揮できない。体調が思わしくないのに、動けばコボルトすら危険にさらす。死んだ仲間、生きている仲間。怒りに任せて、守る相手、向ける保護を忘れてはいけない。牛さんは自制した。
強く自制した。
「やっぱり、トゥグストラが仲間のために殺気をむけるなどおかしい。ああ、自分がおかしくないことが証明されてしまった。自分は悪くない。くるっていない。常識の中で、当たり前をする自分が非常識みたいに扱われる世界。ちゃんと見れば、こんな魔物もいる。伝令のようなゴブリンもいる。そうなると自分が身代わりになって、非常識なやつの尻拭いをさせられているのではないかと思います」
理不尽だと、優男は瞼を手で押さえた。真っ赤な左手で血が顔に付くのをためらわず。
「ああ、安心してください。自分、貴方方は殺しません。そもそも殺せません。人形を燃やし尽くされてしまった以上、ここで貴方方を殺せるほど戦力なんてないです。現地調達にも限度がありました。ここら辺の隅っこに住む人々を人形に変えて襲わせただけなんですねぇ。だから、許してねという詫びです。それにただ、会いたかった。人形を通してみる世界より、直接みる世界のほうが美しい。でも実は直接見ることなんてできないんですけどね」
今度は真っ赤にそまった左手を口元に添えた。瞼に赤の血。口元に赤の血。べったりと化粧のように赤が着く。
「伝えたいことがあります。これ以上邪魔をすれば、ただでは済まない。どうでしょう、脅しになりましたか?常識的な脅迫になりましたか?教えてください。伝えてください。考えてください。これこそが・・・」
その続きを言う前に。
優男の体が瞬時に細切れになって、頭部が飛んだからだ。腕もみじんぎりに、体も千切りに、頭部だけを残して肉体はばらばらになった。それを成したのは、見れば気付く赤い糸。もともと気付きにくい糸を赤が染色し、正体を見せた。
これで静かになるはずだった。
「あらあら酷いことをする。暴力反対。いきなり不意打ちで攻撃するのは最低な非常識です。抗議します。厳重注意です」
頭部になっても、会話が続く。
「実は、これも人形だったり。ふへへへへへ」
だが牛さんが続きを言わせなかった。牛さんはコボルトを視線で促し、歩み出した。びくつきながら、泣きながら付いてくるコボルトを背に、牛さんは頭部の方へ。足元の頭部に対し、前足を大きくあげた。
そして振りおろした。足元にぐちゃぐちゃと潰れていく感触を残しながら、静かになった。